怒らせてはいけない人達
誰かに抱きかかえられているような感覚で、静かな意識が浮上していく。ゆらゆらと心地よい揺れに身を任せ、優しい声が私に語り掛けている。その声がまた耳に沁みこむようで、目覚めを拒否してしまいそうになる。しかしその時目を瞑っているはずの視界に光が滲んだ。
眩しい光を感じ、目が覚めた時にはお兄様の腕の中で玄関へと歩いている途中だった。馬車はいつの間にか家へ着いていたようで、私を起こさないように気を遣ってくれたお兄様が私を抱き上げていた。
俗にいう、お姫様抱っこの図である。
いやあ、これ。イケメンにお姫様抱っこされるなんて、そんな贅沢、前世では憧れだった…。
「おや、お目覚めかな」
お兄様が私に眩しい微笑みを向ける。慈しむような優しい眼差しに思わず目を細めてしまう。あまりにも見目が整っていると物理的に輝くことが出来そうな気がするの。笑顔が眩しすぎて、イケメンってある意味目に毒なのだと痛感いたしております。
「寝てしまってごめんね、お兄様」
私はそう言ってお兄様の首に一度抱き着く。「おやおや」と言うお兄様の嬉しそうな笑い声が耳元で聞こえる。出迎えに出ていたメイドの微笑ましげな視線を感じ、何だかこそばゆい気持ちになる。
「すっかり寝入ってしまっていたから、起こさずにいたけど大丈夫かい?」
「ええ、もうすっかり元気!」
私は腕の中で袖を捲り力こぶを作って、元気さをアピールしてみる。その様子にお兄様が声を出して笑ってしまった。まだ兄妹になって二週間程度だが、こんなに笑っている姿を見るのは初めてだ。思わず目を見開いて驚いてしまう。
お兄様は笑うだけ笑うと、私をそっと降ろして頭を撫でる。
「そうかい、元気で安心したよ。でもそんな事していたら母様に怒られてしまうよ?」
そうだった。袖を捲って力こぶを作るなど、淑女としてあるまじき姿だ。捲るのもはしたないと怒られてしまう。
私は慌てて自分の様相を正し、お兄様を上目遣いに見つめる。お兄様は私を愛おしげに見つめ、「可愛いね」と声を掛けてくるのであった。
「夕方になる前にイデア公爵家の嫡男が我が家に来ると、連絡があったが何が起きたんだい?」
玄関から屋敷に入り、迎えに出てきた両親への挨拶もそこそこに、お父様がお兄様に切り出す。お兄様は私をちらりと見る。きっと今日の授業での事だろう。私はそっと右腕の痣のある場所を擦る。触れた時の痛みはじくじくと強さを増している。
お父様は私をちらりと見ると、悲しげな顔をしてそっと抱きしめてくれた。お母様もその奥で似たような顔をしている。お父様に抱きしめられた所から、自分の身体が無意識に保っていた緊張がほどけていくのが分かった。
「手紙で先駆けを送っていた通りです。詳しくは食事の後に。」
お兄様は私を気遣ってか、食堂へと家族を促す。その優しさが身に染みるが、実は然程お腹はすいていない。お父様に抱きしめられた時に、やっと安全な場へと来たのだと糸が切れるように感じた。私はあの授業の時、アルベルトに対して恐怖を感じた。だけど泣いてはならない、負けてはならないと弱みを見せないようにと気持ちだけ持って耐えていた。
今お父様の腕の中で安心して、保っていた緊張がゆるんだのか体に震えが来ている。足に力が入らなくなって、ガクンとそのまま床へ座り込みそうになるのをお父様が抱きかかえてくれる。
「大丈夫、ベルトリア。もうここはお前の家だ。」
お父様は片手で私を抱くと、もう片方の手で私の頬をそっと撫でる。
「私の可愛い子、落ち着いて。」
その横からお母様も私の手を握って、宥めてくれる。お兄様はその光景を後ろから見て、何やら悔しげな顔をしている。
私はお父様の顔を見上げ、目が潤んでくるのを感じながらも精一杯笑おうとする。でも涙をこらえている為か、頬まで引き攣って上手く笑えない。
「トリア、泣かなかったよ。えらい?」
震えて上手く話せない私の口から零れたのは、甘えたような子供言葉だった。今まで自分のことをトリアなんて言ったことない。涼香の意識がある為か、両親にどこか他人のような感情を抱いていたからかもしれない。だから私は自分から甘えたことがほとんどなかった。
