第百七十三話 その差は秤無くとも分かる者には分かる
ひよりは床に転がった竹刀を眺めていた。息は乱れ、肩で呼吸をしていた。だが、若い彼女は回復が早い。次第に呼吸は通常のリズムを取り戻す。
体育館には、先程の激戦を目にした外野共の歓声が沸き起こっている。
「すげぇ~!」
「格好良い!」
「水野先生すごい!」
「六平さんもすごい気合だったわ!」
周りからそんな声が飛ぶ。
みさきがひよりに歩み寄る。
ひよりは足を揃えて礼をする。
「ありがとうございました」
礼を済ますとひよりは面を外し、次には「すみません」と言った。
「禁じ手の突きを出しました。すみません」
「ああ、禁じたのは生徒間でのことだから」
みさきのこの一言を受けてひよりに衝撃が走った。
危険行為とされる技を、自分に向けて出すなら問題ない。この人はそう言いたいのか、いや、言っている。
みさきの何気ない一言は、それだけ二人に力の差があったという答え合わせを済ますものであった。ひよりはそう受け止めた。
「しかしあなた、相当訓練を受けているわね。攻防のスピード、それを行う判断力、そしてスタミナ、どれをとっても素晴らしいわ」
みさきはそう褒める。今上げた点のどれもが自分より勝っている相手に言われても、ひよりには悔しいだけだった。
「ひよりちゃん、すごかったよ。水野先生相手に互角にやり合うなんて!」友人の松野がひよりに声をかけた。
「本当だよ。本ばっかり読んでる奴と思ったがすごい動きをするんだな」久松も声をかけた。
あれが互角?この人達にはそう見えるの?互角なものか。私は技を決められる前に気持ちで負けていた。禁じ手を出しても届かなかった。この人はずっと格上、現にまだ力を出し切っていない。
ひよりには分かった。みさきだってあからさまな手加減はしていない。でも、絶対に余力を残している。
「みさき先生!素晴らしかったです!もちろんあそこまで食らいついた六平さんもあっぱれ!」
これぞうは素晴らしき一戦に感動していた。
その他の生徒達は二人の剣士に触発されてか、勝手に面を被り、竹刀の素振りをするなどしてはしゃいでいる。
「はい先生、汗をお拭きください」これぞうは白いタオルを差し出す。柔軟剤の良い香りがする。
「……」みさきは無言でそれを見る。
「はは、先生、まさか石灰でもついていて目をやられはしないか、なんて疑ってるんじゃないでしょうね。はっは、まさか僕がそんな古の嫌がらせを仕掛けるはずがないでしょう」
「え、何それ。嫌がらせの常套手段がそれなの?」みさきは何のネタを喋っているのだろうと想いながら答えた。
ひよりは一歩踏み出すとこれぞうの手からタオルを奪い取った。
「ありがとうこれぞう。使わせてもらうわ」と言うとひよりはタオルで自分の汗を拭く。
「あああ……」これぞうは口を開けたままだ。
「何?問題でも?」
「いやいや、君の汗だっていつまでもそのままにしておいてはいけない。どうぞ拭きたまえよ。もう6月だが、汗は速く拭かないと冷えちゃうとか聞くからね」
汗を拭きながらひよりはみさきの横を通り抜ける。
「そうやって、これぞうにもまっすぐ打ち込んであげてください」
みさきにだけ聞こえるよう、ひよりはボソリと言った。
みさきはひよりを振り返って見る。
「はいはい、皆、はしゃがない。まずは二人組みになって基本練習よ!」
生徒達が騒がしいのをみさきが制した。
「ところで、五所瓦君は何でまだ準備していないの?」
皆にはとりあえず剣道着の着方を教えていた。しかしこれぞうは面どころか銅、小手、垂のどれも身に着けていない。ただの体操服姿でいた。
「すみません。説明をしているところをしっかり見ていたのですが、本当に先生に見惚れるばかりで、何も聞いていませんでした。だからあらゆる防具の装着方法がまるで分かりません。というか、これら、紐で結ぶの多くありません?大変ですよ」
そう、剣道はそもそも試合をするまでが大変。剣道具それぞれを身につける段階で面倒臭い。これは忍耐を鍛える武道でもある。
「はぁ~もう、また教えるからちゃんと聞いてなさい」