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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

アルゴスの尾羽根

作者: 茉莉











赤く、紅く、朱く。視界が真っ赤に染まる。周囲の音は遠のき、手足も満足に動かない。

濁る思考の中、ぼんやりと、まるであの子の瞳のようだなと思った。











昔からずっときれいだと思っていた。手に取ればどのような感じなのだろう?どんな色よりも暖かく、硝子よりも滑らかで、何度描いてもどう練習しても満足に描くことができない。


美しくて、きれいで、手に取ってみたくて。欲しくて欲しくて仕方がない。

小さなものから、大きなものまで手を伸ばしては引っ込める。いろいろな枷が欲望のままに動くことを良しとしない。じぃっと見つめるだけで、何とか欲望を抑え込み、カンバスに落とし込むことで自分のものにする。

聖職者を多く輩出する厳格なこの”家”において、こうして描くことだけが欲望を抑え込む唯一の手段だった。

幸いなことに好事家の目に留まり、ちょっとした収入源となった絵を止める人間はおらず。それをいいことに、このひた隠しにした欲望をカンバスにぶつけ続けていた。

センスがある、素晴らしい、生きているようだ。どんな賛辞も栄誉も空虚に満たされた心に入り込むことはなく、曖昧な笑みでやり過した。


恵まれた家柄に母譲りの恵まれた容姿を持つらしい僕には多くの人間が蛾のように寄ってきた。どうでもいい、どうなっても構わないと思いながら、生まれた瞬間からかけられた洗脳が最後の一線を踏み越えるのを留めていた。

その一線は壁もちょっとした段差すらない、線が引いてあるだけの平地。簡単に踏み越えることができるのに、わずかに残った良心やささやかな寂寥、ほんの少しの恐怖、強く施された人格支配が最後の一線を踏みにじることを許さない。


騙し騙し生きていて、寄ってくる女に適当に手を出して、自堕落だ、退廃的だと言われても、この嗜好を表にだして実行するよりはよほどマシだろうと開き直っていた。

それなのに、一瞬たりとも満たされることはない。


様々な女と後腐れなく遊んで要領がいい?ふざけるな。

要領が良ければ家業に従事して平気な顔で過ごしている。僕が家業なんか継いだ日には発狂して自殺するだろう。

僕が芸術家だから変わっているのではない。変わっているから要領が悪いから芸術家になるしかなかった。たまたまそれが世間に受け入れられてたまたま職業にできただけなのだ。

こんな不安定な職、誰が好き好んでなるものか。


親族には神の教えに反するなんてと苦い顔をされるが、もしも本当に神がおわすなら、この行いの報いとしてとっくに天罰を受けているはずだ。そう鼻で笑えば、ひどく醜いものを見るように顔をしかめられた。

怠惰に、けだるげに生きることで目の前の世界から必死に目を逸らす。



あぁ、なんてうつくしくない。



パトロンや信奉者から貢がれた宝飾品、美術品、どんな嗜好品でも僕の心は満たされず、虚ろが増すばかり。視界に入ってくるけれど、魅力的な何かはない。貰って少し見聞しては部屋の隅になげる。人の本性よりはましと言ったところか。


関係を持った者がその一角を物欲しそうに眺めるから、気紛れに分け与えた。そうすれば、皆少しくらい変わったことをしても、おかしいと思っても、またここへのこのことやってくるのだ。

どちらが下品だか、と鼻で笑う。自分の欲で目が眩み、他人(ぼく)のせいにして堕ちていく。そちらの方がよほど人として劣っているのでは?


日々、鬱屈した心を抱えながら只ひたすらにキャンバスへ向かう。食事も部屋に運ばせ、家族とも碌に話などしない。今日は何をしただの、誰とあっただの。そんなことにはかけらほどの興味もない。ただの時間の無駄だ。家族もそんな僕に諦めて、見かけても挨拶すらしない日々。


そんなある日、急に父に呼び止められ、命令された。お前も我が家に住む一員であるならば、この狩りに出席してこい、と。狩りなんて野蛮で、血なまぐさいもの、普段なら死んでも参加しないのだが、どうしても兄弟たちは全員参加できず、たまたま数少ない僕のパトロンの一人の主催で、たまたま僕のなかで諦めがついてしまったのだ。まぁ、抵抗したところで使用人総出で支度させられ、馬車に突っ込まれるだけなのだが。


