中編
脇目も振らずに逃げ回るあたしは、跡地の奥はまるで森の様に草木が生い茂っている事を確認していた。
どうやら大企業の撤退後、この辺りは長い間手付かずの状態という噂は本当だったらしい。
おそるおそる後ろを振り返り、男の姿がないと分かった瞬間、あたしは全力疾走から早歩きくらいまでスピードを落とし、物音を控えて乱れた呼吸を整える。
「はあ、はあ……痛っ!」
スマホのバッテリーをケチって灯りを着けずにいると、あたしの身体は何か固いものにぶつかっていた。
固いといっても、岩や太い木ではなく、もっと滑らかなフォルム……家電かな?
あたしは意を決し、スマホのライトでこの物体を照らしてみる事にした。
冷蔵庫くらい大きければ隠れ場所になるし、テレビやテーブルでも、最悪ハンマーから身を守る盾くらいにはなるだろう。
「……え? これって……」
ライトで照らした物体は、予想以上に大きかった。
これは古い型の軽自動車だ。
故障で乗り捨てられたのか、事故に巻き込まれて放置されたのか……どう見ても動きそうにない。
ま、あたしは免許も無いし、事情を説明しないと運転なんてもってのほか。
「ドア、開くかな……?」
何年も溜まっていそうな埃には顔を背けたくなるものの、ここに隠れる事が出来れば、あの男のハンマーからも少しの間身を守れる。
安心して、お母さんや警察に電話出来るよね。
ギイィ……
開いた! やった!
運転席にはシーツを被った、何か大きな荷物みたいなものが乗っていて、女子の平均より少し背の高いあたしの身体は入らない。
確認するのも怖いし、あたしは舞い上がる埃には目もくれず、ダッシュで助手席の方に転がり込んだ。
「……はあ〜、良かった〜!」
古い型の軽自動車だけに、ドアのロックも窓の開閉も手動式。
これでエンジンがかからなくても、最低限身は守れる。
束の間の平穏に、ほっと一息ついた瞬間、恐怖と悲しみがあたしに襲いかかってくる。
おじさん、あんなに血が出ちゃったら、死んじゃうかも……うっ……何であたし達がこんな目に……。
それにあの男、俺は存在していないって……日本人じゃないの?
慌てて感傷を振りほどき、あたしはスマホで電話をかける。
バッテリーは、まだ35%ある。
余り長電話しなければ、ここで警察が来るまで待ちながら備えられる……といいけど……。
「さくら? 心配したわよ。いつまでウロウロしてるのよ?」
いつもと変わらない、お母さんの声だ。
もうすぐ、お父さんも帰って来る。
当たり前の日常に、涙が溢れそうになる。
「お母さん、大変! あたし今、変な人に襲われたの! たまたま一緒にいたおじさんは先に襲われて、凄く血が出て……それくらい酷いの! まず、警察に電話して、あたしの携帯に連絡くれる様に頼んで! お願い、バッテリーが少ないから!」
我ながら、少しは冷静に話せたと思う。
お母さんは突然の事で勿論慌ててたけど、あたしが車の中に隠れている事を話すと、少し落ち着いてくれたみたい。
「……分かったわ! お父さんにも連絡するから、そこを動いちゃダメよ!」
もっと話したいけど、今はこれが精一杯。
マスク姿の男達が、ただの通りがかりの強盗ならともかく、この跡地に住み着いている人間だったら、この車がある事も知っているだろう。
光と音は、最小限にしないと……。
ドンッ……
風や石ころではない、強い衝撃がシートに走る。
埃を嫌って窓ガラスを拭いていなかったから、外に何があるのかぼやけて分からない。失敗した。
…………?
衝撃が止んだ。
気のせいだったのかな?
それとも、車の中で何か落ちたのかな……?
ドスッ……
いやっ! やっぱり気のせいじゃないよ!
絶対あいつらだ……怖いよ!
あいつらには多分、あたしがここにいる事は分かっているんだ。
でも、いくら怖くても悲鳴を上げる訳にはいかない。
足がガクガクしているし、額の汗が目に入って痛いけど、我慢しなくちゃ。
あたしが黙ってさえいれば、ドアの鍵もかけてあるし、そう簡単には手は出せないんだから……。
バゴオッ……
「いやああぁっ!」
さっきとは比べ物にならない、凄い衝撃。
思わず悲鳴をあげてしまった。
音と衝撃からして、きっとあのハンマーに違いない。
でも、車のダメージはまだ少なそう。
つるはしみたいな尖った凶器じゃなくて、まだ良かったと思う。
「……いるんだろ!?」
バキイッ……
いやっ……やめて!
窓ガラスを叩かれた衝撃で埃が剥げ落ち、ハンマーと動物マスクの男の姿を確認してしまった。
背中に戦慄が走る。
「……やっぱりいたな。聞こえてるんだろ? お前の隣に面白いもんがあるぜ! そのシーツを取ってみな!」
相変わらず、マスク越しの表情は分からない。
でも、今は怖くて何も考えられない。
男の言う通りにしないと、窓ガラスを叩き割られるかも知れない。
その恐怖心から、あたしは黙って、運転席のシーツをおそるおそる外してみた。
「……? ぎゃああぁぁ! いやああぁぁ!」
……これ、人の死体だよ……。
殆ど骨になってるから、嫌な臭いがしなかったんだ……うっ、ううっ……!!
