第百五十三話 緊張しまくったその先の世界
用意の良いこれぞう達は卓上型のIHクッキングヒーターを持参し、それで鍋を作った。
「へぇ、これがIH。始めてなんだけど……本当に温まるの?」
みさきは実家でもアパートでもガスコンロを使用しているので、直火以外の調理が可能なのかと疑わしく想っていた。
「みさき、庶民の間ではまだ普及が進みきっていないようだけど、IHを信用してないとはいけないわ。実際これは素晴らしい発明よ」これは龍王院家の持物、そんなわけで所有者の桂子は威張って見せた。
「いや~しかしすごいよね。火が出ないのに何でも料理できちゃうんだから。電気の力ってすごいよね」今更ながらこれぞうは、目の前の偉大な発明に感動するのであった。
そうして電気の力で美味しく仕上がった鍋を、一同は楽しく舌鼓を打ちながらつつくのであった。
誰しもが想うことだろうが、蟹は美味しいけど食うのが面倒臭い。実がなかなか出てこないし、苦労した割には食べれる部分が少ない、そしてその工程には結構イライラする。みさきもまた蟹を口にする前に敷かれる面倒な工程を鬱陶しく想っていた。
「先生、先生!これをどうぞ!蟹の実をほじくるのに便利な蟹用スプーンです。ここに来る前に百貨店で買ったのです。コイツはプレゼントしますよ」
「え?ああ、ありがとう」とは言ったものの、こうして人からもらいでもしない限り蟹が食卓に並ぶことはない、つまりはこのスプーンの活躍する場はそうはないと想ったみさきであった。
これぞう、あかり、桂子、みさき。ここに集いし4人に共通するのは良く食うこと。食材はたっぷり持ち込まれたが、余る心配は無かった。用意した具材は順調に無くなっていく。鍋は完全に美味かった。その美味さのために4人は思わず笑顔になり、箸と共に他愛もない談笑も進むのであった。
「絞めはラーメンです。一人一玉ということで、4玉ありますからね。しっかり茹でようじゃないですか」これぞうは鍋にラーメンを投入した。
この時にあかりと桂子が、そっちの方が多い、こっちの方が少ないとラーメンの分前の公平生について喧しく議論したのだが、それも解決を見ない内に鍋は空になった。
「先生、どうでした?」これぞうは少し出た腹を抑えて尋ねた。
「美味しい~。これはすごい美味しかったわ」誰が見ても満足と分かる様子でみさきは言った。
「良かった。先生に喜んでもらえて」
みさきは、満腹で幸せになったことで気が緩み、仮にも男性の前で端ない仕草を見せたと気づいた。そして咳払いを一つすると「うん、いや……良い蟹だったわ。IHクッキングヒーターの性能とやらも分かってためになる体験でした」と言った。体裁を取り繕うためにそう言い直したが、顔からは幸せが溢れていた。これぞうにはそれが分かった。
ここであかりと桂子が立ち上がった。
「あー鍋食べたらアイスが欲しくなった。濃いめのチョコを感じられる系のヤツが無性に食べたいわ」あかりは棒読みで言った。
「あ~私は普段高級な物しか食べないから、庶民のためのアイスが売られている庶民のショップコンビニとか言う場所に行ってみたいわ。社会見学ってことでね。というわけで、あかりと一緒にコンビニに行くわ。これぞうとみさきのも買ってくるからね。もちろん私の奢りよ」庶民の文化を知りたいという心にも無い理由を取って付けてお嬢様は部屋を出ようとした。
「ちょっと!」これぞうは退室しようとする姉の腰にしがみついた。
「こら、人前でお姉ちゃんに甘えるんじゃないの」
「いや、その、姉さん。ありがたい申し出だとは想うが、急に先生と二人切りにされたら……そりゃ嬉しいけど、緊張して心臓の毛が全部抜けそうだ」
「何よそれ?情けない。しっかりしなさい。剛毛の心臓を持つ男これぞうが聞いて呆れるわ」
これぞうは、そんな女子受けの悪そうな通り名で呼ばれたことは一度もないと想った。姉は弟の腕を逃れ、桂子と共にアパートを出ていった。
「あの……」
これぞうはみさきに背を向けて胡座をかいていた。
「その……二人っきりですね」
「うん……」とみさきは返した。
「あの、先生は僕がいない間の一年、どうなされていました?」