振り返って思う。この狩りに参加したことが正解だったのかどうか。神はご存じなのだろうか。


まぐれとしか言えない猟果。たまたま運良く得た獲物は子鹿。帯同していたパトロンは、それに手を伸ばしかけた僕に向かって言った。

通だな、それはなかなかの珍味だろう?パトロンの笑った口元だけが妙に脳裏に焼き付いた。指し示されたのは近くの別の部位。

そうだ、ついでに剥製にしよう。君の初めての獲物だ。彼がそう言うと、使用人が来て頭と胴体を切り離し、胴体は肉に、頭は剥製にするために手を入れ始めた。体を切り離すと毛皮が汚れないように、傷口を下にして、頭部と胴体は別々に吊るされる。だらだらと流れ出す赤黒い血から思わず目を逸らした。


どうしたのか、と聞いてくるパトロンに曖昧な返事を返すと豪快に笑われた。

解体する様が気になるのか?と問われ厳密に言えば解体自体には興味はないがとりあえず頷いておく。彼は興味深そうな顔をした後、一つ頷き、使用人には言っておくから好きなだけ見て行くがいい、私には分からんが、芸術家として何かあるのだろう?次の作品も期待しているよ。といって、使用人に声をかけると颯爽と立ち去っていく。

使用人たちは訝しげに僕を見たが、構わなくていいというパトロンの言葉に従うことにしたらしい。淡々とした手つきで解体を進めていく。皮と肉は後で使うために解体したそばから運ばれていき、残されたのは食さない内臓や骨など。あれも、そうして桶の中に投げ捨てられた。


お客様、わたくしどもの作業は終わりましたので戻りますが、どうされますか?解体を行なっていた使用人の一人が問うてくる。あれが入った桶は置かれたままで、居並ぶ使用人たちの手は皮と肉でいっぱいだ。少なくとも今すぐにここから持ち出されることはなさそうだ。

もう少しここにいることは出来るだろうか?と返すと私に話かけてきた使用人は不思議そうな顔をしながらも肯く。もう一度戻ってきますので、それまででしたら。

ならば、もう少しいさせてもらおう。と告げると彼はわかりました、と頷いて、他の使用人たちと一緒に作業場を出ていった。

作業場の扉が完全に閉まるのを待って、桶の中のそれに視線を移す。他の内臓などとは質感が全く違い、ガラスでできた玉のように鈍く光っていた。指先でちょん、とつつく。思ったよりも不快な感覚ではない。他のものにはなるべく触らないように注意深くそれを桶から摘み上げる。掌にぽとん、と落としても、特に何か起きるわけもなく、掌に転がされたそれはてらてらと光っていたが、欲しい輝きを宿してはいなかった。思ったような感触もぬくもりもなく。つついても変わらない。がっかりしながら掌から落とした。


それから僕は狩猟に興じるようになった。鹿、鴨、兎、熊。猟の獲物になる多くの動物を狩っては肉を周囲に提供し、一人密かに抉り出されたそれを掌や指先で弄んでは、落胆する。いい加減諦めをつければいいのにと自分でも思ったが、欲しいという欲望は止められず深まっていく。

より多くの狩場に呼ばれるために、社交にも顔を出すようになった。今までの爛れた生活より、社交に精を出し、真っ当な趣味で周囲と関わるとはいいことだと親族はひどく喜んでいた。抑え込んでいたときよりずっと。なんと皮肉なものか。実際に手を下し、彼らの神の教義により反しているというのに、呑気なものだ。その上、作成する絵にまで良い影響が出たらしく、少なかったパトロンや信奉者は眼に見えて増えていった。

しかし、獲物のものとはいえ、本物を手にしているのに渇望は深まるばかり。類似品を手に入れると本物が欲しくなると言うやつだろうか。もうすぐ狩猟のシーズンも終わってしまう。類似品で満足できていないのは本当だが、類似品に手を出してしまった以上、今までのように抑えていられる自信はない。

