第五十七話 愛が地球を救うのかは知らないが、愛する人のためであれば走るのが嫌いな奴もきっと走るのは確かな話
みさきは両親に可愛がられ、妹に慕われ、友にも恵まれ、今では教師として学校の生徒にも人気があり、内一人からは師弟の関係を越えて愛されている。そんな感じで彼女の人生は楽しく幸福なものであった。
そんな彼女にこれまで経験したことのないレベルの不幸が訪れた。それは彼女が新天地で見つけた安息の地を失ったことであった。たった半日前まで確かにあったその場所は、今となっては安心して息をつける場とはいえないものになっていた。
失意の中、腹を空かしたみさきはお好み焼き屋「大ひっくり返し8号店」を訪れていた。彼女は両手に手提げ鞄を持ち、背中にはリュックを背負っていた。みさきの荷物は、普通に飯を食いにいくには多すぎる量であった。それらは潰れた部屋から何とか運びだした道具であった。
人とはいつだって腹が減る生き物である。親が死のうが、借金取りに追われようが、大事なコレクションのカードやシールを誤って洗濯機で回して塵芥に変えたとしても、人というのはきっと腹を空かす。そんな例に漏れず、失意の中にいながらもみさきはたくさん食いたい気分であった。店に漂うソースや鰹節の匂い、厨房に置かれたマヨネーズの赤いキャップを見るだけでもみさきの腹は鳴り、口内の汁量は増えていくのであった。これが条件反射というものである。
すっかりみさきとは顔見知りになった店主の親父が言う。「先生どうしたよ、今日はそんなにどっさり荷物を持ってさぁ。彼氏の家にお泊りでもいくのかい?」
気の利く店主の嫁がツッコむ。「あんた、そういうのを聞くのは野暮ったいし、昨今ではセクハラになるんだよ。客と店を無くしたくないなら無駄なお喋りはおよしよ」
「はぁ~彼氏の家にお泊りだったらどれだけましだったか……」とみさきは力無く言い、おまけにため息を一つ。しかし、お好み焼きが出てくれば元気に平らげるのであった。
さて、晩飯を終えて腹を膨らませたみさきが次に行うことは今晩をどうやって乗り切るかであった。アパートを出ていく時、大家の婆さんには「水野しゃん、あんたなら、家主が男の家をあたればいくらでも泊まり先はあるさ」と言われた。と言っても、まさか知らない人の家の門を叩くわけにもいかない。みさきにとってソニックオロチシティは新天地であり、ゆえに地元の知り合いは少ない。こっちの街では友人もいないし、誰を頼ったら良いものか困りものである。今から実家に帰るには遅いし、それに明日も学校で仕事がある。
「さて、どうしたものか……」
今日を越したところで、みさきはこの地で仕事をするのだから、やはりちゃんとした次の住まいがいる。しかし賃貸の契約にはそれなりに時間がかかり、明日や明後日にも次の部屋に住めるなんてことは難しい。
「いっそのこと学校に泊まろうか、まだやったことがないけど宿直用の布団とかがあるかもしれない」
みさきは今後の人生をどうするか真剣に考えている。しかし飲食店で飯を食い終わった後にはそう長居は出来ない。早く次の手を決めないとまた暗く肌寒い路頭を彷徨うことになる。彼女には時間がなかった。
その時これぞうはというと、とっくに帰宅して本日のクラス会議で依頼された演劇の案を考えていた。
「う~む、こうして紙とペンを用意して家の机に向かうことって久しぶりかもしれない。僕はたまに勉強してもペンを用いないタイプの人間だからな」
そう、彼は英単語や漢字を覚えるためにノートに何度も書くタイプの人間ではなかった。考えること、記憶することに長ける彼はそのくらいのことなら頭の中だけで済ませてしまう。手が疲れないし、貴重な紙を消費することもないので、体と自然に優しい学習スタイルであると言えよう。
「しかし、今まで物語を書こうと想ったことがないのだが、いざ書こうとなると、アイデアに困窮するどころか、温泉のごとく湧き出てくる。うっかり頭から溢れ落ちてしまわないよう上手いこと紙の上に広げていかないとな。たくさんあってもそれらをしっかり活かせないとアイデアの損だ」
これぞうが始めて本を書くことは上手く行きそうである。
そこへ姉のあかりが闖入してきた。
「これぞう!大変よ!」
「姉さん、いつも姉さんが言ってるマナーはどうしたんだい。ノックがないじゃないか」
これぞうは姉が無断で部屋に入って来ても気にするような男ではない。しかし、普段は自分がノックせずに人の部屋に入るのを注意されるものだから、ちょっとした仕返しのつもりでほくそ笑みながら姉にそう言ったのであった。
「いやいや本当に大変なのよ」
「何がだい姉さん、今日は僕にあんな電話してきてさぁ、いやあれは松野さんにかな。まぁいいさ、話してみなよ」
「大変なのはみさき先生よ!」
「何だって!あの人にまた何があったと言うんだ!」と言いながらこれぞうは椅子から立ち上がった。先程までの余裕をぶっこいた表情は消え、みさきの名を聞いた途端に顔つきは真面目なものに変わっていた。
「ちょっとね、さっきみさき先生の家の方を通ったのよ」
「え、何でまた?」
「ええ、それはたまの思い付きでランニングに出てね」
このようにあかりは、時に思いつきで何かを急に始めることがある。若さゆえの習性であるからして、その内に落ち着くものと思われる。
「そんなことはいいのよ。先生の住んでるあのボロアパートの前を通ったらね、なんと家が半分壊れているじゃない!」
「なっ、何と!!」
これぞうは上半身をやや後方に反らし、驚き顔で言った。
「で、みさき先生は無事なのかい?」
「それがね、住んでる人はみんなどこかに避難しちゃった後で、中は空よ。先生がどうなったかは分からない。縁起でもないことだけど、もし先生が家にいた時にああなったなら無事でいるわけがないわ」
これぞうはそれを聞いて畳に膝を着く。
「おお神よ、どうかみさき先生が無事であるように、どうかそうであってくれ」とこれぞうはものすごい心配しているが、みさきはしっかり無事であるからこの心配はするだけ無駄である。
「こうしてはいられない、先生を探さなくては!あの人の無事な顔を見ない内には、呼吸以外何も出来ない!」そう言うとこれぞうは部屋を飛び出そうとする。
「待ってこれぞう、これを!」そう言ってあかりがこれぞうに差し出したのは夜行タスキであった。
「あんたが車に跳ねられでもしたら大変だからね」
「ありがとう。世界のことは知らないから大きく出れないが、とりあえず僕の姉さんはソニックオロチ一だ!」
タスキをかけるとこれぞうはまずは部屋を、次には家を飛び出した。体を動かすことが億劫だと常々想っている彼が自らの意志で公道を駆ける、これは全てみさきへの愛がそうさせているのだ。
弟が消えた後の部屋に残った姉は言う。「そこは嘘でも世界一と言いなさいよ……」




