第百五十七話 五の人と六の君
そして春が来た。これぞうの高校三年目の春。一年目の春は偶然にも春の化身とも呼べるような天使に出会った。二年目の春は異郷の地で一人寂しく迎えた。そして迎えた三年目、彼の目の前は明るい。
「はぁ~、可愛い……」
これぞうはうっとりした表情で、教室の机に肘をついている。
教壇に立って喋っているのは、彼に春を運んだ乙女、つまりは水野みさきであった。
「内外共に古びた校舎、ボロイ教室机、それとバッテリーを組む足がガタガタ言うボロ椅子。立地場所にしても場末の地にある学校で、こんな美しき景色が見れると誰が思うだろう……」
これぞうは存分に学校をディスリ、そしてみさきを褒め称えた。
みさきは重要な連絡事項を行っている。しかしこれぞうと来たら、うっとりとマイワールドに浸りきっているので、しばしの間は外部の音声がシャットアウトされていた。よって聞こえていない。
「おいおい、五所瓦、戻ってこい」
一年の頃と同様、三年になってもまた同じクラスになった友人の久松がものさしでこれぞうをつつく。これぞうを精神の世界から引き戻すには、外部から刺激を与えないといけない。
「こら、ちゃんと聞いているの!」みさきの美しい声が教室に響く。それはこれぞうに向けて飛んだもの。
「はっ!」
この一声でこれぞうは教室に帰ってきた。
この愛しい声は一体どこから?これぞうは探す。そして顔を前に向けてすぐに分かった。声の主はみさき先生だ。
「すみません、聞いていませんでした。でも、しっかり見ていました!」
これまでこれぞうの聴覚はお休みモードに入っていたが、視覚の方はギンギンに働いていた。
「何言ってるの?」みさきはドキリとした。皆のいる前で自分におかしなことを言われると困る。そしてこの男、私生活の6割くらいはおかしなことを言ってる。
これぞうがおかしなことを言うので教室に笑いが起きた。
「ちゃんと聞きなさい。もう三年生でしょう」
「はい、先生!」これぞうは先生の綺麗な声ならいつまでも聞いていたいと想った。
そうしてこの春一回目のホームルームが終わった。
「いや~良い。朝から良いもの見たな~。今年は幸先が良いぞ!」
「お前は相変わらずだな五所瓦」
これぞうと久松。一年ぶりの再会である。
「やあやあ、君もラッキーだな。みさき先生のクラスに配属とは」
「ああ、確かに水野先生は美人だな。お前がいない一年の間にまた綺麗になったろう?」
「おや?君もお気づきかい。目が肥えているなぁ」
「そりゃ学園のマドンナだし、皆注目してるよ。ほんと、よくこんな学校にあんな先生が来たものだなって思うよ」
「はっは~、久松くんもそれ思うんだ。まったくお天道さまに感謝だよ」
久松も一年ぶりに帰還した変人に会えて嬉しそうだ。
「まぁ、またよろしく頼むぜ」
「ああ、こちらこそ」これぞうはそう言うと握手を求める。
「おいおい、そういうの止せよ。ハズいだろう」
「ああそうか、こっちではハンドシェイクってのは習慣付いてないかな?」
「どこの話してんだよ?お前がつい最近までいたのは、たった二つ向こうの街だろうが」
「はっは、五所瓦家の文化ではよくやるんだよコレを」
五所瓦家まるごとが、大衆文化とちょっとずれている所があった。
「おはよう二人共」松野が声をかけてきた。
「おお!松野さんも一緒のクラスだ!一年の頃と一緒、あの頃トリオ再結成だね」
「なんだよそれ。いつだよってなるだろう」と久松はツッコミを入れた。
「いつになろうが関係なく、僕らはあの頃の三人さ」
「ふふっ、五所瓦君嬉しそうね。水野先生のクラスだからね」
前話で姉から重要な説明を受けたこれぞうは気を引き締めたわけだが、こうして新学期が明けて愛しのみさき先生を目の前にすれば、目先の幸福に酔いしれるばかりなのであった。現在表情は緩みきっている。