色が人とは違うブラックやレッドだから駄目なのか。人と同じ色であればあるいは?人と同じ、グリーンやブルー、ブラウンなら?ふと、思いついたことにしては、素晴らしい名案のように思えた。


グリーンやブルー、と考えてすぐに思いついたのは猫。犬や小鳥なども飼育しているものは多いが、人と同じ色となると猫しかいなかった。

勿論、王侯貴族に大切に囲われ、その辺りの庶民より余程いい生活をしている猫はいる。しかし、人に飼われていない猫が路地裏にも山の中にも山程いるのだ。迷惑している者もいると使用人が噂しているのを聞いた。ならば、僕が少しくらい減らしてしまっても問題はないだろう。


町中では猟銃など使えない。自分の手で殺すなんて以ての外。悍しくて身震いする。ペンディングナイフやペーパーナイフは切れ味が足りないだろう。手近な刃物を次々と触っては投げ出した。次に手に持ったのは分厚いフルーツの皮をやすやすと切るフルーツナイフ。

絵を書く際に回りを覆う布の中でもひときわみすぼらしい布をローブのように被り、普段なら決して近寄らないような裏道を歩く。深夜であることも相まって人影は一つもなかった。小さな鳴き声に視線を向ければ、サガシモノがすぐにみつかった。

今日の夕食から拝借しておいた魚を油紙から取り出し、そっとその鼻先に差し出す。一度警戒したようにこちらを見るが、そこは動物。食欲に負けたのかすぐに口をつけた。思わず口元が緩む。がつがつと食べる猫の首の辺りに触れても嫌がるそぶりはない。ぐっと、力を入れて首を掴むと耳障りな声が上がる。ドクンドクンと波打つ肌と人肌より暖かい体温に一瞬怯んでしまうが、その戸惑いも無視して頭上に掲げたナイフを勢いよく振りおろした。

なんとも言えない醜い叫びが上がり、ナイフの両脇から血が吹き出たかと思うと、すぐに落ち着いてどくどくと鼓動に合わせて流れ出る。思ったより不愉快な感触で、顔をしかめた。ほんの少し顔にかかった血液も妙に生温くてぬるついていて、気持ち悪い。手の甲で拭って、周囲を見回す。猫の雄叫びなどよくあることなのか、灯りがついたり音がしたりなど人が来る様子は見られない。ほっとしたような、拍子抜けのような消化不良の気持ちを抱えたまま、絶命そうな猫を見下ろす。ぴくぴくと痙攣しつつも懸命に生きようとしているのか、前足が宙を掻く。その目はまだ輝きを失っておらず、生と死の狭間で瞬いていた。


今だ、今ならきっと。


獲物の解体を行なっていた使用人たちのように、うまくえぐり出そうとナイフを入れるが、なかなかまっすぐ入っていかない。そんなことをしているうちに猫はピクリとも動かなくなり、欲しかったものはナイフの刃によって醜く潰れてしまった。やってしまった、とがっくりと肩を落としていると、背後から声が聞こえてきた。


「ねぇ、それ、欲しいの?」


鈴を鳴らすような子供の声に、驚いて振り返った。ローブで体をすっかり覆った小さな人影がこちらを見ていた。足下には小さな塊のような影。


「ねぇ、それ、欲しいんでしょう?」


私は狸爺共を相手に培った笑顔を浮かべた。そんな小さな子がこんな時間に外にいるなんてとか、こんな場所になぜとか、疑問が泡のように浮かぶのにどれも口から出ていくほどの硬さを持つ前に弾けて消える。


「なんの、ことかな?」

「それ、素敵だよね」


確かにこれ自体すでに素敵と言って差し支えないのだが、私が本当に欲しいのはそれではなくて。けれど、常識的な人間としては、どちらであろうと口が裂けても言うわけにはいかないのだ。きっとこの気持ちに気付いて声をかけてきたわけじゃない。


「そうかもね」


襤褸を出さないように言葉少なに答える。深くかぶったフードで口元しか見えないその人影はにぃっと笑った。背筋を悪寒が走る。こんなことがばれてしまったら、周りに何を言われるか。


