第百六十七話 先
それから数日後、これぞう達高校3年生の各クラスでは、進路に関する個人面談が行われた。放課後になると、毎日数名が教師と一対一の面談を行う。そしてこれぞうの番が回ってきた。
「みさき先生、二人切りですね。もしやドキドキと打つ僕の心音が先生にまで聞こえはしないだろうか」
「聞こえません」
放課後、夕陽の差し込む教室でこれぞうの面談がスタートする。この日は彼が最後の面談者であった。
「で、五所瓦君は、進路希望表を提出していないと……」
「ええ、それならここにありますが……」そう言ってこれぞうは以前配られた進路希望表を出した。
「白紙ね……」
「ええ、そこに僕の筆跡は何もありません」
希望欄にはもちろん、名前だって書かれていなかった。
「どうするの?次の春はすぐにもやって来るわよ」
現在はまだ夏よりの春。暦の上ではまだ遠い春だが、人の体感としては実際よりもずっと速く感じるもの。だから早めに計画して行動せよとみさきは言いたいのである。
「先生!次の春には僕はもう18だ!」
分かり切ったことをこの男はデカい声で言う。
「ええ、知ってるけど……」
「それでだ、先生。春には、もう僕と一緒になってくれてもいいのではないだろうか?法律が許す歳になり、あとは僕らの合意のみだ」
「何がよ?」
これぞうは結婚のことを言ってる。みさきはそれが分からない程愚かな女ではないが、今は取り合う気もない。
「今は、学生としての過程をしっかり終えること!それにはまずこの紙を埋めることよ!」
「ふふ、未来を焦らずってわけだ。こちらが歩かずとも待っていれば向こうからやって来るしね」
「いいえ、こちらとしてもしっかり準備して歩み寄らないと。来る未来に任せきりじゃダメよ。現在のあなたが努力しなきゃ」
「身に染みるお言葉、痛み入りますなぁ」
「真面目に考えてね」
これぞうは白紙の進路希望表を手に取って考えを巡らす。
「ふむふむ、先生。僕は、何かやらせば事業として成功するだけの独自性を持っているとお祖父さんに太鼓判を押された男です。しかしですよ、家庭を戦いの場にして家族を支えることも出来る男であります。進路としては、僕が社会で活躍するのも良いですが、家庭に根を張り、先生の毎日の生活を完璧にバックアップすることも可能です」
「……何が言いたいの?」
「つまりです。事を終えた後に先生が教職をお辞めになりたくないと言うなら、僕が今流行りの専業主夫となって先生が仕事以外に屈託することを取り除いて差し上げることも可能だということです。また、そうして尽くすことには個人的に喜びも感じます」
頭が痛い。みさきはそう思った。
「事業戦士も悪くないが、家庭を顧みない者であればそれは二流。家庭をダメにする危険性を未然に防ぐため、いっそのこと僕をすっかり家庭に据えておくというのも良き手だと想うのです」
「五所瓦君、自分のことを第一に考えて進路を選んで下さい」
「これは難航するなぁ。自分一人の未来を見るのも難しいのに、この国の未来がどうして見えようか……」
これぞうは感慨に耽ける。そして我が国の行く末を思った。
「先生、こいつは後日にお預けとさせて下さい。何せ未来予想図を描くには手順が様々と来ている。この場でサクッと決めて言えというのが無理なもの」
「だから、先月に渡して考える時間を与えているんだけど……」
事実、他の生徒は先月の内に考えをまとめてこれを提出している。これぞうがすっかり忘れていただけのことだ。
「では、今日はこれにて、ですね」とこれぞうは勝手に仕切りだした。
「先生、今日も一日おつかれ様でした。大量にカロリーを持っていかれたことだろうと想います。なのでこれはおすそ分け」と言ってこれぞうは自作のクッキーを差し出した。ちゃんとラッピングしている。そして、みさきにカロリー消費させた原因はこの男にもある。
「ココアクッキーです。姉さんがココアを飲みたいと言ってココアの大袋を買ったのですが、最近では飽きてすっかり飲まなくなったんですよ。乙女のブームは入れ替わりが激しいですからね。余ったココアが勿体ないのでそれを使いました。あ、もちろん期限内のものなので安心ですよ」
「ええ、ありがとう」と言ってみさきはそれを受け取る。
「こうして先生にクッキーを食べてもらえること。どの進路をとっても、これが可能なら良いのですがね」
「え?」
「みさき先生と道を違えぬ進路が良い。それだけは心に決めているということです」と告白してこれぞうは少し頬を赤らめる。
「じゃあ先生、さようなら。こいつは後日提出しますから」と言うとこれぞは教室を去った。恥ずかしさに耐えれなかったからだ。
「ああいうところは可愛いんだけどね……」
夕陽射す教室の中でみさきは片付けを行い、職員室へ戻って行った。