現実
エルフの里に向かってからというもの、何故かいつも頭の片隅にシリウスの事が引っ掛かっていた。彼は里でも一人、友達もほぼいなく過ごしている。そんな彼が心配だった。その事をお母様に伝えたら、薬学の先生に呼ばれてしまった。
そんなこんなで今、薬学の教授室です。見目麗しい妖精王と対峙しています、助けてください。
「何故そんな引き攣った笑顔を浮かべているんだ…」
妖精王の呆れたような顔を睨んだのち、私はその美しい造形から視線を外す。
「何故呼び出すんですか。下手に注目を集めたくないんですよ」
「お前は既に有名人だろう。妖精の花姫よ」
「その呼び名辞めてください」
妖精王はにこやかに笑いつつ、その薄緑色の髪をかき上げる。そう言えば彼は全体的に緑色を纏っている。という事は、彼がシリウスの叔父にあたるのか。
「シリウスは里で孤立してますよ。かわいそうじゃないですか」
私は彼に呼ばれたのがシリウスの事がと思い、不貞腐れながらもそう呟いた。ほう、と笑いながら妖精王は私を見つめる。
「花姫様は我が甥御をお気に入りかな」
その明け透けな言葉にカチンとくるも、一息ついて首を横に振る。
「友人として、彼が一人なのが心配なのです。そうならば彼が学校に来れれば寂しくはないのに…と」
私はそれだけ言うと視線を机に向けた。彼がこちらに来れればいいのに、というのは私の独りよがりだ。彼自身の希望は全く聞いていない。その事に思い至り、自分の安直な考えが恥ずかしくなる。
「これは私の思い付きなので、どうぞ忘れてください」
私はそれだけ宣言すると、一つパンと手を叩いて話題を変える。シリウスの事かと思っていたが、彼の話の仕方からどうやら違うと予測ができた。
「それで、ご用向きは何でしょうか」
私の言葉に妖精王は眉を顰めると、私にぐっと近寄って来た。
「お前は何がしたいのだ」
それだけ言うと彼はすっと遠ざかり、空に浮いて私を見下ろす。私が何をしたいのか、幸せになりたいだけだ。
「幸せをつかみたいだけです」
私が彼を見上げながらそう宣言すると、妖精王は私の返答を鼻で笑う。
「なんと独り善がりな考えだ。お前の幸せはどういう事なのか、もう一度考えろ。このままだと意味をはき違えるぞ」
妖精王は真顔で私にそう言うと、そっと私の額を撫でる。私は彼の言葉に少なからず衝撃を受けた。何をはき違えるというのか、私は平穏無事にこの人生を過ごしたいだけだ。皆と仲良く、楽しく…。
あれ?私の幸せって今の状態なのではないか、でも今後の展開次第では私は不名誉な状態になってしまう。あれ、不名誉な状態ってどうなるの。将来的にエルフの里に引っ込むならこの国の名誉何て、重要なことではないのかも?
考えれば考える程、坩堝に嵌るのだ。そして何かを思いついたと思えば、薄く靄がかかって何を思いついたのか分からなくなってしまう。
「ああ、そうか。お前は分岐した世界の一端を覗いてきているのだな。だからこそ、そのような極端な変化を望むのか」
妖精王は興味深そうに、そして哀れむように私に視線を送った。私はその目を直視することが出来なくて、そっと横に反らした。
「愛しい子の娘よ。お前は誰も傷つけたくないのだな。何と高尚で歪んだ優しさか。人は傷付くものだ、どのように庇っても守っても物事の視点というものは無限に広がる。お前は神にはなれぬのだ、全てを望むことなく、己と向き合え」
彼はそれだけ言うと、私に優しく笑いかけた。優しく愛に溢れたようなその視線は、不安に常に追い掛けられている私を見越しているようだ。
「でも怖いの…」
私がそう呟くと、彼は分かっているとばかりに頷く。
「誰もが未来に不安を抱くものだ。お前は無限にある結末のうちいくつかを知っている。そして既に回避した結末もいくつかある。お前の知らない選択肢もいくつもある。この世界は遊戯でなく、己の人生なのだ。自分で選びぬけ」
妖精王はそれだけ言うと、悪戯な笑顔を浮かべた。
私は彼を見つめながらも、その言葉を反芻した。私はこの世界を不幸なものにしないように気を張っていた。でも、この世界では選択肢は表示されないのだから、そこにないものを選びとっても良いよね?
そう思うと少し気が楽になった。バタフライエフェクトというのはゲームの世界じゃなく、生きている限り私の選ぶ道全てがそれに当て嵌まるのか。何と責任重大で、何と当たり前な事だろう。
「ありがとうございます、緑の妖精王様。少し気が楽になりました」
「それなら良かった」
私は礼を言うと部屋を後にしようと踵を返そうとする。しかしそのまま妖精王に呼び止められる。
「あ、そうだ。我が甥を気に掛けてくれた事嬉しく思う」
その言葉に微笑みで返し、そのまま部屋を出ようとした。私の背中に再び声が届く。
「おっと、もう一つ。明後日傷薬の作成テストを行うから周知しておくように」
私は笑顔でまた受け流そうとして、バッと顔を上げる。見上げた先の憎らしき妖精王は先程と打って変わった悪戯が過ぎる笑顔を浮かべて、準備するように私に追い打ちを掛けると風にふわりと消えていった。
「あのあんぽんたん!!!」
私は渡り廊下を走りながら声を荒げる。明後日の授業何て言っていたけど、実質今日はもう夕食前なのだから、明日しか準備期間がないのだ。馬鹿じゃなかろうか、悪戯が過ぎるのではなかろうか。
「実力を見る為でも質が悪いわ…」
私はぶつぶつと文句を口走りながら夜の渡り廊下を走るしかなかった。案の定寮について報告すると、全員から焦りの声が聞こえた。そして私達は憎らしいながらも、テストのために薬学の復習に明け暮れたのだった。