第八十二話 鮭に落ちるは父の涙
これぞうは今、みさきの新たな住まいのキッチンにいる。そこで彼は鼻歌混じりのご機嫌状態で鮭を捌いていた。ここに住むみさきよりも先に余所者のこれぞうがキッチンを使っている。何とも妙なことになっていた。
これぞうが包丁をご機嫌に扱っている間、リビングでは父と娘二人が久しぶりに対面し、談笑していた。皆はこれぞうが土産に持って来たソニックオロチシティの名物「大蛇饅頭」をご機嫌につついていた。
「ふむふむ、こいつは美味いなぁ。大蛇饅頭なんて本当に久しぶりに食べるよ~」と言いながら甘い物と娘が大好きな父は、生地をボロボロ零し饅頭を味わっていた。
「ちょっとお父さん、引っ越したばかりなんだからボロボロ床に落とさないでよ」とみさきは注意した。
「ははっ、すまないね」
「お父さんってお菓子を食べる時にはいつだって子供みたいなんだから」と笑いながらみすずが言う。
「ははっ、お母さんはそこが好きだって言ってたよ。それきっかけて今お前たちが生まれているのさ。お父さんが何でも綺麗に食べるお坊ちゃまだったとしたらだよ。ことによると二人はこの世にいなかったかもしれない」
「まったく、このボロボロ癖のおかげで今の私達があるなんて考えたくもないわよ」と言いながらもみさきは父のこういう隙のある部分が好きだった。シャレではない。マジだ。
「ふむ、ところでだが……お父さんは引っ越しなんてのを経験したことがないから、この業界には詳しくない。で、ビックリなのが、最近の引っ越し屋さんは荷物を届ける以外にもああして魚をおろすオプションサービスも行っているのだね。いや~これはすごいね、知らない内にどこの業界も顧客獲得のために色々やるようになったんだね~」
父の言葉に対し、娘二人は「はは~」と笑うのみで返した。
これを受けて父は、机をドンと叩いて態度を変える。「て、なわけないでしょうが!いくら世故に疎いお父さんでもこればかりは騙されません~。鮭を捌くサービスを行っている引っ越し屋なんてあるわけないよ!あの彼、誰よ?」
遂に父は、みさきが面倒と想っていた話題に触れた。みさきも2%くらいは雰囲気のままにそこのところは流せると想っていたが、父はそこまでバカではない。これぞうがいるという異質な点にやはりちゃんと気づいた。
「はいはい、お父さん出来たましたよ~。まずは刺し身ですね。コイツは活きが良く新鮮ときている。生でもいけちゃいますよ。先生、小皿がありませんか。刺し身醤油はこちらで小袋のやつをもらっているんですよ」
これぞうはまるで水野家の一員であるがごとくごく自然に会話に入ってきた。
「切り身の方は今焼いていますからね、しばしご歓談ください。そう時間はかかりませんよ。二人は遠くから足を運んでお腹が減っているでしょう。先生だって、僕の不手際で重い冷蔵庫を運んでもらうことになり、きっとお腹が減っていますよね。そして誰よりもこの僕が腹ペコだ。さっさと焼いてしまおう」
いつも通りペラペラと喋るとこれぞうは再びキッチンに戻る。
みさきは会話の途中だが小皿を出し、そこに小袋に入った刺し身醤油を移す。父は透かさずそれに鮭を浸し口へと運ぶ。
「ぬう!これは!美味いぞぉ!!」
父は舌鼓を打っていた。
「本当だ!美味しい」
みすずも喜んで食っている。
「ふむふむ、まだ若いのに料理が出来、色々と気も利くとは見込みある若者だね。もぐもぐ……」
父は美味い物を食えば大抵のことを一時忘れる。しかしみさきは気が休まらなかった。この押しかけ料理人のこれぞうのことを父にどう説明すればよいか。生徒と教師の関係と言えばそれまでなのだが、それ以上がないようであるような非常に微妙な間柄なのが真実であった。
「うむ、で、誰だねあれは?」
父は箸を置き本題に戻った。しかしそこで次の話題反らしアイテムが登場する。
「お父さん、皮もパリッと焼けてましたよ~。さぁさぁ召し上がれ」
これぞうが焼き鮭を持ってきた。
「ぬぅぉ!これは太い切り身!食べごたえがあるぞ」
父の口内の汁量が増え、そして頭の中からこれぞうのことが消えた。
みさきは思う。これを父が満腹になって寝てしまうまで繰り返せば良いのではと。しかしそんな落語みたいに面白くことは進まない。
「君、わかったから座りなさい。君が料理できる好青年なのは分かった。その他の残った謎を解いていこうではないか」
父はこれぞうにも座るように言った。
「はい、お父さん、僕に何か?」
「お父さん……う~ん、男からそう言われるのもなかなかどうして悪くない。そりゃもちろん可愛い娘が好きなのだが、真に分かり会えるのは同性なのかもしれない。そう思うと息子を一人作っておいても良かったなと考えることもあるのだよ」
「ふむふむ、分かりますよ。僕のお父さんも息子は息子、娘は娘で相手をして異なる趣があると言います。だからどっちも産んで良かったと言ってました」
「君は話が分かるなぁ。親御さんの教育が良きものだと、教育の素人の私にも分かるよ」
「ははっ、良く言われます」
みさきは思う。この二人、妙だ。これぞうは当然だが、考えると自分の父も普通ではない。二人は意外にも波長が合うようだった。
「ああ、僕としたことが自己紹介をしていなかった。僕はファイブこと五所瓦これぞう。と言っても、ファイブの名はついさっき捨てたので、今ではただの五所瓦これぞうです」
「ほほう、珍しい名だ。しかし良い名だね。私はこのみさきちゃんとみすずちゃんの産みの親だ」
「お父さん、産んだのはお母さんでしょ」とみすずが口を挟む。
「なに、出産てのは夫婦の連携プレイ。ならば産んだのはお母さんでもあり、またお父さんでもある」
何だ、この生産性の無い話題は、とみさきは想った。
「それで君、名前以外のことを教えてくれたまえ」
「ええ、僕は大蛇高校に通う高校一年にして、一介の文学青年であります。そちらのみさき先生とは教師と生徒の関係にあります」
「何、みさきの教え子か」
「ええ、それに違いはありません。しかしみさき先生は僕のクラス担任ではありません。それでもみさき先生は僕が尊敬する教師です」
「くぅ……ウチのみさきが……ほんの昨日までおしめを穿いていたと想ってた我が娘が、今ではこうして生徒から尊敬される立派な教師になった。手塩にかけて育てた愛しき娘を社会という野に放って早半年。心を痛めてまでそうした効果がちゃんと見られた。お父さんは嬉しい。みさきが社会の役に立っている……」
なんと父は鮭を食いながら泣いていた。
みさきはまた思う。何だこれは、と。そしてやはりみすずはニコニコして面白そうに場を眺めていた。




