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第二十八話 恋にときめいたその時、彼が彼になる

 これぞうが久しぶりに夏祭りに足を運んだ目的であるみさき先生が遂に見つかった。この時のこれぞうの嬉しい気持ちと来たら、喉がカラカラの状態で砂漠をさまよった末にやっとオアシスを見つけた旅人の気持ちと同じであった。と想う。

「先生、やっと会えましたね」と言いながらこれぞうはベンチから立ち上がある。

 みさきはこれぞうを見て、その隣に座っている松野のことも見た。

「あ……もしかしてお邪魔じゃなかった?」

 松野がこれぞうを好いていたことをみさきは知っていた。二人の関係には一旦決着がついたが、夏祭り特有の幻想的な力が働いて、二人の間にラブな何かが芽生えたのではとみさきは考えたのであった。

「いえいえ、先生が邪魔になることがあるものですか」

 みさきが気を遣っていることなどお構いなしにこれぞうはそう返した。

五所瓦ごしょがわら君、頑張ってね。私はそろそろ皆の所に帰らないと。リンゴ飴をありがとう」

 松野は小さい声でそう言った。

「先生、またね」と言うと松野は仲間の元へと帰って行く。

「松野さん、転ばないように気をつけてね~」と言ってこれぞうは松野に手を振った。

「ええっ!ちょっと五所瓦君良かったの?松野さん行っちゃったけど」

 みさきは、自分がもしかして二人の逢瀬を邪魔したのではと気にしていた。

「ええ、いいんですよ。誰にだって帰る場所があり、彼女もまた彼女のいるべき場所へと帰るだけのこと。それに良いも悪いもない……」

(この子はまた詩人めいた謎のテンションで喋るわね)とみさきは想った。

「それはそうと先生、まぁお座り下さい。お勤めの最中でしょうが、少しくらいはいいじゃないですか」

「ええ……って、駄目です。私は今はパトロール中ですから」

「そのパトロールってのは、さぞ腹が減る労働なのでしょう。そこの所を気遣うのがイケてる男子、姉さんがそう言ってました。先生が業務に支障を来すことなくサクッと取れるおやつとしてこのクッキーを焼いてきました。こいつも食感がサクッとしていますよ。ささ、どうぞ」

「え……まぁ、生徒の差し入れを断るのも、アレだし。少しね」

 そう言うみさきはすごい腹が減っていた。

「おいしい!」

 みさきが齧ったクッキーはハートの形をしていた。これぞうの想いを形に反映してのことである。

「でしょう。僕の力作ですからね。たまたま今朝作っていてよかったですよ。そいつは二学期になって先生にまた食べて貰おうと想って、前回作に改良を加えたものです。そして、その美味しいさを味わって、口内が乾いて来たところでお次はコイツです」

 そう言うとこれぞうは家から魔法瓶に入れて持ってきたミントティーをコップに注いで彼女に渡す。みさきはそれを受け取る。みさきは現在手にしている魔法瓶のふた兼コップをじっと見た。

「はっは、先生の言いたいことは検討がつくなぁ。大丈夫ですよ。そいつは中身をしっかり洗って、今初めて飲んでもらうものです。僕の飲みさしではありませんよ。だって僕はこっち」と言うとこれぞうはペットボトルの麦茶を出してみせた。

「ね?」

 みさきは潔癖症ということはなく、むしろそういうのは気にしないタイプの人間だったが、この時だけはどうゆうわけか、これぞうが言ったことと同じようなことを疑った。そしてミントティーもグイッと飲んだ。

「これは、さっぱりして良いわね!」

「でしょう。これは叔母の家で取れたミントを使ったものです。ミントが入ったパウンドケーキなんてのも昨今はお店に並ぶそうで、今度はそれを作るのにも挑戦しようと想います」

 みさきは、これぞうという男がどこまでも得体の知れないと存在だと想っていたが、それでもこうして気が利くこと、ちょっとしたお菓子や食べ物を実に上手に作ることには感心していた。どっちかと言うと料理が駄目な自分としては彼のこういうところは見習うべきだと想った。

「先生、この先も暑い中での業務が続くのでしょう。よかったらその水筒は持っていって下さい。ちょっと重いかもですが、ここにビニル袋もあるので、パトロールしながら喉を潤してくださいよ」

 この準備の良さはどういう訳なのか、みさきはそこのところが不思議で仕方ない。

「五所瓦君……あなたコレって、もしかして私に会うことを想定して?」

「ええ、先生ってば勉学も運動も出来るのに、勘の方は少し鈍いようだ。想定しまくってのことですよ」

 みさきは、これぞうが一体どこまで自分に気があるのか、聞いてみて答えが知りたくなった。しかし今は堪えた。ちょっとの好きくらいで、ここまでの気遣いをするものなのか。男子の好きの気持ちについてまだ分からないことが多い彼女はそんなことを想った。何にせよ間違いなく想ったことがある。その想いが自然と口から出た。

「ありがとう……」

 みさきのこのありがとうは、いつもとは違う調子で言われた。みさきは優しい目でこれぞうを見つめていた。差し入れをもらってただ礼を言っただけのこと、それでもいつものみさきとは何か違う感じがすると鈍感なこれぞうでも気づいた。彼の胸が激しく一度打たれ、次いでテンポよく強めのドキドキが繰り返される。これぞうの頬は赤く染まった。

(ややっ、これはどうゆうわけだろう。みさき先生に会えばいつだって嬉しいし、楽しい気持ちになる。しかし、今日はいつもとは違う言葉にし難い何か別の気持ちがこみ上げてくる。僕はいつもよりも気分が高まっている。それに顔が熱い。夏の夜の熱にやられたかな)

 これぞうはそのようなことを想っていた。彼が感じた日頃とは違う新たな気持ち、それが何かは私としても筆舌に尽くし難い。これぞうはきっと、人の感情の中で最も繊細にして敏感な部分に刺激を受けているのだと思われる。

 これぞうはみさきの礼の言葉に対してしばらく答えられない。不自然に無言の時が流れた。

「あ、ああ、それはどうも。喜んでもらって良かったですよ~」

 これぞうはその気質がアクターである。人には捕らえきれない謎の人格は元々の物だが、それでもいくらかは自分という人間の底の底の部分を他者の目から覆い隠すための芝居が入っていた。その彼が、さき程の一瞬だけは、素の、ただ好きな人にときめいて固まる男子の一面を見せた。それはこれぞうの仮面が取れかかった瞬間であった。これが出来たのは世界広しと言えどみさきだけであった。

「じゃあ、これはありがたく飲ませてもらうね」

 みさきは生徒の気持ちを無下には出来ないので快く受け入れた。

「私はそろそろパトロールに戻るね。五所瓦君も祭りを楽しんだら気をつけて帰るんだよ」

 これぞうは想う。もう最高に楽しませてもらったと。

 そうして彼は去りゆくみさき先生の愛しい背中を見つめていた。

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