【side泰孫&晴那】彼と彼女の事情
他人のメロディーの上に、まるで散歩を楽しむかのように別のメロディーを重ねて、それが終わると去っていくとても粋でクールな異星人…
坂本龍一さんの戦場のメリークリスマスとかに、メロディーを重ねた「禁じられた色彩」を生み出した異星人みたいなデビット・ボウイ。
老人のイメージはそっから何とか引っ張り出してきました。
「草木のある場所」は、昔の戦国武将、武田信玄公のアレです。
信玄公は、トイレに行く事を「山に登る」と云っていて、「山には草木(臭き)ある」だとかなんだとか。
【side四季石泰孫・四季石晴那】
彼と彼女の事情
四季石 泰孫と四季石 晴那は年齢の離れた姉弟である。
泰孫は若干12歳、姉の晴那は24歳。
四季石家にとっては、姉、晴那の後に実に12年ぶりに生まれた泰孫は期待の男児。
今となっては一姫二太郎の典型と相成っているのではあるが、其処へ辿り着く迄は難儀な道程であった、と、彼女、晴那は思っていた。
四季石家は、格闘家の血統であったのである。
由緒正しいと云う程の家柄でも、連綿と続いたそれでも無いのではあるのだが、父親も母親も嘗ては格闘技をやっており、最近の社会情勢の変化に伴った家庭の構造の変革で、そのような家庭に於いてはしばしば出来しうる、両親への反発のあまり、負の激情に囚われたまま違う道を歩む子供も見られる事が多い中で、この姉弟達は特に反発を抱くことも無く、必然的に一姫二太郎の関心が赴いた先には格闘技が有ったのである。
両親のその情熱を12年間、女性のみで一身に受けた彼女。
晴那は、世界を獲ろう、私が獲らねば誰が獲る、と思ってやって来た。
其処へと、chaosは這い寄って来た。
故障とは、chaosの一種のように思える。
或る日、chaosは毎日のトレーニングの時に突如として訪れて、膝が本来曲がらない方向へと曲がると言う現象を置き土産にし、そこから自然と格闘家人生の限界が見えて、しかし未だ格闘畑を模索する中で、彼女が出合ったシーン。
―――人生に於いて屡々他の生命から、「美」のシーンを見せられる事があり、その光景が己の中に於いてクリティカルに作用して、その後の人生を左右したり、後になって振り返ってみても思わず微笑んでしまい、心が豊かになる事を感じる何か、その様な出来事。
それは例えば、イギリスのデパートに売られていた彼を不憫に思い、彼を買い上げて自宅で育てた若い男性の二人。
やがて野生へと彼を帰す訓練を隔てた後に、彼の生まれた土地へを帰されたライオンのクリスチャン。
数年後にクリスチャンの元を訪れた二人に雇われたガイドが、
「今では彼は群れのボスだ、貴方達二人を覚えて居ようはずがない、危険だからやめておいた方が良い。」
と、忠告したのにも関わらず、二人がクリスチャンの元を訪れると…果たして、ライオンのクリスチャンは、彼等二人の姿を見やり、ダッシュして近付き、彼等に対して、昔に彼がそうやって甘えた様に、彼等の肩に両手を乗せて頭を彼等の顔にしきりに擦り付けて、昔と寸分違わぬ愛情を、彼のその行動で、全身全霊で以って、再開の喜びを表している、そんなシーンだったり。
また、或いは、通学中のバスの中から見た光景…
雨の降りしきる中で、街道の端の側溝マスグレーチングを少女の細腕で開放し、中に入っているその少女…あの腐敗した汚泥独特の臭いが此方にも漂って来そうな、一少女が醸し出すには聊か醜悪なその光景に、その不快さに目を背けようかと思案し始めた次の瞬間…少女が、満面の笑みで以って、その醜悪な側溝グレーチングの中に入ったまま抱えあげられた両手に持っている毛玉『ニャァー』と鳴く子猫。
彼女は、自分が汚れる事を顧みる事無く、雨水桝へと落ちてしまい、必死に助けを呼んでいたであろう、果敢無い生命の救出を成し遂げたのである。
其処を、その時間に、通過し、そして、その場所に、偶然に、視線を向けていなければ、決して、出会わない、景色であろう。
何故だかそれを客観的に見ていた自分の心の中で、今現実に降り続けているこの雨に晴れ間が射して、何故かその少女を見ていた無関係な自分が誇らしく感じてしまう様な、そんなその種の「美の発露の瞬間」彼女の眼にだけ見える、汚泥で汚れた彼女に雲間から暖かな陽光が一筋射すような、それが彼女だけを照らすかの様な、そんなシーン。