「欲しいのは、そこ、でしょう?」


ローブの下からちらりと覗いた瞳は地獄の底のように紅かった。ひゅ、と喉が情けない音を立てる。


「大丈夫だよぉ。意外とあなたみたいな人もたくさんいるからさぁ」


可憐な声があまったるい言葉を紡ぐ。がくがくと膝が震える。これは、なんだ。


「ヒトなんて、他人に言えない趣味の一つや二つはあるものなんだから、ね?」


要らないモノはぜぇんぶ引き取ってあげるよ?蠱惑的な言葉だった。弱く、孤独な人間には甘くて甘くて胸焼けしそうなくらい甘い毒のような言葉だった。どれだけ厳格な宗教の元に育った私の見た目はどうであれ、中身はただの凡百。神の愛し子をもってしても抗えなかった誘惑にいっそ哀れなほど愚かしくも手を伸ばしてしまったのだ。


僕が肯くが早いか、その小さな影は猫の死体を跡形もなく消してしまった。何をどうやって、こうなったのか皆目検討はつかないが、気にしないことにする。彼女は次の獲物を楽しみにしているよ、というと足元の塊とともに闇に消えた。呆気に取られて、その場に立ち尽くしてしまう。ふと手のひらを見れば、手は血まみれのままで、慌てて我に返って、家へ帰った。


次の日、僕のしたことは紙面の片隅にさえ載っておらず、数日程使用人の世間話に耳を立てたが、噂話は掠りもしていなかった。気の置けない使用人がいるわけでも、家族にこんなうわさ話はないかと聞けるほど仲がいいわけでもない。狩猟ではない、ただの惨殺。遺体は残っていなかった、血痕も残っていなかったのだろうか。勢いでやってしまったが、神の教義に背いていること甚だしい。猫とはいえ、あんな血痕が残っているのなら話題にも上りそうなものだが。片隅の裏道とはいえ、貴族街からほんの一本、ダウンタウン(向こう)側なだけだ。これがこんなに騒がれないのならば、もっと向こう側なら、もう一度同じことをしても騒がれないのでは?

そんな声がむくりと心の中で頭をもたげる。あのおぞましい温度、感触、声さえも美しいものは欠片も無かった。けれど、あの輝き。あの光。掌に掴んでとどめておき、余すことなく眺めたい。付属物は余計だ。あれだけが欲しい。流石にヒトに手を出すわけにはいかない。人生を投げ出しているとはいえ、まだ命まで投げ出すつもりはない。

けれど、問題ないのなら?もう一度、試していいのではないだろうか。あの少女が現れたとしても現れなかったとしても、一度なら。世間に露わになっても一度だけならそんな問題にならないだろう。何せ、猫だ。

そう、何の問題もない。そうしてもう一度手にしたナイフは、鈍く光っていた。



初めて猫を手にかけた日から五日。僕は再び同じ布をかぶり、前回とまた違う道に居た。服の下に隠したナイフに前回よりも執拗に触れてしまう。おかしな話だ。二度目なのに緊張しているとでも言うのだろうか。何に?見つかるかもしれないことに?そんなはずはない。

あぁ、そうか。恐れているのだ。もう少しで手に入るかもしれなかったものをもう一度駄目にしてしまうことに。そうだ。ただ、それだけのことだ。

落ち着いて、焦らずに見てきた手順をきっちりとやればいい。そう、それだけだ。

まるで儀式の手順でも踏むように、同じように猫を見つけて、同じように魚を差し出し、同じように体に触れた。同じように首を押さえ、醜い声を無視してその柔らかい体にナイフをねじ込む。今度は慎重に革と骨の間に入るようにナイフを瞼に入れていった。


「あーぁ、また失敗かい?」


幼い声に振り向くと、あの時の小さな人影があの時と同じように足元に塊のような何かを従えて立っていた。前回の再現のような登場に、思わず乾いた笑いが口から零れる。


「まぁ、しょうがないか。何せ猫は小さいし、君は解体を自分でしたことなどなさそうだし」


前回のような蠱惑的な様子は鳴りをひそめ、やれやれと言いたげな風情だ。よく似た別人といわれても納得しそうなほど態度が違うのに、間違いなく同一人物だと当たり前のように思った。その影はそんな僕に向かってにぃっと笑う。


