第百八十二話 旅を楽しむにもマナーという物がある
パラソルの下にはビニールシートが敷かれている。
「ささ、先生。ここへ横に」
言いながらこれぞうはシートを指差す。
「夏の太陽は女性の軟肌には乱暴だ。しっかり日焼け止めオイルでコーティングしなきゃ」
これぞうはオイルの入ったプラスチックボトルを持っている。
「いや、それは五所瓦君が塗るの?」みさきは困った顔で問う。
「ええ、そりゃもう隅々まで抜かり無く」
それがセクハラと気づかないこれぞうの頭をひよりが叩いた。
「君、何をするんだい。今ので優秀なおつむに詰まった細胞のいくつかが死んじゃったじゃないか」
「だったらそれは優秀ではない。それよりこれぞう、私の背中に塗ることなら許してあげてもいいわよ」
「ええ、いや、いいよ」
こんな感じでこれぞうとひよりの二人ははしゃいでいる。
「はぁ~もういいわ。松野さん、背中をお願いしていい?」
「はい」
みさきは松野にオイル塗りを任せた。
「お~い五所瓦、お前はこっち。俺の背中を頼むよ」久松がこれぞうを呼ぶ。
「ええ~。誰が男の背中を触りたいっていうんだい?」これぞうは久松の背中に言う。
「ああ、それなら多くの男が同意見だろうな。俺もそう思うよ。ただ、男のお前が女子の背中を触るのはNGだ。だから俺で我慢しろ」
「まぁ仕方ない。友人の背中を守るのも男の役目だな」
男二人は仲良くオイルの塗り合いっこをした。
ここに集うのは命の盛りを迎えた若き男女。広い海を前にして、あり余る元気の宿る体が疼かないわけがない。皆は砂浜に出てビーチバレーを楽しんでいる。砂浜には心地よく耳を打つ乙女の声と+1(これは久松の声)が響き渡る。これぞうは、パラソルの下に置いた椅子に腰掛けてキャッキャと騒ぐ乙女達の声を聴いていた。
「いや~平和そのものですなぁ。この心地よいBGMを聴きながら、僕も平和に趣味を行おう」そう言うとこれぞうはバッグから文庫本を取り出す。なんと海に来てまで読書タイムを始めるのだった。
彼は別に泳ぎたいとか遊びたいわけではない。趣味は趣味でどこにいたってやりたい。彼が重視するのは、みさきがいる上で楽しい旅行をしたという雰囲気的なものを味わうこと。旅行自体の重要さはさほどなかったのである。早い話が、みさきがいればあとは何でも良かった。
本を読む間にもちチラリとみさきを眺め、みさきの声を聴く。みさきはもちろん、愛すべき友人達も笑顔になり、歓声を上げている。これが自分の平和な青春だ。そう思うだけで彼はとても気分が良くなった。
「はぁ~良きかな青春。良きかなこの夏」
「何が良きかなよ!」と言うと姉は弟の座る椅子を押し倒した。
「ぶへ!何をするんだい姉さん。姉さんが姉さんでなきゃ、少々荒い手段に訴えてお返しをしたいと思えるレベルの所業じゃないか」弟は長ったらしく物を言うが、要はやることが酷いと言いたい。
「あんたね、こんな所まで来て本を読む?」
「この本ってのは読み手や場所を選ばない。そうして楽しんで欲しいっていうのが筆者の願いだと思うよ」
この場では的外れな返答だが、これぞうは良い事を言った。
「ああもう、うるさい!いいからあんたもエンジョイしなさい」
姉は弟の手を取ると、燦々と照る太陽の下に駆け出した。
海にいる間、これぞうの本はあかりが没収することとなった。