それは、その種の気配は常に不意打ちでやってきては、それを感じる事の出来る類の人間に速やかに侵食して、何かを、己の中に存在していた旧来の何かをすっかりと覆滅させる戦術兵器の一種であろう。
或いは、その美の瞬間の影響でそれを見た側の人生その物が大きく変化する様であればそれは戦略兵器ともいうべきだ。―――
彼女が出合ったシーン、それは彼女が迷いの日課の中で、取り敢えず頭の中を空っぽにしたい、と、リハビリの意味も込めてその様な思いで行っていた日課の放課後の裏山での出来事である。
故障した左膝は、子供の回復力もあって、目まぐるしいものがあったのではあるが、矢張り以前の様な、彼女が感じていた、彼女が嘗てやって来た、彼女が自然に呼吸するように容易く出来ていたあれやらこれやらが出来ない。
医師にも、トレーナーの資格があり柔道整復師でもある父にも、「もう以前の様には出来ないだろう」と、幼い彼女にはいささか酷であるその様な宣言をなされたのは、彼女の気質
――心根が強く、不条理に耐えられて、そして芯が強いのだ、彼女は。――
を鑑みた末の判断であった。
此の儘では彼女は格闘技を諦めないだろう、と、彼女の不条理に耐えられる気質を頼りにして、父や医師は、彼女の心をきっちりと折ったのである、敢えて無慈悲に。
そして、折れた彼女は、少しの間空白になり、やがて、道が判らないなりに、彼女自身の時間を取り戻して、そうやって再始動し始めた。
彼女は登っている。
山道を歩いて登る。
裏山への頂上へと続くジグザグに鋸のような獣道を、これから何をやって行こう、と、幼いその頭の中で迷っていた未知を、見慣れてお馴染みになった苔生したお地蔵さまはそんな彼女に答えを教えてはくれず、ただ穏やかな安らいだ表情で涅槃の方向を見ている様であって、あれは声を掛けても駄目だろう。
間も無く頂上だとその時に、彼女は見たのである。
先程述べた様に、その種の気配は常に不意打ちでやってきては、それを感じる事の出来る類の人間に速やかに侵食して、何かを、己の中に存在していた旧来の何かをすっかりと覆滅させるのだ。
美の発露の瞬間を…彼女はそれが今から起こる場所に、それが起きる時間に於いて、たまたまその場所に視線を向けたのであった。
…
……
………
晴那が裏山へと登った道は、いわば裏道であり、表の道にはアスファルト舗装のちゃんとした道が有った。
恐らくは頂上にトイレがあり、水道が通っているから、その様なライフラインの為に作られたのだろう。
その様な表の道が有るにも関わらず、この場所は桜の季節や、お盆には人が集まり、それは賑やかになるのであるが、普段は山の頂上故に、滅多に人が訪れるような事は無かった。
そこで、無手の老人と、両手に短刀を持った
─明らかに堅気の男とは違う─
初老の男が、命のやり取りを演じていたのである。
二刀流の初老は双頭の龍の如く、その太刀筋は無手の老人を老練な剣戟で以って執拗に付け狙い、或いは付け入る隙を与えずにけん制し見事な手練を見せている。
だが、相対する無手の老人こそ異様であり、初老の二刀流男の手練と殺意が描く、さながら五線紙、その紙上を気楽に散歩でもする様に受け流して、その殺意と手練の積み重ねのメロディーラインに常に即興で以って、別のメロディーを重ねて、違和感の全くない新しい一つの楽曲にしてゆく如くそれを交わし続けるのである。
そしてその顔には二刀流初老が放つ殺意や手練に対しての一切の恐怖や殺意が無く、何だか「酔っている」ように見えた。
それは、酒にでは無くて、何と云えば良いのか…幼い当時の晴那には例えようも無いのではあるが、「酔っている」のである、それをどの様に例えたなら適正なのか、それは実は大人になった後の晴那から見ても、例えようも無い老人の雰囲気なのである。
その無手の老人のアドリブのメロディーに充てられて、未だ小学生であった晴那は、見入ってしまっていた、いや、魅入った、と形容して良いのかも知れない。
そしてその…いわば双頭の龍の形式に沿ったクラシック演奏的な攻勢に対してアドリブ演奏で応じ続けた無手のジャズの散歩者の戦いはまた、晴那がそれに出くわした時と同様に、不意に終焉を迎えた。
