後編
武器を手にした事でいくらか冷静さを取り戻したあたしは、警察官が迎えに来るまでの間、非常時の対策を考え続けていた。
ライオンマスク男の話がもし本当なら、もうひとりのタヌキマスクの相方は単なる雑用係で、自分の罪に証拠が残らない様にする為にも、実際に手を下させる事はないんだと思う。
そうなると、理屈としては1対1。
車、武器、そして頭を上手く使えば、警察官より先に男が襲って来ても、あたしに勝機はあるはず。
少し肌寒いけど、あたしは制服のブレザーを脱ぎ、縦にした足元の工具箱に被せて自分のダミーを作った。
割れた窓から車外を眺めて周囲を確認し、男の姿がまだないと判断した瞬間、あたしは車から降りて急いで後方のトランクを調べる。
鍵は開いているし、空っぽの状態だ。
トランクを完全には閉められないけど、武器を持ったあたしが隠れる事は出来る……よし!
軽自動車に近づく、人の顔の高さくらいの小さな灯り。
恐らく誰かが、ヘッドライトみたいなものを着けてこっちに来ているんだと思う。
問題は、それが警察官なのか、殺人鬼なのか。
よく見ると、ライトはひとつだけ。
殺人鬼のいる現場に、警察官がひとりだけで来るなんて事あり得ない!
来たのはあの男だ! 全身に緊張が走る。
「……おい、疲れて寝たのか? ま、それならそれでお別れだな!」
マスク姿の男は、特に興奮した様子もなく極めてビジネスライクに、裏を返せば、もう殺人にもすっかり慣れた様子。
新たに持ってきたと思われる、長いバールの様なものを両手に構え、首ごと狩り落とす様なアクションから、容赦なくブレザーともども工具箱を破壊した。
「……ん!? この手応え、人間じゃないな。あの女逃げたのか!?」
……今だ!!
「はああぁぁっ!!」
あたしはトランクを蹴りあげて車外に飛び降り、バールの引き抜きに手間取っている男の後頭部を、ラクロスのラケットで思いっきり殴打する。
「……ぐおおっ……! てめぇ!」
細い木製とは言え、不意打ちからラケットを叩き折る程の一撃は効果てきめん。
僅かに出血し、怒りより前後不覚の症状が上回る男は、ふらつきながら地面に膝を着いた。
「その凶器を捨てなさい!」
女のあたしから見て、何はさておき警戒するのは男の体力と凶器。
あたしは折れたラケットを捨て、右手に構え直した鋸をちらつかせ、男に凶器を捨てる様に要求する。
「……くっ、うるせえっ!」
男はふらつきながらも立ち膝の姿勢を取り、バールの様なものを強引に振り回した。
「……痛っ……! くそ……あんまり舐めんじゃないわよ!」
不意を突かれ、あたしは左足首を叩かれた。
でも、部活で鍛えた反射神経とジャンプ力で直撃を避け、着地と同時に男の左手首を踏みつける。
「がああっ……!」
男の悲鳴が轟くこの状況下で、自分でも怖い程冷静に、そして残虐になっていたあたしは、男が立ち上がって襲いかかってくる危険性を少しでも減らす為、相手の脛から下を鋸で叩く様に切りつけていた。
「……ぐっ、ぎゃああぁっ!」
立ち上がるどころか、立ち膝の姿勢すら保てない男は激痛に顔を歪め、地面にうつ伏せに倒れ込む。
もう警察に知らせているし、凶器を持った動物マスク姿の男、そしておじさんの頭の傷とハンマー、バールに貫かれたあたしのブレザー……。
無我夢中で男を切りつけるあたしの脳裏には、正統防衛が絶対に成立するという確信が渦を巻いていた。
パチパチ……
顔に返り血を浴び、肩で息をするあたしの背後から突然聞こえてくる、拍手の様な物音。
警察官なら、こんなふざけた出迎えはしない。
タヌキのマスクを被った、もうひとりの男が、相方の窮地を優雅に鑑賞していたのだ。
「ガキだと思っていたら、なかなかどうして。こいつもヤキが回ったか、可愛い見た目に騙されちまった様だな」
勇ましいライオンのマスクを被った主犯格の男に比べて、この相方のタヌキマスクは随分と間抜けに見える。
何、こいつ。仲間じゃないの?
