第百九十二話 いつまでも止まってられない命
慣れない足の動きでこれぞうは少しずつ海中を進む。
「そう、その調子よ」
「は、はい!」
これぞうの眼の前には愛しきみさきの姿がある。彼が伸ばした両手はみさきの両手と繋がれている。
水中で動くのは辛い。しかし、指先に伝わるこの柔らかさと暖かさは確実に水を切る原動力となる。
「どう?感覚掴んできた?」
「はい、実に柔らかい!」
「そうそう、水は柔らかいものよ。恐れずに体をまかせるの」
これぞうには水の柔らかいや堅いなどは全然分からない。柔らかいと言ったのはもちろんみさきの手のことだが、何とか話は噛み合っていた。
「へ?柔らかいって水のこと?」これぞうはみさきの顔を見上げて言った。
「え?じゃあ何が柔らかいって言ったの?」
「それは今こうして握っている先生の手のことでああああ!」
みさきはこれぞうの手を離した。
これぞうは思わず足を着く。
「酷いじゃないですか先生。いきなり手を離すとは」
「知りません。まじめにやらないからよ」
そうは言っても、このクソ広い海で二人切り。そして、みさきに手を引かれた状態で息継ぎのために顔を上げれば、そこには彼女の胸が良く見える。泳ぎは学びたいのだが、みさきの女性的魅力は男子が真剣に物事に取り組むには気が散る物だった。だってドキドキするもの。
「先生にドキドキして泳げないって言うんじゃ、五所瓦の男の恥だ。さぁ続けましょう」
「真面目にやりなよ。お父さんに泳ぎを教えるように頼まれてるんだから」
「へへ、いいなぁ。先生が僕のお父さんを同じくお父さんって呼ぶのって、そういう関係みたいじゃないですか」
「ほら、またふざける!」
「いえいえ、そういう関係ってのが実現することを願っているのは本気です。そのためにも先生と対等になりたい。対等の一つの条件が泳ぎなのですから、僕は必ず泳げるようになってみせます」
これぞうはあくまでやる気だ。
みさきと対等になりたい。彼はそう告白した。対等になりたいならまずは泳げるようになること。これがみさきからの返答であった。
愛のためなら苦手な水とだって仲良くしよう。決意を固めたこれぞうは、昨日自分を殺しかけた青い海に再び挑んだ。
泳げる。これぞうは徐々に水泳の技術を身につけて行く。
みさきの教えはやはり上手い。実は彼女、妹のみすずにも泳ぎを教えたことがある。これぞうと同じ歳の妹に泳ぎを教えた時、妹はまだ小学校に上がる前だった。対してこれぞうは随分遅れての泳ぎの習得となった。
みさきもすごいが、これぞうだって学びの力が少ない男ではない。彼はこれまで水泳の授業から逃げていただけで、レクチャーを受ければ頭でも体でも理解が早い方だった。
「いい感じよ。そろそろ一回手を離して見ようか?いい?」
「いつまでも繋いでいたいですが、己の成長のために離れましょいああ!」言い終えない内にみさきは手を離した。これぞうは沈まずに何とか浮いたまま進んで行く。
「そう!そのまま砂浜に向かって!足を着かないで」
みさきの指示を受けてこれぞうは足を動かす。昨日溺れた時は何をしても体が浮かなかった。しかし今はどうだ。自分は浮き、そして自らの意志で進みたい方へ移動している。
泳げる。自分には出来る。彼は自分が泳げることを確信した。
「おつかれさま。泳げたね」
これぞうは砂浜に帰ってきた。
「はは、あの僕が浮いてここまで来たのか。こいつは……嬉しいなぁ。記憶はないが、よちよち歩きを脱して二足歩行をした時、きっとすごく感動したのだろう。己の進化の時を見た。僕は猛烈に感動している!」
これぞうは感動して肩を震わせていた。
「みさき先生!ありがとうございます!」これぞうはみさきの両手を取って言った。
「ええ、そんなに嬉しい?」
「ええそりゃもう!だって先生の手を握れたし」
「もう、それ言わないの」
「ははっ、しかし、さすがに疲れた」
これぞうは砂浜に座った。みさきも座った。
「先生、昨日の昼。僕は丁度ここに倒れて先生から心臓マッサージを受けていたわけです」
「うん。そうだね」
「あの時、これぞう君って、僕が目を覚ます前の最後の呼びかけはそう言いませんでした?」
「……覚えてない。だって必死だったから」そう言うとみさきはやや俯いた。
「いいえ、先程は疑問系の形を取りましたが、先生はっきりそう言ってました」
「え、何で試すようなことしたのよ」
「ああ、ということは先生もそこのところをお認めになると?」
「知らない」
語るに落ちた。みさきは思わず「これぞう君」呼びをしたことを覚えている。ちょっと恥ずかしくなったのか、みさきは立ち上がるとペンションに向かって歩き始めた。
「ははっ、やっぱり先生は可愛いや。だから良いんだよなぁ」
これぞうは青空を見上げながら呟いた。
そろそろ本格的にギラつき始めた太陽が砂浜を熱する。これぞうのおしりはジリジリと熱くなる。