第百八十五話 吸い込まれるこれぞう
長き地球の歴史の中、そこで暮らす生物達もまた長き時をかけて進化の過程を踏んで行った。その中の一つが、海を脱して地上で生活することであった。生命の母なる起源は海にある。生命は進化を遂げる中で、生活の拠点を地上にも広げて行ったという。
これぞうは想う。だったらまた海に帰ってくる意味は何なのか。死を迎えて一度肉体を離れた魂が、再び肉体に戻るなんてことがありえるのだろうか。いや、戻ろうにも死んだら肉体の方はさっさと処分されるだろう。自分は、つまり人類は、遠くには海で暮らした祖先を持っているのかもしれない。でも、今生きている自分達は、もう海と仲良くすることもなかろう。
こんなことは泳げない者の逃げ口上に聞こえるだろう。しかしこれぞうは、そういった事情を抜きにしてもこのようなことを考える理屈っぽい少年であった。
上記のことを思い浮かべながらこれぞうは浮き輪に乗っかり海を漂っていた。大きな浮き輪の真ん中には彼の尻がはまっている。両足、両手はバランス良く浮き輪に乗っかっている。
「今、下から鮫にでも見つかったら、最初に尻をガブリだな。はっは~」太陽に目を向けて彼はそんな間抜けな独り言を漏らしていた。
海上は穏やかだ。今の海は、正月にマグロ漁船から見たものとはまったく違った表情をしている。あの時の荒れた海は、輪郭の全体が捉えられない程どこまでも裂けて広がる口に思えた。そこに落ちた者は何であれ飲み込む。そんな闇のフードファイターの口だ。これぞうはあの時程海を、いや水を怖いと想ったことはなかった。
浮き輪の上から眺める太陽はサービス満点で紫外線を撒き散らしていた。海水が温く感じ、これぞうは少し眠くなってきた。せっかくみさき先生と海に来ているのに勿体ない気もするが、正直旅の疲れが出てきた。このまま寝てしまおうと想った。
そうしてゆっくり訪れる眠りを急に邪魔するものがあった。
先程までくっきり見えていた太陽が、どういうわけがぼやけて見える。テンポよく繰り出すさざ波のメロディーが聞こえない。そして体が重い。尻を引っ張られているようだ。
なんだこれは、どういう訳だ。これぞうは自問する。
「ごぼっ!」
いつも通りの発声が出来ない。ここで気づく、自分の全身は海の中にある。
上がらないと、上がらないと、ここにいれば確実に自分は死ぬ。死を念頭に置きながら、彼は冷静さを保っていた。
やることはわかっている。泳いで上に、空気が吸える場所に戻る。だが体は言うことを聞かない。泳げない。だから体が沈むのを止められない。
だから言ったじゃないか。僕らの先祖は海を脱した。里帰りにはまだ早い。実を言うと、脱したではなく、追い出しを食らったんじゃないか。そう考えると、こんな状況だがこれぞうはくすりと笑ってしまった。
そうか、これが海、これが水中、これが溺れるということか。
少し前、溺死に次ぐ第二位の苦しさは恋愛に懊悩することだとこれぞうは悟った。第二位を十分に味わった末、間もなく第一位までを経験しようとしている。
先生、みさき先生……
静かに失われる意識の中、これぞうは愛しきその名を唱え、その姿を脳内に描いていた。
死とは生に寄り添って共存するもの。遠いようで、実は近くにあるもの。
あり余る生を身に宿した少年は、遂に死の輪郭を見た。