無手の老人が放った四本貫手が、初老の龍の鳩尾に深々と決まり、龍はどう、と倒れたのである。
彼女が合気道と出会ったのは、この時であった。
「其処なお嬢ちゃんや、済まんが、ハンケチ等持ってはおらんか?」
身を隠して戦いに魅入っていた晴那の存在を、まるで最初から判って居たかのように呼びかける。
晴那は手拭いを取り出して物陰から出ると、老人にそれを渡す。
「大丈夫じゃろ、こ奴は、昔っから頑丈な奴であった。」
老人は倒れた龍に対して一瞥を向けた後に、晴那に振り返って、陽気に実に朗らかに笑みを浮かべながら言葉を続けた。
「お嬢ちゃんや、国家の治安を監視する輩――警察じゃがの、どうか、此処は一つ、そんな輩に通報するなどと云った野暮をせんで、今見た事は、『無かった事』にしてくれんかの?」
「交渉には相手の隙を利用する事」、晴那は幼いながらも、格闘技の中で兵法を学んでいた。
彼女は、秘密は、貴方のその技を学ぶ事を了承すれば、守るだろう、と、嘆願ではなくて、実に堂々と、ある意味喝破してのけたのである。
以来、老人と少女の蜜月と云っても良い、濃密なる修行――ではない、これは遊びだろう。
無制限の無我の遊び。
それが始まった。
やがて晴那は防衛大学に入り、そうして、徒手格闘の道を進む事になる。
晴那が11歳の時に四季石家待望の男児が誕生して、それが四季石泰孫である。
件の老人と出会った年であった。
両親は泰孫に期待を寄せた。
晴那の肩の荷も降りた心持ちであった。
自分ではそれと気が付かなかったが、こうして弟を見るにつけ、両親の期待を客観的に顧みた時に、確かに晴那は両親のそれを背負っていたのであろう。
弟、泰孫はやがて、幼いながらに格闘技に関心を寄せ、それは昔の晴那がそうであったようにのめり込んで行き…弟は嘗ての彼女がそうであったように、矢張り両親の期待を一身に浴びてそれを負荷とも思わずに格闘技にのめり込んでいった。
その気質は「負けず嫌いで、追い込まれるとどの様な手段をとるのか判らない」少しばかり危うい気質だが、それが格闘技に向いている分には問題は無かった。
幼い時に、年上のいじめっ子に虐められた時には、不意に相手に噛み付き、相手が許しを請うて泣き出すまで噛むのを止めなかったなど、その闘争本能の強さは折り紙付きで、その様な危うい過激な気質はやがて人としての道理を学ぶに従って良い方向へと作用するだろう、と、彼女はそのように思っていた。
晴那は、弟に熱意を寄せる、そんな両親の前ではもはや格闘技に関心が無くなり、放課後は無邪気に新たに見つけた生きがい、趣味が出来たかのように振舞い自宅の小さい道場へと赴く事は無くなったのであるが、中学、高校、防衛大学…と、彼女は学び舎の帰りには寄り道を、通常の学業と、そして放課後の老人との遊戯、そのルーティンをたゆまず行っていたのである。
やがて、防衛大を卒業し彼女が勤務地に赴き、休日に久しぶりに自宅に戻った時に、不意に弟がこう言った。
「お姉ちゃん、本当は強いよね。」
「僕はずっと知っていた。」
「気配が、まるで違うんだよね。」
「ねぇ、僕に教えてくれないかな?」
晴那が迷った末に、泰孫を件の老人と引き会わせる事にしたその週末の午後、勤務を早めに切り上げた晴那は携帯連絡手段で泰孫に連絡し、バーガーショップに立ち寄り、少し遅れて泰孫がやって来た。
もしも二人の事を一般的な美意識の観点を持った人間が見たらば、それは男装の麗人と中性的な美少女にも見えなくはない少年の二人組、そう評するであろうか。
晴那は女性にしては短髪であり、全て後ろに流しており、それはさながら女性のオールバックと云ったところか、身長は女性としては間違いなく高い部類の175cmで細身である。
泰孫の方はその勇壮な名前にも関わらず、黙って居ると美少女然としており、未だ筋肉や声帯などの本格的な二次性徴発達には至らずに、その声はさながらカストラートのアルトの如くである。
男の子にしてはやや長い髪型で、ショートボブ。
身長は145㎝。
小さい方だろう。
当人は野球などが好きなのだが、何故だかそんな彼の周囲には女子が集まり、決まって休み時間に集まって来ては、泰孫の髪の毛を弄繰り回した挙げ句に、「きゃー、かわいい」等とやりはじめるのだ。