「……相方が痛めつけられてるのに、随分薄情なのね。見た所、あんたは悪さが出来ない立場みたいだけど」
タヌキマスクの男は、あたしの推理に両手を広げて感服のジェスチャーを示した後、これまで手を貸してきた、ライオンマスクを被った相方の凶器を無情にも遠くへと蹴り飛ばす。
「……お前も聞いたかもしれねえが、こいつはこの世に存在しない事になっている。だから、お前がこいつを痛めつけようが、殺そうが、罪には問われねえよ。もっと正統防衛をエスカレートさせて、こいつを殺しちまえば、むしろ警察の上層部から感謝状が貰えるぜ。目の上のたんこぶを始末出来たとな」
思わぬ不覚に肩を震わせてうなだれる、ライオンマスクの男。
そして、タヌキマスクの男は、全てを知り尽くした上でひとりの男の転落を楽しむ様な、甲高い笑い声を上げていた。
「……あ、あんたら……狂ってる!! そもそも、あたしやおじさんを襲った理由は、一体何なの!?」
「理由? そんなもんねえよ。使える枠が残っているなら、使わなきゃ損だろ? ポイントみたいなもんさ」
闇夜を這い回るのは、歪んだライオンマスク男の執念だけではないらしい。
タヌキマスク男の、どうしようもなく乾ききった人間性に、あたしは戦慄と慟哭を抑える事が出来ない。
「警察だ! 動くな!」
恐怖の沈黙を打ち破るかの様に、眩しいライトがいくつも照らされ、電話で聞いた声を含む若い警察官5名が、一斉にマスク男2名を包囲する。
「……懲りもせず、また若い警察官か。分かった分かった、捕まってやるよ……」
あたしやおじさんへの態度が嘘の様に、マスク男2名は無抵抗のまま警察官に拘束された。
まるで、何度も逮捕されているから慣れている、みたいな素振りを見せながら……。
「中畑巡査です。お怪我はありませんか? 事件の参考人としての聴取は、後日連絡させていただきます。暫くはゆっくりお休み下さい。もう1台のパトカーで、ご自宅までお送りします」
中畑巡査は、電話のイメージ通りの実直なタイプの青年で、あたしはようやく身の安全が保証されたと確信したのか、それからの事は……あまり覚えていない。
あれから、心労で暫く学校を休んでいたあたし。
復学後は、マスク男を殴打してしまったトラウマからラクロスが出来なくなり、部活を辞めた事で友達とも疎遠になってしまった。
一足先に病院に搬送されていたおじさんは、結局出血多量で死んでしまい、ワイドショーのネタになる事を恐れたのか、おじさんの家族はひっそりと夜逃げしたらしい。
あのおじさんが、誰にも看取られずに集合墓地に入れられちゃうなんて……。
そして、拘束された2人の男についての情報は、マスコミには勿論、被害者のあたしにも「捜査中」の一点張りで、一切知らされる事はなかった。
いや、マスコミには知らされていて、それでも報道出来ない事情があったのかも知れない。
意を決して、中畑巡査ら現地にいた警察官を訪ねようとしたけれど、関係者は全員、行き先も明かされずに異動させられている。
お母さんとお父さん、友達や高校の先生は、事件と犯人を忘れる様に気遣ってくれた。
でも、ふさぎこんで人間不信に陥ったあたしは、もう確信していた。
ライオンマスク男の過去は、真実であると。
殺人ゲームしかする事のないあの男は、また例の跡地に放たれる。
そして、あの男の人生に同情するふりをしながら、実はあの男を翻弄して楽しんでいる悪趣味な仲間達が入れ替わり立ち替わり、時には手を貸し、時には見放して今も遊んでいるのだと。
あたし達が普通に暮らしていたら、まず出会う事のないおかしな世界で、人々の怒りや憎しみがやがて、悪意に飲み込まれていくのだと……。
どうしようもない経験だけど、この事件でひとつだけいい事があった。
ラクロス以外、特にやり甲斐や目標を持っていなかったあたしが、本気で大学進学を目指す様になったのだ。
その志望校には、未解決事件や警察による冤罪を研究し続けている、元警察官の客員教授がいる。
あたしの人生を変えた事件の真相に、少しでも近づきたい。
そして、都合の悪い真実から目を背け、必死にかくれんぼを続ける偉い人間の正体を、少しでも突き止めたい。
「お嬢ちゃんがこんなもの買うなんて、珍しいね。お父さんの日曜大工かい?」
ホームセンターの中年店員さんは、折り畳みの鋸である『ラバーボーイ』を買うあたしをまじまじと眺めていた。
何だかんだで、あたしはおじさんに縁があるんだなと感じる。
「……今、日曜大工なんて言葉、使わないんですよ。DIYって言うんだから」
愛想笑いで、その場を切り抜けるあたし。
懐かしい記憶が蘇り、あたしは半ば必然的に鋸に引き寄せられていた。
めでたく大学にも合格し、お母さんもお父さんも、高校の先生も、あたしがすっかり立ち直ったと信じている。
でも、あたしにはまだ、やらなきゃならない事がある。
例の跡地に行って、あの男を殺さないと。
あの男を殺した所で、あたしは罪には問われない。
むしろ偉い人から感謝され、あたしの知りたい秘密を共有させられるに違いない。
だからあたしはもう、逃げも隠れもしない。
自分の過去に脅されて、今もかくれんぼを続ける奴等を追い詰める側の、鬼になる。
あたしが鬼になる。