「まぁ、これから練習すればいいさ」

「練、習」

「あまりしたことない?まぁ、何でもできると評判だものね」


人影が僕の顔を覗き込んだ。僕の目に写ったのは苺のように紅い幼子のまあるい瞳。間違いなく美しかった。


「欲しい?私の目」

「美しい。美しいと、思う」


けれど、と続けようにも妙に口が乾いて、言葉が続けられない。そんな僕の様子に楽しそうに笑う。


「欲しくはならない、か。やっぱりいいねぇ」


うふふ、と笑うと、小さな指が僕の頬を撫でた。


「今日はきちんと約束してあげよう。どこでいつ、なにをどんな風に殺そうとも私が責任をもってその体を消してあげる」


だから、安心して練習するといい。細い小さな指は僕の顎を少し持ちあげる。あわされた視線から逃れることができない。


「君はまだ周りが怖いんだろう?こうして消してしまえば、周りに怒られることもさげすまれることもない。昔みたいに、惨めな思いをすることはない」


歌うように曝される昔の傷跡。なぜやどうしては知っていることが当然のように浮かぶ前に消えていく。


「盗られることを恐れなくていい、傷つくことを恐れなくていい。私が消してあげるとも」

「なんで、そこまで…」

「いつか対価はきっちりいただくとも。なに、心配する必要はない。キミを害することはしないよ」


ふふ、と笑って続けられる言葉に、妙な不安を覚えた。


「私自身がキミを苦しませることはない。あるとすれば、他のやつのせいで苦しんでいるところに対価をもらいに行くかもしれないが」


あぁ、でも、と紅い瞳が僕から逸れる。その視線の先を追いかけていくと、足元にいた黒い塊、もとい、黒猫。


「この子と僕にそのナイフが向けられない限り、かな」


その猫の目は血のように赤く。これはこれで美しいが、欲しいとは思わない。欲しくないモノにナイフを向ける気もない。視線にぼんやりと頷けば、Good boy(いい子だ)と指を離される。その支えが無くなっただけで、僕はがくりと地面に手をついた。


「じゃあ、約束だ」


にんまりと笑うと、前回と同じく腕を一振りして、ぐちゃぐちゃに顔の潰れた猫も血痕も消し去ってしまう。顔や羽織った布に付いた血がそのまま残っていることも前回と同じだった。


「キミは君が望むようにやればいい。呼ぶ必要もないよ。私は必ず消しに行くからね」


そう言って立ち上がったその手を思わず掴む。


「待ってくれ。君の名前は?なんて呼べばいい」

「お互い名前なんか知らない方が好都合だと思うのだけれど」


不思議そうに僕を見下ろしたあと、好きに呼ぶといい、とそっけなく告げられる。苺や夕焼け、紅い宝石や赤い花。いろいろな名称が頭をよぎっては通り過ぎていく。


「いや、それはやめておくよ」

「なぜ?」

「どれもしっくりこない」


そういうと、興味深そうにほぅ、と声を上げた。


「君は何も見ていないようで、よく見ているんだねぇ」


そう言って笑うと、前回と同様に足元の黒猫も引き連れて、いつの間にか闇に姿を消した。




あの紅い瞳の持ち主は僕がどこへいこうと目の前にふらりと現れた。日にち、時間、場所すらも決めずに気まぐれに探しにいくというのに。いつでも、どこへでも。血痕の一つすら残さずに、は言い過ぎだが、ほとんどの惨状を綺麗に消し去ってくれた。

それはもう僕は安心して、最初は一週間に一回程度にしていたものが、四日に一回、三日に一回と回数が増えていくのに、そう時間を要さなかった。


絵は日に日に凄みを増していると褒められ、前回の様に噂を確認したくてもできないなんてことのないように、社交だけではなく、家族や使用人とも不自然じゃないよう会話を増やすことにした。そうしてみるとなんと簡単に聞きたかったことが手に入ることか。

最近猫が減って魚を取られなくなったとか、逆にネズミが増えすぎて困るとか、どこぞに血痕が残っていて騒ぎになったとか、結局酔っ払い同志の喧嘩が原因だったとか。情報が手に入るようになり、僕は心穏やかに夜を待ち、家族はついに僕に神の言葉が届いたとうれし泣きしている。そこまで喜ばれるとなんだか照れくささすら覚えるが、罪悪感などはない。喜んでいるのだからいいじゃないか。大なり小なり、みな教義に背くことがありながらもうまく隠して生きているのだ。何も悪いことじゃないとも。日を追う毎に僕の中にそんな考えが生まれ、自信になっていく。