その間、泰孫はややむっつりしながらも、強い圧力がある女子の群れオーラの前に終始閉口しっぱなしの仏頂面を隠そうともしないでいるが、しなしながら、彼からしてみたらば残念な事に、客観的視点で見たところの彼は実際、可愛いタイプである。
いきなり背後に回り込んで「わっ!」と驚かすと、安定のびっくりっぷりを見せるし、学園祭でとあるクラスが催した「肝試し」では、暫くの間はちょっとした少年少女たちの間では噂になるレベルのそれは見事な「ビビり」っぷりを見せて、男子には笑われ、女子からは
―――特にその齢にしてあざとい仕草を研究し、男子に媚びる事を意識し始めているような早熟なタイプから―――
格好の観察対象にされて、彼は徹底的なシミュレート教材と化している。
それでいて、泰孫は自分を「男前」だと思っているらしく、その普段の行動っぷりや仕草は、日曜の夜にやっている、村を開拓したり、無人島で色々をやって見せる番組に出ている少し年季が入ったワイルドなアイドルグループのそれの様に振舞っており、それはまた…そのギャップがまた、通な奴等にはツボのど真ん中だったりするらしい。
泰孫がこのバーガーショップにやって来て注文の後に真っ先にやった事は、「トイレに行く」事であった。
晴那は既にトレイに入ったセットメニューを食べ始め、泰孫が晴那の元で数語会話をしてからトイレに行ったタイミングで晴那のスマホが振動を伝えてきた。
手早く通話スペースに身を寄せた彼女が見た着信相手は、これから向かう老人の番号のそれであった。
手早く通話操作に持って行き、耳を寄せた時に聞こえてきた声は彼の老人の声帯に間違いは無かった。
―――息も絶え絶えではあったのであるが―――
「のぉ……――晴那…じょーちゃん…や、わ…しは…もう――逝く様だで。」
「今日――の…約束、果た――せそうに無い。」
「すま…んの。」
通話は切れていない、切れてはいないが、それ以上の老人の声は聞こえなくなった。
そして、不意に、別の声が聞こえてきた。
晴那には記憶が無い声だ。
「よぉ――そこの…誰か、だれ…か。」
「誰でもいい――きいと…くれ。」
「と…とうとう、やったで、ワシ――」
「コイツの…―タマ、――とった!」
「あい…うち、じゃけんどのぉ――」
「コホー…コホー…――」
「だれか、一人で――いいけん、」
「それ、つたえ…たかったんよぉ―――」
「ヒュー、ヒュー…」
これはもしや…
晴那の記憶が囁く。
あの時に、どう、と倒れた、両刀短刀の…双頭の龍の如き初老の男
───明らかに堅気ではなかった、あの時に老人と戦っていた、その筋の男の声───
なのではないか?
声はそこで途切れて、もはや相手の通信機材が拾うのは無情な風がそれに打ち寄せるノイズのみ。
悲鳴が聞こえたのは、ちょうどそんなタイミングで、今度は晴那には良く聞き覚えのある声である。
それが泰孫の悲鳴だったからである。
ショッキングな出来事に、通報すべきか否か、その判断に決めあぐねたタイミングで矢継ぎ早に彼女の身に迫る事件。
先程、二人組の女子高生の内の一人がそちらへ行き、暫くしてからもう一人がそちらへと向かった…
片隅でスマホを弄って、誰も寄せ付けぬオーラを出しながら目立たぬ様な気配で隅に座っていた少し伸びっさらしのボサボサ髪の長髪男子校生も、そちらへ先程行った。
つまり、このバーガーショップの二階に陣取った全員
──晴那を別とすれば──
が、今このタイミングでトイレへ行っていると云う事になっているのだ。
妙なタイミングではあるが、そこへ以ての泰孫の悲鳴である。
もしやとは思うが、かの男子高生の性の嗜好が歪んだそれであったらば…晴那は少し思考を巡らせた後に、躊躇なく男子トイレへと踏み込んだ。
…
……
………
「おねぇちゃん、出られない!助けて!」
晴那がそれを目にした。
恐らくこれは、壁を隔てて向こう側にも現れているのではないだろうか、と、それを見ていた。
手洗いスペースから見て、奥へと向かう通路ほぼ一杯に、それは地面から出現していて、淡く青い光が、鼓動の様に明滅している…
これは魔方陣…と言う奴だろうか?