シーツを乱暴に被せ直し、吐き気を堪えてうずくまるあたしの姿に満足したのか、男はハンマーの攻撃を止めている。
はっきりは分からないけど、もうひとりの相方は連れて来ていないみたい。
「……綺麗にミイラになってるな。そいつを殺ったのも俺さ。お前もいずれはそうなる。俺から逃げられない限りな」
マスク越しの表情も、きっと今は趣味の悪い笑みを浮かべているに違いない。
異常な程に落ち着いていて、自分が警察に捕まる可能性なんて考えてもいない様に見える。
何故なの!?
「……あ、あんた、おかしいわよ! あたしだって警察くらい呼んでるんだから! あたしを殺したとして、あんたが無事で済むと思ってんの!?」
勇気を振り絞って、どうにかぶつけた一言。
「……警察が間に合えば、お前は助かるさ。俺も何人かは殺り損ねてるしな。だが、俺は捕まらねえ。捕まったとして、裁かれねえ。俺はこの世にいないんだからな」
男は肩を揺らしておどけて見せる。
この世にいないって……どういう事なのよ!
「知りたいだろ? 教えてやるよ。俺は警察官だったのさ。だが、上の都合で休暇中に無理矢理事件に駆り出されて、現場で半殺しの目に遭った。だが、俺はどうにか生き延びる事が出来て、仲間の力を借りて警察の上層部に復讐しようとした……そこで、奴等は取引を持ちかけてきた」
男は、自ら過去を語りだした。
よく分からないけど、そんな酷い目に遭ったんなら、裁判でもすればいいじゃない!
「……口封じの条件に、俺は死んだ事にされて、法律が及ばない無敵の男になったのさ。例えるなら、野生の熊みたいなもんだな。この土地で暮らす物資は支給され、犯罪も黙認される。ただし、やりたい放題出来るのは1年に3回、社会的地位の低い庶民相手に限定されるがな」
「……うそ……そんな、信じられない……」
男の話を聞いて、あたしは全身の力が抜け落ちていた。
そこまでして隠す真実って、多分警察の権限を超えた、凄い権力の人が絡んでいるんだと思うけど、余計に事が大きくならないの!? それに、取引に乗る方も乗る方よ!
「……話はそれで全てさ。また後でな!」
ガシャアアァァン……
男はハンマーを振りかぶり、容赦なく車の窓ガラスを叩き割る。
慌てて助手席に伏せるあたしの背中に降り注ぐ、大量のガラス片。
ハンマーだからこれ以上奥には届かないけど、いずれはこの車からも逃げないと、他の凶器でやられちゃう。
「やめて……いやぁ……」
男は静かに車から立ち去り、恐怖に震えるあたし。
どのくらい時間が経ったのだろう。
その横でスマホが鳴り続けている事に、慌てて気づいた。
「……は、はい! 吉永です!」
「……あ、さくらさんですね!? お母様から連絡を受けました、県警の中畑巡査です! 大丈夫ですか!?」
……ああ、警察に繋がった!
良かった……ありがとう、ありがとうお母さん!
「……わかりました。確認します。73番バスの終点バス停向かいの跡地ですね。コンビニの入口からまっすぐ逃げて、見つけた軽自動車に隠れていると。すぐそちらに向かいます!」
車に隠れているだけ、まだ心強い。
あたしは出来るだけ冷静に、これまでの状況を説明したものの、どうしても不安は拭えなかった。
「……犯人の男は、自分は元警察官だって……。上の弱味を握っているから、法律も関係ないって言っているんです……」
「そんなバカな話がある訳ないでしょう! 我々は必ずあなたをお守りします! 巻き込まれた中年男性にも救急車を派遣しますから、ご安心下さい!」
中畑巡査の激励に、勇気づけられたあたし。
あんな動物のマスクを被る様な殺人鬼が、元警察官な訳がない。
あたしを絶望させる為の嘘。
絶対嘘よ!
中畑巡査との長電話を終えると、スマホのバッテリーはもう15%にまで減っていた。
ここまで減っちゃうと、もうあっという間。
自分からかけるまともな通話は、多分出来ない。
隣にいるミイラさんはもう2度と見たくないけど、そう言えば建設作業員風の格好をしていた。
あの男にやられて、逃げ込んだ自分の車の中で亡くなったんだとしたら、何か武器の代わりになるものがあるかも知れない。
バッテリーと相談しながら、あたしは自分の足元をライトで照らし、何やら工具箱の様なものを見つける。
「……これは、折り畳みの鋸かな……?」
『ラバーボーイ』と書かれた、ゴム製のグリップと、どうやら替刃らしい鋸の刃が1枚だけ工具箱に入っていた。
「これ、武器になる……。でも、グリップと刃がバラバラだ。どうやって着けるの?」
あたしの武器は、今の所ラクロスのラケットだけ。
でも、細いラケットじゃハンマーに簡単に折られちゃう。
この鋸が使えれば、少なくとも相手は警戒して無謀な事はしないはず……説明書みたいのは見つからないな……。
決心して、スマホを見つめるあたし。
最後のバッテリーは、この鋸の組み立て方の検索に使わなきゃ……。
【ラバーボーイ 組み立て方】
夜はまた、一段深まった。
あたしのスマホも、もう動かない。
今のあたしは、動物のマスクを被った殺人鬼から身を守る為に、この軽自動車に隠れているだけの、弱く小さな存在。
でも、もうこれ以上、かくれんぼは続けられない。
警察官が来る前にあの男がもう一度現れた時には、ラケットと、この手の中の鋸で戦わなくちゃ。
あたしが、鬼にならなくちゃ……!