街は猫が減って喜び、貴族たちは僕の絵が目に見えて素晴らしくなっていると興奮し、家族は僕が彼らの思うまっとうな貴族になってきたとうれし泣き、僕は飢餓感こそ消えないものの充足感を覚えている。いいことずくめじゃないか。未だ眼球をうまく刳り出せずに悔しい思いはしているが、あの子の言うとおり、練習しているから回を重ねるごとにうまくなっているから焦りはない。


次は明日?明後日?次はどこで?何か別の道具を持っていけば、もっと上手くできるだろうか?いやいや、あまり荷物を増やしたら目立ちやすくなるかも。

心が弾む。こんなに明日を待ち望むなんて、こんなに周囲と上手くやれるなんて、初めてでとてもくすぐったかった。


日に日に()()はうまくなり、捕まえる手際も良くなってきた。周囲から聞き出した情報で、猫を減らしても喜ぶ様な地域に足を運んで、怪しまれないように減らす。なんだか自分じゃないような、そんな気分で浮かれていた。そんなある日、僕はついに疵をつけずに解体することに成功した。しかし、取り出した途端に魅力を失った眼球を、ぼと、と地面に落とす。そんな僕を尻目にあの子は地面に散らばった血肉をひとかけらも残さず消し去る。


「おや、これは綺麗にできたじゃないか。いらないのかい?」

「あぁ、何か違うんだ。ついさっきまで欲しくて触りたくて手に入れたくて仕方なかったのに。手にしたときにはそう思わせるものではなくなっているんだ」


思わずため息が溢れる。本当にほしいものというのはなかなか手に入らないものだ。


「なら、眺めているだけではだめなのかい?手にするまでは確かに欲をそそるモノなのだろう?」


そう問われ、僕は力なく首をふる。そうではない。


「その一瞬がほしいなら、絵にしてみては?得意なのだろう?」


その提案は既に数え切れないほど試した手法だった。僕はまたもや首を振る。


「それでは、余計に欲しくなるばかりだった。どんな温度で、どんな質感で、どんな味なのか、狂いそうになる」


どうやってとか、何のためにとか一度も聞いたことはないが不思議なことをしているとは思う。普段なら決して口にしない疑問を、なぜだか口にしてもいいような気がした。


「神は本当におわすのだろうか?」


その紅い眠たげな瞳を珍しく見開いてこちらをみる。


「キミはいつもそんなくだらないことを考えているのかい?よほど暇と見える」


彼女はそういって僕の疑問を鼻で笑った。


「もしも神がおわすなら、僕はとっくに天罰を受けているだろうとは思う。だが、いないのであれば、人々があれほどまでに縛られているのは何のためなのだろうと思って」

「天罰が下されていないからいないというわけでもないかもしれないよ」


そう言って皮肉げに笑う。僕は思わず眉を寄せた。どういう意味だ?


「゛神゛はいても、群衆の信じる゛神゛ではない、とかね」

「信じる神では、ない?」

「そう。例えば教義で禁じられているとヒトが言っているだけで神は気にしていない、とか」

「気にして、いない」


そう、と小さく肯いた。


「そりゃもちろん、一人一人すべての命に対して親のように愛情や慈しみをかんじているならともかく。これだけ多くの命に対して漏れなくそれを行うほどの思い入れが神にあるのかという疑念も生まれないかい?」