半円の魔方陣、彼女が、壁の向こうにもこれは出現しているのではないか、と思ったのは、魔方陣と云うものは、大抵が「円」だからであろうか。
この魔方陣は、或いは壁の向こう側、すなわち女子トイレスペースにも展開していて、それの余りが此方側男子トイレで今私が見ている物なのではないのか?
しかし…莫迦な!
そんな物が実在するのだろうか?
こう云った出来事は、ファンタジー小説やその種の映画、ゲームの世界だけの理であって、現実世界で発現して良い物では無いし、また彼女の人生に於いて、今見るこの景色はまるで青天の霹靂であると同時に、荒唐無稽でもある。
現実世界に於いて、「魔方陣」が目の前に現れた。
これはなにかの悪い冗談なのであろうか?…実は彼女を巻き込むこの不可解で不気味な現象の前触れは、その雷雨をもたらす気配は、先程の通話が前奏曲だったのだろうか?
このファンタジーな事象は今彼女の目の前に現れており、弟、泰孫はその中に囚われている。
今日は何と言う日であろうか。
何と形容すべき日であろう?
衝撃的な事件を電話で聞いた後、その息も休める暇なく、今度は衝撃的な不可解が襲ってきて、原爆の衝撃に動揺する中で、更に追い討ちで水爆が来たような不条理さである。
格闘技は冷静さを失っては駄目だ!
だが、しかし、彼女の自然とその天性の本能の部分と格闘技によって身に付けた未だ拙い兵法、それを試すかの様にその試練は矢継ぎ早の2連打を放ってきた。
泰孫は、
──もうこの際「魔方陣」言い切る事にする。──
それの中に囚われ、手を此方へ向けて拳を握り叩いている。
そう、一見空気しか無い場所に向かって、頻りと拳を振り上げては…その、空気しか無い場所に弾き返されており、そこにはどうやら何かが有るようなのである。
晴那がその空間へとおそるおそる近寄り、魔方陣の内側にいる泰孫に向かって手を差し出すと、泰孫が必死に叩いている『壁』は存在していないかのように彼女の腕は『魔法陣』内部へと入り込み、そしてハッタと泰孫の手が彼女のそれをつかむ。
だが、彼女が泰孫の手を握り返して、魔方陣の外側に引っ張り出そうとすると…何か不可視な力場でもあるのだろうか?
まるで壁が存在でもするかの様に、動かない!
一度、泰孫の手を離して自分の手を魔方陣から離してみると…その力場はまるで存在していないかの様に彼女は難なくその自身の手を魔方陣の内側から魔方陣の外側に通過する事が出来た。
だが…再び晴那が泰孫の手を握ってそれと同じ事を試すと…まるで泰孫の存在が、不可逆の境界を越えてしまったかの様だ、力場は確かに存在しており、そしてどうやら弟は、その力場に囚われている。
―――恐らくは、私のからだが、全て魔方陣の、内側に、入ってしまったらば、それは、恐らくは、私にも、作用を、及ぼすのでは、無いだろうか…―――
漠然と、彼女はそう考えた。
その考えは危険だ。
―――まるで私の頭脳までファンタジーに汚染されてきているみたいだ。―――
そのタイミングで以って小用を足す側の反対側。
草木がある場所の二つある内の一つのドアが開いて、先程晴那があらぬ嫌疑を彼女のその頭の中でかけてしまっていた人物、
──コイツ、男色系で、泰孫に悪戯したんじゃねーだろうなぁ?───
男子高生が姿を現して、何も知らずにうっかりと、そのドアの入り口にまで張り出していた魔方陣の内側へと完全に入ってしまった!