両親は目を見開くと、柔らかな瞳で目尻を下げている。
「ああ、偉いよ。流石お父様の娘だ」
「本当にベルトリアはいい子。でも私達には弱いところも見せて甘えなさい」
私はその言葉が嬉しくて、大きく頷いた。目尻から一筋温かいものが零れていくのを感じた。
食事が配膳されていく。今日はミートソースのパスタだ。それにスープとサラダがついて、いつものようにコース料理ではないお気楽昼食となっている。これは私からのお願いしたことで、コースが運ばれてくるまでに満腹になってしまうからだ。子供のお腹では少しきつかった。
「それじゃあ、イデアの次男がベルトリアに手を挙げたのはルーファスに反発してのことだったのね」
お母様がお兄様に確認する。お兄様は頷きながらも補足を、と話を続ける。
「正確には僕に反発というより、サンティス家を格下と見ての行動だったようです。我が家を『分家』などと呼んでいたから」
それを聞いてお父様は深く溜息をつく。
「あちらからクリスティーナ嬢を預かったのは、私がまだ子供の頃の話だ。当主のノーリスも子供の頃の話だったし理解していても、孫までは伝わっていないという事か。」
「学生時代は優秀でも、子供の教育ができていないのであれば程が知れるわね」
私は大人たちの会話を聞きながら、パスタをフォークへと巻き付ける。
お父様たちが周囲の貴族と比べ年を召している事は知っている。けどイデア公爵家の当主のノーリス様を呼び捨てる程、年が近いとは思わなかった。
イデア公爵家の当主ノーリス様の子供が、次期当主のユリウス様と第二妃様だ。アルベルトはユリウス様の次男で、ノーリス様の孫。我が家へと嫁がれたのがノーリス様の叔母のクリスティーナ様。
うん、これはこんがらがりそうよ。だって世代が我が家と一世代ぐらいズレるのだもの。うちのお爺様なんて、見掛け三十代よ。お父様より気持ち年上かな、程度なのよ。
我ながら自分の家の血筋が怖くなってきた。自分はこの国の誰よりも長く生きるのだろう。その時、きっと周りに友人はいない。孤独だろう。
いや、今は自分の未来を上手い事進める為に、将来のことを考えてる暇はない。私は気が付けばすっかり大きく巻いてしまったパスタを、お母様にバレない様に大口を開けて頬張った。でも勿論バレているので、冷たい視線を視界に収める。
私はスープの椀を近づけようとして、右手を伸ばして掴む。
「っ痛い…」
だが私の右手がスープの器を持つことはなく、ゴトっと音を立て器を取りこぼす。幸い零れる事無く、器も中身も無事だったが皆の視線がこちらへ向く。
「あ、あはは…」
笑って誤魔化すしかないと、笑おうとするがお父様が素早い動きで私の方へ近づき、右腕の袖を捲られてしまった。
「…ベルトリア」
お父様の悲しそうな声が顔を伏せた私の耳に届く。お母様の息をのむ音と、お兄様のため息が聞こえる。扉が開く音がしたから、誰かが手当てのために道具を取りに行ったのだろう。
「ベルトリア、何で黙っていたんだい?」
お兄様が私に問う声が、静かに食堂に響く。扉が慌ただしく開き侍従が慌てて氷と布を持ってくるのも確認できた。
「だって、言い付けるなんて見っとも無い真似したくなかったんだもん」
私は俯いたままだった視線をお父様に向ける。お父様の悲しさと怒りを混ぜ込んだような瞳に、私はアルベルトの瞳を重ねてしまいそうになる。今の私は自分が思っている以上にショックを受けているようだ。
「怖がらせたね。でもベルトリア、これは秘密にしてはいけない事なんだ。大事な我が娘に怪我を負わせたあいつを許しては置けない。」
お父様は戸の傍に立っていた家令のウィルに目配せをすると、ウィルは頷いて外へ出ていく。そしてお父様の後ろで心配そうに冷やす道具を用意しているアニーへ、頷き手当てをさせる。
しばらく氷で冷やしたタオルで腕を包まれ、包帯をぐるぐると巻かれていく。いつの間にか皿は下げられ、飲めなかったスープはお兄様が口に運んでくれた。至れり尽くせりである。
私達は家族の談話室へと向かう事にし、今日の出来事の詳細と今後の作戦を立てることになった。