芝居がかった仕草で両手を広げて見せる。


「世界を作ったというだけでなんでもできてすべての命を平等に愛しているなんて人は言うが、すべて平等ということは等しくどうでもいいなんて言う可能性もあるわけだ」

「どうでも、いい」

「例えばだけど、君は虫同士が争っていたり、何方かが何方かを殺そうとしているのを気にするかい?目にも止まっていないのではないか?」


疑問の体を取りながら、僕の答えなど聞く気はないようだ。例え聞かれても、僕の答えも気にしないとしか言えないためただの時間の無駄なのだが。

小さくも形の整った唇がにぃっと歪む。


「だから、神からの天罰なんて教典の中でしか語られない。そもそも教典の中で天罰とされているものさえ、神の意思なんて介在しない偶発的なことかもしれないわけだ」


熱弁を奮う姿を見ていると今まで気になっていたことを聞いてもいいような気がしてきた。


「君は、悪魔とかいうやつなのか?」

「これまた直球できたね」


その紅い瞳を珍しく驚きで丸くして、そのあと面白そうにくくっと笑った。


「そうだな。その度胸に免じてその質問にお答えするとしよう」


芝居がかった仕草で一礼してみせた。


「私は悪魔ではないよ。天使でもないがね」


そういって笑みは妙に心を波立たせるものだった。



また別の月がひどく明るい夜、いつも通り、闇から滲み出すように現れた影はぐるりとあたりを見回して、ため息をついた。


「”獲物”が大きくなったのはわかるけど」


少しめんどくさそうに肩を竦める。


「もう少し大人しくやってくれないか?片づけるこっちの身にもなってくれ」


辺りは一面に血しぶきが飛び散っていた。僕は一瞬何を言われたのかよくわからず、彼女の視線を追うように周囲を見回す。ずいぶん派手に飛び散った血液や肉片に自身の所業とはいえ、思わず眉をしかめてしまった。猫とは比べ物にならないサイズだからとも言い訳はできそうにない。


「最近、君のことが話題になっているの、しっているかい?」


紅い瞳が楽し気に僕に問いかけた。知っている。


The return(ジャック・) of (ザ・) Jack the (リッパー)Ripper(の再来)


歌うように告げられた言葉に、視線を地面に落とした。なんの証拠も残らずとも、貧民街から連続して人が消えればそれなりに噂にもなる。


最初は路地裏に立つ花売りだった。路地裏に立つような最下層の”花売り”はよく消える。二人、三人と数を重ねていくと、夜遅く、それこそ僕が探しに来るころに”花売り”は見かけなくなってしまった。さすがに命あっての物種というところか。

仕方なく次に狙ったのは、道端で眠っている浮浪の老人。色の濁ったものには興味が持てず、これにはすぐに飽きた。

その次はストリートチルドレン。

それも最近見なくなって、今はもっぱら、この時間でも出歩かざるを得なかった人間を探して捕まえている。


「ふふ、どんなならず者も悪党も、血痕一つ残さない君を恐れて夜はそうそうに店じまい。外に出ているのは君を探す[[rb:警察 > ヤード]]かごくごく不運な子羊ばかり」


ここまでくると獲物を探すのも一苦労だねぇ。踊るような足取りで、月明かりの下、くるくる回る。


「いくつ殺した?10なんかとっくに超えたよね?100?200?」


飛び跳ねるように近づいてきて、僕の心すらも見透かすように紅い瞳がのぞき込んできた。


「ほしいものは手に入った?」


大きく開いた深淵のような瞳孔に、僕は言葉に詰まる。急に膝から力が抜けた。

理解してしまったのだ。







ほしいものは"もう"永遠に手に入らない。









足の腱を切られて、牢の固く冷たい石の床に痛みに耐えながら転がされている僕にふと陰がかかる。

目を向けるといつの間にか見慣れた紅い瞳。

こんなに薄暗いところなのにいつもの様に瞳に目を奪われた。


「こんばんは」


にこりと形作られた笑みに呆気に取られる。あまりに普通過ぎて異様だった。どうやってとか、どうしてとか、意味のない疑問が頭の中をぐるぐる回る。


「キミ、処刑されるらしいね」


言葉が出てこず、ぱくぱくと口を開閉するばかりの僕の目の前に蹲み込んだ。


「さて、これは君に下された天罰だと思うかい?」


その問いかけに一瞬面食らう。その笑みにいつかもらう対価がこれか、と思った。ならば答えなくてはなるまい。


「いや、これは天罰だとは思わない。人による、処刑だ。多数の安寧、平和のために、異端者(ぼく)を排除する」


これは、天罰なんかじゃない。そういうと楽しそうに笑う。


「そうだね。これは天罰じゃないとも。神の手による断罪ではない」


幼年学校の教師が正解した子供を褒めるように笑みを浮かべた。


「正解したからきっと良いことがあるよ」


もう明日の朝には処刑されるというのに、何を言っているのだろう。とぼんやりと思ったが、きっと気休めだろうと軽く頭を振る。ここへ入れたことも、なぜそんなことを言うのかもきっといつものように教えてくれはしない。