同じクラスの者達は一年生の頃からこれぞうを知っていて、まだ記憶している。一年経っても記憶から消えない変人だったからだ。その変人がいたずらな運命のために街を離れ、同じくいたずらな運命の手によって舞い戻ってきた。これには大変話題性があった。帰って来たこれぞう珍しさに彼をを訪ねる者もいた。
一年前には、これぞうは変人、もしかしたら危険人物と恐れられたこともあった。今は物珍しさが勝ち、生徒たちはひとまずそこのところを忘れてこれぞうに接していた。
そうして人に囲まれるこれぞうを、クラスの端の席で見ていた女生徒がいた。彼女はそれまで本を読んでいたが、切りの良いところまで読むと栞を挟んで本を閉じた。本の世界を離れてすぐに気づくのは、教室の真ん中の方が騒がしい。そこでこれぞうの存在に気づいた。
クラスの中で彼女だけが五所瓦これぞうのことを知らない。無理はない。彼女はこれぞうに会っていない。これぞうが街を去った春、これぞうと入れ替わりで彼女は転校してきたのだ。
誰だあれは?ああ、さっき先生に注意されていた変なヤツか……
彼女のこれぞうに対する興味は薄かった。
「ああ~五所瓦君帰ってきたんだ。あの有名な変人が帰って来たってのは本当だったんだね~」隣のクラスの女子二人組が教室の後ろの扉からこれぞうを覗いていた。
五所瓦?五所瓦だって?
彼女は先程閉じた本をまた開く。そして最後のページを見る。その本は図書館で借りた本。最後のページには貸出カードが入ったポケットがある。貸出カードを見ると自分の名前の上に「五所瓦これぞう」の名前がある。
「ちょっと、ちょっと!」
彼女は慌てて席を立ち、教室後ろの扉に駆ける。
「な、なに?」これぞうを覗きに来た女子二人組は驚いた。
「今、五所瓦って、それがあいつの名前?」
本の彼女は「あいつ」と言ってこれぞうを指差す。
「う、うん。あの人……」
「下の名前は?五所瓦何て言うの?」
「これぞう、五所瓦これぞう」
女子二人組はこれぞうと口を利いたこともない。これぞうは彼女らを知らない。しかし、彼女らの方ではある程度これぞうを知っていた。彼はちょっとした有名人だから。
「何ですって!何てこと!五所瓦これぞう!あの五の人がここの生徒!」
本を手にしたまま彼女は驚いている。彼女はこれぞうを「五の人」と呼んだ。質問された女子二人は不思議に想っていた。
「ありがとう」そう言うと彼女はこれぞうの元へ駆け寄った。
これぞうの席の周りには数名の生徒がいたが、彼女はその間に割って入り、これぞうに貸出カードを突きつけた。
「コレ、あなたね。あなたの名前ね!」
「は?ああ、いかにも、これは確かに僕が両親から頂いたありがたき名前だ」
「あああ……見つけた、五の人……」
彼女は嬉しそうにこれぞうを見る。
「へぇ?君は……えっと誰だったかな?ごめんね。誰に課された訳でもないが、人より記憶することが多い道を生きてるもので、人の名前を忘れることがよくあるんだ」
「私、六平ひより」
それが彼女の名前だった。
「んん!待てよ、その名前どこかで、どこだ……」これぞうは記憶を巡らせた。忘れたものは仕方ないが、まだ残る記憶であれば彼は瞬時に検索をかけてはじき出すことが出来る。
「はぁ!図書館の!六の君!君があの六の君かい?」
全てを思い出した。先日見た図書館の本の貸出カード、いつも自分の名前の一つ下に「六」から始まる彼女の名前があった。そこでこれぞうの方では彼女のことを「六の君」と勝手に名付けていた。
「五の人!」
「六の君!」
互いが勝手につけたあだ名を互いに呼び合って二人は教室の真ん中で見つめ合った。
二人を取り囲む教室の皆はもちろん状況が分からない。ただ、そんな分からない状況下であっても、漏れなく皆が二人の出会いに運命的な何かを感じたのであった。