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第百八十六話 そして帰還

 温もりを感じる。それは柔らかなもの。

 声が聞こえる。その声は聞けば心地よくなる愛しきもの。

 そして、いい香りがする。

 まったく気持ち良い。全てがそうだ。


 冷たいものが迫り、それに飲み込まれると想った。しかし、気づけば辺りは明るく暖かい。景色が一気に様変わりしたものだ。


 ……くん。わらくん。がわらくん。


 まだ聞こえる。なにか言ってる。その愛しき声は、最初は遠く小さく聞こえる。でも、段々とはっきりしてくる。


 ……ごしょがわらくん。


 自分の名前だ。


 ……五所瓦君!

 

 間違いない。今度こそはっきりと聞こえた。


 五所瓦君! これぞう君!


 その時、眼の前の黒が明るい青に変わった。


「はっ!」

 一時は、再び開くことがないと想われた我らが主人公の目がぱっちりと開いた。

 

 何だ。どこだ。どうなっている。彼には事態がよく分からない。

 ただ、体は暖かく柔らかいものを感じ、良い香りが鼻をご機嫌にさせる。

 眼の前にみさきの顔があった。彼女の長く綺麗なまつげの本数を一本ずつ数えることが出来る程の近さだ。


「五所瓦君!」

 これぞうの目が開いていることに気づいたみさきはこれぞうの顔から離れる。

「はい。五所瓦君これぞうです」

「良かった!」みさきは涙ながらにこれぞうの生還を喜んだ。

 周りを見れば、あかり、桂子、松野、久松、ひよりもこれぞうを囲んでいた。


「これは……どういう……」

「バチン!」あかりはこれぞうにビンタを食らわせた。

「いだっ!」

 姉のビンタは、墓石に穴を穿つ程強力なものだとこれぞうは感じた。つまり、超痛かった。

「あんた、溺れて死にかけたのよ!それとも一回死んできたのかしら!……でも生きてて良かった。私が目を離したのも悪かったわ」

 あかりは、右頬を腫らした弟を抱きしめた。

「僕が、溺れた……」自分のすぐ側には、穴が開いてしわしわになった浮き輪があった。

 これぞうが浮き輪に乗っていると、波に乗った浮き輪は岩場に打つかった。岩の尖っている部分と接触した浮き輪には穴が開き、内部に蓄えたこれぞうの息は直ちに自然に帰って行った。そして浮力を失った彼は沈んでいったのである。


「良かったわこれぞう。死んだかと想ったわ」桂子もこれぞうに抱きついた。

 友人達も皆ホッとした顔をしていた。

「異変に気づいたみさき先生がすぐに潜ってあんたを引き揚げたの。その浮き輪のカスはななちゃんが回収してくれたわ」あかりが説明した。

「みさき先生、皆も、これは……ご心配をおかけしました」

「水野先生の救出が速かったし、心肺蘇生も施したからこれぞうは戻ってこれたんだよ」安堵の表情でひよりが言った。

「先生、ありがとうございます」これぞうはみさきを見て礼を言う。

 その時、緊張状態から解き放たれたためか、みさきの目から一筋の涙が流れた。それも左目からのみ。右目からもそろそろ流れそうだったが、その前にみさきは目を擦った。


「先生……」

 これぞうは、乙女の目から溢れる天然水のきらめきを確かに視界に捉えた。

 泣いている。愛する女が確かに泣いている。自分の眼の前で、自分のせいで。

 彼の祖父が、かつて彼に言った言葉がある。「愛する女を泣かせるような奴はクソだ」

 自分は愛する女を泣かせてしまった。祖父の定義に則ると、クソなことをした。


「良かった。はぁ、良かった」

 みさきは完全に緊張を解いた。人が、しかも生徒が死ぬかもしれなかったのだ。怖くなかったはずがない。

「すみません。泳げなくて……」

 これぞうは、泳げないことではなく、愛する女を泣かせたことを心から恥じた。だから、この旅が終わるまでに、彼はとりあえず15メートルは泳げるようになるのである。


 落ち着いたところでこれぞうは考える。

 先程のみさきの体勢、顔の距離感、心肺蘇生の途中だったと聞く、となるともしや……

「さっきのは、人工呼吸秒読み前でなかったのでは?」

「そうよこれぞう。みさきは体育教師だもの。そのくらいお茶の子さいさいでやってのけるわ。心臓マッサージが終わってもまだあなたが目を覚まさないから、これから人工呼吸って段階に入ってたの」少しにやついて桂子が説明した。

「な、何だって!先生が!僕に!人工呼吸!」

 不謹慎だと分かっているが、それでもこれぞうは、もう少し気絶しとけば良かったと想った。

 これぞうは再び砂浜で仰向けになった。

「では、先生、続きをどうぞ」

 これを受けて、みさきはこれぞうを睨んだ。

「冗談はその辺にしなさい」

「ごめんなさい……」

 周りの者たちは、再びお目にかかれたこの茶番に微笑みを送った。

 

 これぞうは、はっきりと覚えいていた。自分が目覚める前、最後にみさきが自分の名前を呼んだ時、これぞう君と言ったこと。初めてファーストネームで呼ばれた。それは嬉しいことだった。

 今、みさきは笑っている。みさきを見て、再び彼の胸はドキドキと早鐘を打った。


 生きている。間違いなく自分は生きている。

 これぞうには、生の証たる鼓動が聞こえていた。

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