一話
「はあ~、今日もがんばりましたよ~っと」
関東の南部のとある都市のとあるアパートの一室からこの物語は始まる。ここの部屋の主の男はスーツ脱ぎネクタイに手を掛ける。ふとベットの横を見れば、今朝倒したままになっている目覚ましに眼が止まる。
現在の時刻はあと一時間足らずで水曜日が終わると言っていた。
「あちゃー、今日水曜だったか・・・・・・」
そう言いながら、視線を落とし自らの姿を見る。下は靴下にボクサーパンツ、上は裾の垂れたYシャツと少しだけ緩んだネクタイが覇気なく垂れ下がっている。
社会人を十と余年続けているとは言え、なんとも情けない姿だ。早々に部屋着へと着替えたいが、時計の針は水曜日の終わりへと着々と進み続けている。
男は諦めたようにため息を一つ落とすと、パソコンを起動し軽快な音とともにパスワードを叩く。パソコンは短い運動音を残しディスプレイに青色を浮かべる。
ブラウザを立ち上げ目的のサイトへと走るようにマウスを動かす。
そのサイトは数ある小説投稿サイトの一つ。そこそこ古いが手軽さと投稿された小説のお陰で小説投稿サイトと言えばくらいの認知を得ている。
自分のアカウントにたどり着くと、急いで新規執筆のページに滑り込む。
「よし、今日最後の一仕事だ」
その言葉を残し男は自らの物語の世界へと旅立っていく。パスワード入力のときとは比べ物にならない速さでキーボードの上を両の指が踊りだす。
時々舌打ちとともにバックスペースするのはご愛敬。それでも文字は順調に積み上がっていく。3000を越えたところで、手が止まる。
机を爪でコツコツと鳴らすと、除けてあったタバコへと手を伸ばし無意識の所作で火をつける。
紫煙を2口吐き出すと灰皿にタバコを置き、手がキーボードへと戻る。
再び動き出した手は次第にテンポアップして行く。まるでアップを終えたスポーツ選手が走り出したかの様な差で、先程よりも数倍の速さで文字を積み重ねていった。
1万5000文字を越えたところで、男の手が止まる。
マウスで半分程度を切り取り、新規の窓から再び小説投稿サイトへと戻り新しい新規執筆のページを開くとそこに先程の切り取り分を移し、元の窓に戻る。
残った前半部分を流し読み、目立った誤字がないと確認するとタイトルを付けて、連載中の物語に新しい場面を追加する。
「よし、2分前に投稿完了っと。……誰か読んでくれます様に」
そう言いながらディスプレイに祈り、残った作業を済ませてパソコンを眠らせる。
「風呂でも入るか、……いや、時間的にシャワーかぁ、湯船が恋しいなあ」
その言葉を受けてくれる者は誰もいない。しかし一度空いた口はなかなか閉じることはなかった。
男の名は佐川 主。両親は物語の主人公のように輝く人生であってほしいと主と名付けた。しかし両親の願いとは裏腹に30を半ばまで終え、物語のような劇的なイベントもなく、見目麗しいヒロインと出会うことも、いや、見目麗しい女性はいたがその女性は誰かのヒロインであり主のヒロインにはなってくれなかった。長く独り身でいると緩やかに孤独への耐性が弱くなってきているのを自覚する。冬の寒空を思えば人恋しいと思えども主にはそれを埋めるすべを知らない。
勉強が、仕事が、時間が、出会いが、言い訳は冬の星空ほど出てくるが所詮は言い訳でしかない。
結局は自分から一歩、いや、手すら伸ばすことをしなかった自分の勇気の無さが原因だ。主はそのことをよく知っている。しかし、彼にはどうすることもできない。
ふと、足を止め周りを見れば自分よりよっぽど主人公然としている人は、掃いて捨てるほどいて、ちょっと上を見れば周りよりもっと主人公らしい人物がいて、世界を見れば日本国内の主人公たちが霞んで見えるような主人公さえいる。そして足もとを見れば主人公の足場を支える果てしない数の人々がいる。
前を見れば暗く、果てしない道なき道が広がっているだけ。道しるべさえ通り過ぎないと見えない。
後ろを見れば眩しかった何かがそこにあるが、もう取りに戻ることもできない。
主は次第に進むことが恐ろしくなっていた。変化に対する恐怖が刻一刻と大きくなるのを眼にしてしまった。立ち止まっているつもりでもまるで横スクロールのゲームのように、時間は消費されていき1年が徐々に光速へと近づいているのを体感していた。
そんな中見つけたのが、小説投稿サイトだった。小説を書いているときはまるで時間を自由にできるような感覚に陥り、どんな変化にも恐怖を感じることはなかった。
小説を投稿し始め3年が過ぎると、そこそこの人数が読んでくれ感想などをもらうことができ高揚感をもらうことができた。
その高揚感が忘れることができず、毎週水曜日と土曜日の2回投稿し続けてきた。
何より毎回投稿の数時間後に感想をくれる読者がいたのだ。アカウント名『結び目』というただの一人のファンが主の投稿の原動力になっていた。
思い付きで始めた投稿者アカウント『@滴主水』のSNSもフォローしてくれ、投稿サイトにもSNSにも毎回感想を書いてくれるという熱狂ぶりを見せてくれる。
そんなファンがいてくれることがうれしく、誇らしい主は小説投稿にのめりこんでいった。
しかし主は知らなかった。知るよしもなかった。
自分の熱狂的ファンが、誰であるのかを。
「うわ、白髪いるわ」
知らないのであった。