みさきはこれぞうの背中に向けて語る。「うん、部活の顧問のことで色々あったかな。顧問二年目では皆で泊まりの合宿に行ったり、私の知り合いを当たって他校との合同練習もしたよ。大変だけど、結構楽しかったな」
「あ、えーと……」これぞうは自分でも不思議に想ったが、どういう訳かすらすらと話すことが出来ない。いつもは止めどない流れに乗って喋るこれぞうが、緊張してテンパっている姿を見せている。みさきにとってそれは少し面白い光景だった。
「ふふ、五所瓦君って心臓が剛毛なの?」
「ははぁ。腹を開いて見たことがないので何とも……まぁいくらかは生えてる気がするのですが……」
「ははっ、生えてることは生えてるのね」
「先生、その……長いことお会いしなかったので、そのせいか今は緊張するのです。以前はここまでのことはなかったのに、一体この変化はどういうわけか。一年会わない内に生じた変化がこれなのでしょうか?」そこでこれぞうはみさきを振り返った。この時これぞうは自分で言っておいて何だが、自分は一体何を言ってるんだと想った。
「ここに帰ってきた最初の朝に一緒にパウンドケーキを食べた時は平気だった?」
「いや、あの時だって緊張しましたよ。しかし、警察に厄介になったこととか、先生に会えた嬉しさがあったので、気分がハイになってペラペラと喋っていた気がします」
「ふーん、じゃあ聞くけど……」
みさきは自分から話題を提供しようとした。
「こないだ松野さんとデートしてたの。あれってどういうこと?」
「あれは違います!彼女は友人であって、デートする仲ではありません。はい、それは誓ってそうです」
「そう、分かったわ」
ここで10秒程無言が続いた。
「先生」言うとこれぞうは立ち上がり、みさきに歩み寄り、そしてまた座った。
「僕はこの一年、先生と離れ離れだったわけですが、それでも先生を忘れることがありませんでした。つまり、それは僕が本気で先生が好きだという証拠になった。僕はそう想うのです」
「はぁ……」
「だから、僕に浮ついた心が無いとだけは信じて欲しい」
「どうして、私なの?」不意にみさきの口から出た言葉だった。
「それは……また、なんというか、哲学が絡みそうな問いですね……」
これぞうは一呼吸置いてまた話し始めた。「そこには確かに理由がある。でも、その理屈を言葉にするのは難しい。とにかく僕は先生を好きになり、それ以降は他の女性を見てもときめくことはなかったということです」
「う、うん……」
「先生、僕は始めの内は人を好きになれたこと、それがただ嬉しかった。でももう2年だ。あなたを想って2年。そろそろこの関係の明確なところが見たい」
「それはどういう?」
「これを言うのが怖かった。でも、もう言う。姉さんがわざわざ作ってくれたチャンスだ。僕の抱くこの間違いない想いが成就される日は来るのか。その可能性はあるのかどうか、そこをあなたから聞きたい」
これぞうは曖昧な恋の行方の見通しがあまりにも立たなすぎるのが怖かった。だからこそもっと怖い想いをしてこれを聞いた。これはつまり、みさきは自分の想いを受け入れてくれるのかどうかを聞いたということである。
これまで彼はとりあえず自分の想いばかりをぶつけてきた。敢えてその反応は聞かないでいた。重ねて言うが怖いからだ。みさきからの恋の拒絶、それがこれぞう最大の恐怖だった。
緊張の中絞り出した言葉は震えていた。これぞうの顔は赤い。彼はまだ若く青い。こんな言葉を平常心を保って言うのは無理だった。これぞうの心臓は激しく打たれ、緊張で息が乱れてきた。
「……」みさきは口を閉ざしたままだ。そんな状態でも二人はしっかり互いの目を見ていた。
我慢すること20秒。
「はぁ~~」という情けない一息と共にこれぞうは崩れ落ちた。両手を床につき、顔を床に伏せた。座ったままそれを行なうので土下座に近いポーズに見える。
「無理、この状況、無理……」
緊張の針が振り切れた。経験の乏しい17歳の小僧に、色恋の駆け引きの極限状態を耐えきるのは難しかった。それがこれぞうなら尚更のこと、彼にとってここまで女性に詰め寄ったのは始めてのことだった。
「あの、五所瓦君?」
みさきが声をかけるとこれぞうは勢いよく立ち上がった。そして無言のまま玄関に走り、アパートを出ていった。