そして、二人の様子を不思議そうに見やり…やがて魔方陣の存在に今更の様に気が付いて動揺したタイミングで、歩みを止める事無く恐らくは手洗いに向かって歩いていて、魔方陣の外側に出ようとしたタイミングで、何かに「ゴンっ!」と顔面がぶつかったかのような挙動を見せた後に後方へと倒れた。
その一連を見ていた晴那は上手な喜劇のパントマイムでも見せられている気分であった。
そう、演技だとしたらばそれは見事だ、何しろそれは、不自然さがまるで見当たらない自然な演技だったのだから。
「────!?」
その若き喜劇王は、無言で、そのボサボサな長髪に隠された僅かばかりの隙間から見える目を大きく見開き、そうやってから、上半身だけ起き上がり、その目線を魔方陣の内側の泰孫と外側の晴那の順番で見やってからきっちりと5秒間、停止したようにしてから晴那の方へ向き直り、
「ぇ、なにこれ?カメラ回ってんすか?ドッキリ?モニタリ◯グ?」
まぁ、平均的な人間であればそう思っても仕方がない、そんな惚けた声を向けてきたのである。
晴那はそんな男子高生に、彼女がこの短い間に考察した魔方陣に関する所見を掻い摘んで説明すると、彼は目をしばしばさせて起き上がり、その手を魔方陣の外側へ向けて伸ばす。
魔方陣の内側と外側の境目で、矢張り、不可逆な力場が彼に作用してまるで壁が存在するかの様な状態を確認すると、一言。
「人生、諦観って、必要なのかも知れないですよね。」
と、呟いた後に、魔方陣の内側であぐらをかいて座り込んでしまった。
何と言うか…そんな人物であった。
彼は。
次の瞬間、魔方陣が目映く光り始めて、彼女は決断せねばならぬ事を三連続で浴びる事になってしまった。
老人の死と、初老のヤクザの死を通報するか否か、それは次に起こった泰孫の悲鳴に駆け付ける事に取って代わられて未だに出来ていない。
そうやって泰孫の元へと駆け付けて見たらば、今度は不可解な事象、魔法陣に閉じ込められた弟を見て錐揉みにされ…そうして更にこの魔方陣の発光である。
もはや理性で考える限界に到達し、そして自然に切り替わった理性以外の部分の思考で考えた時、何の根拠もなく、
「この魔方陣は今まさに発動しつつあり、発動してしまった後には、この魔方陣の中にいる弟は何処かへと行ってしまうのではないのか?」
と云う考えが浮かんでしまって、そうやって彼女はあわてて魔方陣の内側に入った。
これは何かの冗談であり、そして、今日の衝撃的な事件も、或いは私の見ている夢であり私が眠りから目覚めるスイッチがこの魔方陣の内側に有るのではないのか?
合気道の老人とヤクザの死だって、これは夢の中の出来事に相違あるまい、さぁ、夢から覚めなければ…
…
……
………
バーガーショップの女性店員は、二階に向かった。
注文を頼んだ若い…恐らくは未だ小学生の…限り無く女子っぽい少年のメニューを届けるついでに、彼女はナプキンの補充やトレイの回収を考えていた。
ちょうどある程度二階に人が集まりやがて去っていったタイミングでもあり、今新たに確か何人か二階を利用していた客が居たからだ。
ナプキン等の補充は大丈夫だろうか?
トレイの回収ストックがたまってはいないだろうか?
果たして、其処には誰もおらずに、食べ掛けのメニューが何ヵ所かその儘残されており…彼女は首をひねって、それらを今度は回収すべきなのか、或いは回収を待って様子を見るべきなのかで迷いを生じさせ始めた。
二時間後に再び二階へ赴いた彼女は、ため息をつきながらそれらを片付け始めた。
バーガーショップの二階の監視カメラは、五人がトイレへと向かった先の出来事を写し出していた。
更にトイレの監視カメラ、男子トイレと女子トイレの天井、手洗いスペース付近から奥側を監視範囲に指定したそれらの映像。
五人がそれぞれに、洗い場スペースから奥へ向かうと、不意にその姿を消したのである。
光る魔方陣などはカメラには映って居なかった。
ただ、ある境目を五人が通り過ぎると、その姿はさながら本当にあった呪いの映像シリーズの如く、唐突に見えなくなる、そんな不可解な映像としてのみカメラ(それ)はその事象を映し出していた。
そして、いささか怠慢であるこの店の管理側の人間たちはこの異常に気が付く事がなく。
街の治安を守る警察官もこの様な街中でこの様な事件が起こる事など思いもよらなかったであろうし、何よりもとある小学校のそこから程近い裏山に於いて発生した事件…どうやら年配の男性二人の決闘による相討ちと云うショッキングな殺傷事件への対応へと大わらわであり、彼ら、彼女らに対する手懸かりは失われて行くのである。
ゴンッ!Σ(>_<)
。゜(゜´ω`゜)゜。{ねーちゃん怖いよぅ~!
Σ(๑°⌓°๑){なんぞこれ!