「そうだといいな」


なんだか楽しくなってきて笑えてきた。







炎に舐めつくされ、真っ黒になった死体だけが残された広場。数日はそうして見世物にされるらしい。


「化け物、ね。どっちが化け物だか」

「貴方様の決めた道筋では?」


紅い目が黒猫を見下ろす。


「ふむ。そうだね」

「いわゆる天罰と言うものか思っていたのですが、違うので?」

「僕は彼を異端とは思っていないからなぁ」


そう言ってその人は死体を見つめる。


「結構面白いのが出てきたな、程度」

「まぁ、創造主から見れば、そこらにあふれる虫も木も人もあまり大差ないのでしょうけども」


黒猫がその人を瞳に映している間にもその姿はころころと変わっていく。見る人によって姿が違うその人は、その正体を識っている黒猫の前では一つの姿で留まることはできない。


「あの坊やの欲しかったもの、貴方様はご存知なので?」

「おや、君は気付いていなかったのかい?」


黒猫の質問に、その人は楽しそうに質問で返してきた。


「そうだねぇ、意外とわからないのかもしれない」


からかうような口調に、黒猫は思わずむっとする。その人は、けらけらと笑ってその顔が見たかったのだと言い放った。


「希望だよ、彼が欲しかったものは。前向きさといってもいいかもしれないが」

「希望に、前向きさ…?」


黒猫は首を傾げる。ごく限られた一時期ではあったが、手にしていなかっただろうか。


「彼は自分には永遠に手にすることが出来ないと本能的に感じ取っていた、人が言うところの"健全な"希望が宿る瞳ほしかったのさ。他人のものをむりやり奪い取っても決して自分のものにはならない光」


黒猫は思わずぽかんと口を開けてしまった。


「愚かしいと思うかい?」

「正直に言うと、まぁ、そうですね」


黒猫はややぎこちなく肯く。


「観察していて思ったのだけど、意外とそう言うヒトは多かったんだ。私はもう少し単純でもう少し楽観的に作ったハズだったからね」

「違ったのですか?」

「君も、そうだったけれど。ヒトというのは怠惰で嫉妬深く、存外にだらしがない。それこそ、"神の望み"と言う名で縛らなくては欲望のままに堕落するものが多くなるだろうと思う」


興味深そうに考察するその人を黒猫は半ば呆れたように見上げる。この話をこのまま続けていてもこの人の結論はでないだろう。


「で、あの坊やに何かご褒美を与えるのですか?」


その人は顎に手をあてて、ふむ、と笑った。


「彼にとって褒美になるかはわからないがね。余計に楽しませてもらった分くらいのお礼はすることにしようか」


その人の指先がついと動くと、黒く焼け焦げた遺体がほろほろと崩れ粒子になり形を変えていく。出来上がったのは黒猫の半分ほどの雛。眠っているように丸まっている。


「楽しませてもらったから別の命を与えよう。彼の意識はないけれど」

「ないんですか」

「ないとも」


その人はくすくすと笑う。


「だって彼の意識がそのまま残っていては何かあったとき困るだろう?」

「貴方の側にいてなにか起こせるのであればそれはそれで[[rb:一廉 > ひとかど]]のなにかになりますよ」


半眼になりそうになりながらそう告げる黒猫にその人はまた小さく笑う。黒猫のそういうところがいいよねとよく言っているからそのまま使うのかと思っていた。


「それもそうかもね」


その人は指先で眠る雛の額を突付いた。雛は途端に目を覚まし、起き上がる。雛はすぐにまとわりつくようにその人の足元をぐるぐると回り始めた。


「それの名は、そうだな、アルゴスだ。面倒を見てやっておくれ」


黒猫はため息を一つ着くと、ゆっくりと頭を下げた。その人は笑って踵を返す。黒猫は尻もちを付きながらうろうろする雛を捕まえると、その後を追って姿を消した。

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