第百五十五話 その椅子に座るためなら僕は喜んでジョーカーを切ろう
これぞうとみさき、二人の間で起こった愛の一悶着は解決を見ぬままに終わった。そしてその次の日ことである。
これぞうは久しぶりに母校の大蛇高校を訪れた。現在はまだ春休み中。部活動中の生徒がちらほらと見られるだけで、敷地内の喧騒は従来よりもボリュームが抑えられていた。4月の始業式の日が来れば、この静寂は破られる。
転校の手続きの関係でこれぞうは学校に来ていた。春からまた世話になるので、母のしずえも同行して学校に挨拶しなければならない。
これぞうは今、母と共に校長室に来ていた。
「お久しぶりです校長先生。ご機嫌いかがですか?」
「はっは。悪くないね。君という人間が帰ってきた。それはつまり、私を退屈な老後から遠ざけてくれることが約束されるってことだろう。人生は平穏がなのが良い。でも退屈ってのはそれとは違う。あくまで校則を守った上で、またこの学校を賑やかにしてくれたまえ。子供は元気なのが一番だ」
よく出た腹が特徴のためにこれぞうが心の中で「狸」とあだ名している校長はご機嫌に返した。
「先生、今回は警察沙汰がないようにこの子をしっかり指導しますので、どうかあと一年よろしくお願いします」と母が挨拶した。
これぞうは在学中に一度、警察と厄介事を構えたことがあった。そしてつい先日もパトカーに乗せられたのだが、その話は学校まで届いていない。
「はっは、こちらこそよろしくお願いします。それでだね、転校に関してはさっき言ったことで全部。あとは、何か聞きたいこととかあるかな?」
「待ってましたよ校長先生。ある!言いたいことがあります」
「よろしい。言いたまえ」
これぞうは一歩進み、校長のデカい机に両手をついた。
「いいですか校長先生。これから言うことは僕の切望、本懐と言っても良い。これが叶わないなら、僕は青春に後悔を残すことになります」
これぞうが大仰なことを言い出すので、校長はごくりと唾を飲んだ。
「な、なんだねそれは」
「それはです!来る4月、クラス替え発表がありますよね」
校長はうんうんと頷く。
「そこで僕を、我が校が誇る水野みさき教諭のクラスメイトとして発表して欲しいのです!」
「はぁ……」校長は口を大きく開けて答えた。
これぞうは校長のデカい机に額が着くまで頭を下げて続きを話した。「お願いします!一年目は田村先生、二年目はこともあろうによその学校に飛ぶこととなった。せめて三年目は、何かやらかさない限りは高校生活最後の一年間は、憧れの師の下で平穏に過ごしたい!」
なんてテンションでエゴとも取れる切望を口にするのだ。まるで堅気の女と一緒になるからと親分に頭を下げて杯を返すヤクザのようではないか。校長はそう想った。しかし彼、こういう熱のこもった告白には弱かった。
「気に入った。いいではないか。丁度水野先生は三年生を担任すると決まっている。お母さん、彼の要望のままにクラスを決めても?」
「ええ、親として息子の願いはなるたけ叶えてあげたいものです。たった今その子は願いを口にしました。それを校長先生が叶えて下さるというなら何の文句がありましょうか」
「お母さん……格好良い……」これぞうは頼もしい我が母を見つめていた。しずえは良き母であった。
「ちょっと水野先生を呼ぶから待っていてね」そう言うと校長はみさきを呼びに席を立った。
「という訳です。水野先生、彼をあと一年よろしく」
「え、田村先生のクラスでは?」
「ああ、田村先生は学年主任です。今年はクラスを持ちません。それにさっき廊下で会って田村先生にもこのことを相談したのですが、田村先生が担任でない以上、彼の面倒が見れるのは水野先生しかいないと、田村先生本人からお言葉をもらいました」
「はぁ……」
田村は知っていた。校内でこれぞうを扱うに長ける人間は、まずは自分がギリギリその範疇にいること。そして、後はみさきだけだと。
「あの田村先生が、五所瓦君を相手に教鞭を執ることが出来るのはあなただけだとお認めになったのです。胸を張りなさい」
これは誇って良いことかどうか、みさきは困惑した。
「ちょっと、五所瓦君。これはあなたがお願いしたの?」
「はい。先生、ダメですか?」
「うう~」みさきは何と言ったものか困った。こんなのがクラスにいたら、きっと自分は去年よりも苦労する。
「蟹……美味しかったですよね?」これぞうはポツリと呟いた。
「あなた!あれを賄賂にして教師に言うこと聞かせようっていうの?」
鍋パーティーは、このための打算によるものではなかった。しかしみさきに送った蟹とその他は、交渉を進める良い材料になる。使える物はなるたけ使ってしまおうというのがこれぞうの考えであった。
「いや!あれはそういう訳ではありません!僕が打算で動くいやらしいヤツとは思わないで下さいよ」
「もう、本当でしょうね!」
「はっは、仲良し姉弟みたいだ。じゃあこれで決まりですね」
これぞうは校長の手を取った。
「ありがとうございますたっ……校長先生」これぞうは危うく狸と言いそうになった。
こうしてこの春、これぞうは栄光の水野みさきクラスの一員としての椅子を勝ち取ることとなる。