第八十五話 二つのハートに火がついた13時過ぎ
みさきの引っ越しが無事完了した次の日のことである。時刻は13時過ぎ。大蛇高校では5時間目の授業時間を迎え、現在校庭では体育の授業が行われていた。
みさきはマウンドに立つと、素晴らしき円を描きながらのウインドミル投法による高速球をキャッチャーのミットに叩き込んだ。今は12月、乾燥した街の空気を伝い、ミットのキャッチ音は学校から数メートル離れた田畑にまで響いていた。
「ほほぅ、相変わらずみさきちゃんは良い球を放る。こうしてミットのキャッチ音を聞けば、あの夏の記憶が蘇るようではないか。遥か昔、甲子園に置いてきた高校球児の血がうずく……」
みさきのピッチングを校舎の壁の向こうから盗み見ていたこの男は、ガッツリ変装したみさきの父であった。黒いニット帽をかぶり、サングラスをかけ、大きなマスクまでしている。そして上はダウンジャケットを羽織り、下はステテコだった。少々妙な格好である。
昨日酒に酔いつぶれてみさきの部屋に泊まった父は、みさきが仕事に出て以降暇で仕方ないので、娘の働きぶりを見に変装して学校に来ていた。
平日に校舎の壁の外からこんなのが覗いていたら警察を呼ばれてもおかしくない。
そして、みさきを覗く男は一人ではなかった。
「ふふっ、きっと現れると想っていましたよお父さん」
「ぬぬっ!これぞう君!」
変装をすぐに見破って声をかけたのはなんとこれぞうであった。
「これぞう君、君は授業中にどうして学校の外にいるんだい?校庭はすぐそこだけど、外に出ているのだからこれは校則違反だろう」
「ふふ、何を今さら。僕を一番縛るものは他でもない僕の感情ですよ。校則だとか、条例、法律ってのを遵守するのは後回しですよ」
「なるほど、実に君らしい。それは常識には捕らわれない自由な生き方のようで、その実常識の外を歩む方が茨の道ときている。楽や妥協に安易に走らないのは感心するね」
「ありがとうございますお父さん」
二人の変人は気味の悪いやり取りを行う。
これぞうは体操服を着ていた。
「君はソフトボールをしないのかい?」
「いえ、僕達男子生徒は体育館でバレーボールをやっています。せっかくみさき先生が女子の体育の授業でマウンドに立つというのに、あんな汗臭い連中と汗にまみれることもなかろうと想ってサボタージュをかましたわけです」
「なるほどね、学生として推奨出来ぬ生き方だが、確かに汗臭い体育館にいるよりは12月の清々しい空気を吸いながらみさきちゃんの美しきウインドミル投法を拝む方が有意義というもの」
二人が話をする間に「カキン」というバッティング音が校庭に響く。みさきはソフトボールでも野球でも達人レベルの腕を持っている。なので、相手に空振りさせるも、良いヒットを打たせるもお手の物と来ている。こんな学校の一介の女学生がみさきの本気の球を打てるはずがない。先生であるみさきは、当然手加減して生徒が気持ちよく打てるようなピッチングを行っていた。
「みすずちゃんに聞きましたよ。先生は現在部活で陸上競技を教えていますが、高校時代にはソフトボール部に所属し、多くの大会に勝利しては栄華の頂点を極めたと。そんな先生に野球を教えたのは元高校球児のお父さんだということもね」
これぞうはみすず情報を語る。
「ふふ、そうだな。あの子はあのまま五輪でも目指せばよかったのだが、ああして子供と戯れている方が性に合うらしい。勝負事では常に人に勝利してきた子なのに、勝利に執着がないんだよ。実力はあっても勝負の世界に身を置くタイプの人間じゃない」
「そうですか、それは良かった。先生が世界を股にかけて戦う乙女だったら、こんな場末の地で僕と巡り合うような運命は用意されてなかったってことですからね」
「君はまたポエミーだね」
二人は流暢に無駄話を交わしているが、体は向き合ってはいない。両者共に体を校舎の壁に向け、ちょっと背伸びして校庭のみさきを見ていた。
「どうですお父さん。ああして乙女達が白球を打っては投げる様を見ると、元球児としてうずくものがあるでしょう?」
「ああ、それは先程から想っていたよ。私もかつてはマウンドで鳴らしたものだからね。古今東西のスラッガーのスラッガーたる所以である強力なバッティングを一切させずにバッターボックスから退かす。相手にとっては吐く程悔しい想いをすることが、マウンドに立つ者にとっては最高の快感なのだよ。今でも思い出すね。私に負けた者達は、まるで呪い殺すかのような目をして私を睨むんだ。あの目を見た回数がこちらにとっての勝利数ということだ。まったく勝負の世界は残酷、だがそれゆえに面白い」
「経験者は語る、というわけですね。僕は野球なんてしたことありませんが、そうして理論的に勝者と敗者の関係性を聞かされると、奥が深い世界だと分かりますよ」
これぞうは自分の横に立つみさきの父の目をちらりと見た。若き栄光の日々を思い出しているのか、父の目は昨日よりもギラギラしていた。
「では、どうです。このあと一戦交えるというのは?」
これぞう、遂に切り出した。
「投手のこの私とやりあうということは、君が打者となるわけかい?」
「もちろん。僕に投げの技術は皆無。しかし打つなら話は別」
これぞうはこんな返しをしたが、別に打つことに対して特別な訓練をしたとか、何かのスキルがある訳ではない。ビギナーズラックを掴めるとしたら、投げるよりも打つほうが希望がある気がしたから言っただけのことだった。これぞう的には、適当でも振れば当たるだろうくらいにしか想っていなかった。
「いいねぇ。肩は出来ているのだよ。あの夏からねぇ……」
父は遠い目をしているが、その目は確かにギラついていた。
「僕は無益な野戦をしかけるような野蛮人ではありません……」とこれぞうが言うと透かさず父は次の言葉を返す。
「皆まで言うな、わかっているよ。この勝負にかけるのはずばりみさき。そうだね?」
「察しがよろしいようで……」ここまで言うとこれぞうはみさきを見るのを止めて父の方に体を向ける。
「お父さん、まさかこんなに早くあなたとぶつかり合うことになるとは」
「手は抜かんよ。君に、そして私の抱く野球愛に失礼だからね」
二人は並んで歩き始めた。壁に伝って真っ直ぐ歩くと間もなく角を曲がる。曲がったすぐ先には校門があり、二人は揃って学内に足を踏み入れた。このまま向かう先は女子生徒が体育の授業を行う校庭であった。




