第百六十話 事前予定はしっかり頭に入れるべし
高校3年生最初の休日、これぞうはこれぞう的休日を楽しむスポット第一位、つまりは図書館に来ていた。
「な、何だって!」
これぞうは図書館入り口に立ち、頭を抱えてそう叫んだ。
図書館入り口の重い扉の硝子部分にこれぞうの姿が写る。この扉は彼が初めてここを訪れた2歳の頃から今になってもまだ重いと思えるものであった。利用者にはお年寄りが多いので、いい加減自動扉に変えてしまえば良いのにと彼は常々想っていた。今日はそんな扉への文句も浮かばなかった。なぜって、その扉を開けることをしなかったからだ。
「なになに、館内整理のため閉館しますだと……」
入り口扉には閉館の張り紙が貼ってある。それは一月も前からアナウンスなされていた。しかしこれぞう、現代っ子にしてはやや情弱。図書館のホームページでこの手のお知らせや開館日カレンダーを見ることが出来たが、これぞうはネットにアクセスすることがそう多くは無かった。
「しかも、20日も!そんなに長いこと休んで一体何をすると言うのだ!」
だからそれは館内整理と嘘偽りなく書かれているが、今の彼は疑り深くなっている。
「アウチ!二十日もの間図書に触れることが出来ない!この期間、暇過ぎるだろうが!くぅぅぅ……」
ここに収められた図書と彼との関係はいつまでも蜜月、それを引き裂くとなれば呻き声の一つも漏れるというもの。
「あっはっっはは!」
落ち込むこれぞうの後ろから笑い声が聞こえる。その声の主は図書館入り口扉の硝子に写っていたので、これぞうは振り向くことなく笑い声の主が誰だか分かった。
「あ、六平さんじゃないか!こんなところで何笑ってるんだい?」
「さっきからこれぞうが面白くって、はははっ」
彼女はこの話数が始まってから今現在まで、これぞうの行動の一部始終を見ていた。
「館内にも張り紙してたよ。これぞうが気づかないのがダメなんだよ」
「そうだったのか。5日前に来たが、気づかなかったなぁ。あーあ、じゃあ今日は返すだけだな」
これぞうもひよりも本の返却だけは済ませた。図書館の入り口横には閉館時用の返却ボックスが置いていた。二人はそこに本を入れた。
「はぁ~。こいつは残念だ。ここを離れた一年の間は抜きにして、それ以外なら半月以上ここを訪れないようなことは無かったと想うなぁ。何でまた今回のお休みは長いのだろう」
「ああそのことだけど、ネット設備をしっかりするみたいなこと言ってたよ。ここに置いてる本のデータベースとかも管理しないといけないし、ネット予約を開始するとも言ってた。それには結構時間がかかるってね」
「ほう、ネットで予約。そんなことをしている所があるとは耳にしたことがあるが、利用したことはなかったなぁ。まぁ僕は訪れて館内をぶらぶらしながら良さそうな本を探すのが好きだからあまり必要なサービスでもないかも」
「これぞうってアナログなのね。携帯もまだガラケー使ってるし、本だって電子書籍はダメってタイプでしょ?」
「そりゃあもう。媒体が何であろうが作品の良さは決して変わらない。でもね、僕は紙の匂いとか、それをめくること自体が好きなのさ、断然紙で読むタイプだね僕は」
「これぞう、何だか変態ちっくだね」
「何がさ!僕はノーマルだ」
いいえ、彼はノーマルの範囲を越えた人間である。
立ち話も何だし、これぞうとしては本が読めなくて暇だったこともあり、二人は図書館の外のベンチに腰掛けて談笑を続けることにした。
「これぞうは2歳からここに来てるの?」
「うん、物心ついたかどうだか怪しい時期からの訪問だったんだな。ここにはお祖父さんに連れ来てもらって、それ以来ここの虜さ。僕の第二の家だね」
「これぞうって本当に本が好きなんだね。すごい数を読んで、すごく色んなことを知ってる、すごいね」
「はっは、すごいことはないさ。皆が虫を採ったり、男女交際をしたり、勉学に勤しんだり、クラブ活動に打ち込む間、僕はここで趣味をやっていた。だったら人よりも読んで知っていて当然さ。ここは知識の泉、浸かるのは僕だけじゃない、誰だって浸かれば博識になれるさ」
「何だかものの例え方もポエミーなんだね」
「はっは~、ポエミーとはこりゃご機嫌だね。君は柔道ガールなのにどうしてまた本が好きになったんだい?」
「うちは引っ越しが多い家庭でね。親も忙しくて、私は一人っ子。学校が終わったら一人の時間は本を読んで過ごしてた。特にきっかけなく学校や地域の図書館に出入りするようになったよ。きっかけはそんな感じで特にこれってのがないのだけど、この趣味が好きになっていったって実感は確かにあったわ」
これぞうはひよりの横顔を見てしっかり話を聞いていた。
「私は両親の下に生まれてごく平凡な人生を送っている。でもね、色んな本を読めば、多くの登場人物が奇想天外な人生を送っているの。ここで思うわけ。本を通して、私が体験し得なかった別の人生が知れるって。感情移入すれば、疑似体験したようにもなる。どこかの作家は、小説家が本を書くのは人生が一回きりってことに対する抵抗だみたいなことを言ったの。そうしていくつもの物語、つまりは人生を書いて、何度も別の世界で生きようってことを作家は考えるのかもね。読んだ私達が同じような気持ちになるんだから。うう~ん、うまく言えないけど、私の本の楽しみ方がこれなの」
ひよりが話し終えると、これぞうは深呼吸して口を開いた。「いや、分かる。すごい分かるよ。六平さん、それはすごい素敵なことだよ!僕だって本に感情移入してまるで別世界を見たかのように心ときめくことがある。そしてそれは実際の僕の人生ではまず体験し得ないこと。だからこそ本には夢がある。君の言うことは丸っとしっかり分かる。図書の最も崇高な楽しみ方がそれだよ。僕は感動した。君は同志だ」
これぞうは熱っぽい目でひよりを見つめた。少し距離が近い気がする。
「これぞうって情熱的なんだ。好きなことを語る時のこれぞうの目はキラキラしてるね」
「好きなこと……」
この時これぞうは思い出した。
人から言われたこともある。自分は好きな女、つまりみさきを見る時にも目をキラキラさせると。これぞうの頭の中はみさきのことで一杯になった。
「これぞうって他には好きなことないの?」
「他?ああ、食べることかな?」
「そうじゃなくてさぁ。……好きな人、とか?」
「へ?」
好きな人。広義の意味で好きと言えば、家族や友人達の顔が思い浮かぶ。しかし範囲を絞っての性的対象としての好きなら、それはもうみさき一択しかなかった。
「ああ、いるね……」
これぞうは顔を大空に向けた。今日もこの街の青い空は美しい。太陽に目をやれば、一瞬それはみさきの顔にも見えた。彼にとってはみさきはまるで太陽。人生を明るく照らしてくれる存在であった。
そんな風にうっとりと空を見上げるこれぞうの横顔を、ひよりは不思議な想いで見つめていた。
「そうかぁ、これぞうには好きな人がいるのか……」