第十六話 水野みさきの悩ましいフライデーナイト
今年から社会人デビューしたみさきは、それまで温々と育った親元を離れた一人暮らしデビューも果たしていた。みさきは、社会人生活と同様に勝手が分からないアパートでの一人暮らしに苦労していた。
まずは食事のことが危ぶまれた。何せみさきはこれまで母の作った料理のみを食べて来てたため、自分で作ることに慣れていない。一般女子として料理に興味を持つであろう年頃も通過してきたが、みさきを夢中にさせたのは古今東西のスポーツであった。彼女は体を動かしてきらめく汗を流すことを楽しむ内に、家事関係のことを学び忘れていた。学校の仕事に慣れていくのも大事だが、自分の日常生活のことを安定させるのもまた大事だった。彼女は日々の献立を考えるのに困る毎日を送っていた。
みさきは親元を離れて初めて家庭生活を送ることの大変さを知った。学生の時のように学校に行って帰ってだけで日々は終わらない。母も父もいないとなると、家でのことは全部自分でやらなければならない。といっても、彼女の父親は台所にしまったカステラをこそこそとつまみ食いしてはそこら辺にカスを散らして掃除の手間を増やすくらいで家のことは別に何もしていない。
とある金曜日の晩、後は寝るだけまでスケジュールを進めたみさきは、自宅で一人こんなことを考えていた。
(はぁ~教師生活が始まってだいたい一ヶ月経った。仕事の方はちょっとずつ慣れたけど、色々忙しいのは変わらない。洗濯してご飯作って、これが結構きつい。今までは色んなスポーツをして手にしたのはバットやラケットや竹刀などなどで、鍋やフライパンは持たなかったもんな。料理のレパートリーがない。調味料をお母さんからもらったけど、考えてみれば調味料というのがそれぞれどのような味なのか、はっきり思い出せない。だから料理の味付けのイメージがわかないのよね……そこへ来て、最近はお昼になると五所瓦君が美味しい物を差し入れてくれる……何だかんだ言ってあれには助かっている。教師の私が生徒のお弁当をあてにしてるってのは如何なものかと想うけれども……。それに大変と言えばその五所瓦君ね、あの子が私のこと好き好きって……)
みさきはここで一旦考えを止め、そして頬を赤く染める。
(考えてみると、男の子にあそこまで熱烈なアプローチをかけられたのは初めて。そりゃ私だって告白の二回や三回はされたことがあるけど、あそこまで真っ直ぐ迫られたことはない。松野さん、あの子が本気で私を好きだって言ってたけど…‥あれはどこまで信じてよいものか)
みさきは電気をつけたままだが布団に寝転んだ。
(う~ん、あの子、確かに良い子って言えばそうなんだろうし、料理の腕も抜群だわ。近くで見ると顔は整ってるし、背も結構高いし……って何を考えているの私は)
みさきはこの間の松野との会話以降、前とは違った形でこれぞうを意識するようになっていた。
(あの子、入学式でこともあろうに私の胸に頬を埋めてきたわけだけど、女性の胸に頬を埋めたのは初めてだって言ってた。私だって男の人を胸に埋めたのは初めてで……)
みさきはこの時自分の胸に目をやった。
(あのくらいの歳の男の子はやっぱり胸に興味がいくものなのかしら……ああ、あの子のことはやはり分からない。仕事と一人暮らしともう一つの課題があの子ね)
忙しい一週間も末が迫れば、人々の心にもちょっぴりの余裕が生まれる。そこで人々は普段では考えないであろうことをゆっくり考えることがあったりする。普段注目がいかないそういった点を見つめ直すことで、生活を改めることが可能になるということもある。みさきが今まさにその状態であった。それまで穏やかだった彼女の人生の中に、これぞうという異物が発見されたことで、彼女はこれぞうのことを良くも悪くも意識の外に追いやることが出来なくなっていた。みさきがそれに気づいた今こそ、これぞうがみさきの人生に座を占めた瞬間であった。恋でも友情でも、人と人との関係を一歩進めるにはお互いがこの手順を踏まなければならない。これぞうはもとよりみさきを意識の中心に据えて学校生活を送っている。そこにみさきも同じようにしてこれぞうを意識し始めた。これぞうは我知らず、ほんのジャブくらいではあるが恋の一手を打つことに成功していたのだ。
恋は車やバイクと違ってブレーキの効き具合に正確性がない。ここからこれぞうの恋は、快速列車のごとくスピードを出したっきりのブレーキ知らずで進むのか、それともエンジンの調子が悪く停滞をくらいながら進むのか、それは神のみぞ知ることである。