第百五十二話 久しぶりに聴いた愛しき虫の音
これぞうが故郷に戻ってから二日後のことである。この晩、五所瓦姉弟が動く。
これぞうは、遅れて家に戻ったあかりにこれまでのことを報告した。
それを受けてあかりは、愛しのヒロインと一年ぶり、話数にして十数話越しに再会しておきながら、一緒にパウンドケーキをつついただけでは味気なさすぎる、もっと攻めるべきだと返した。メインヒロインに振られておいて、他の女性と食事に行くというのも色々なっていないとも口にした。
「これぞう、あんた何してたのよ。家族がいない中で先生を家に連れ込んでおいて、楽しいハプニングの一つも起こせないなんて腰抜けもいいところよ!あんた、腰ついてんの?」
「ははぁ、これが困ったことにしっかりついております」
これぞうは姉の部屋で正座していた。
「そうねぇ、先生とは今の段階では一応生徒と教師の関係ではない。そこに気づいたのは良いわよ。でもその先よ。ななちゃんとデートに行くとはどういうつもり?」
「いや、たまたま会って、腹が減っていたし、道連れが欲しいとも想ったので……それに先月の在宅ワークの報酬が結構入ったから、以前世話になった彼女にご馳走しても良いではないかと想ったんだ」
「はぁ、私もななちゃんとデートしたかったわ」
あかりはこれぞうの友人松野ななこを大変気に入っていた。
「で、あんたはこっちに来て私達が到着する間、ずっと古臭い本を読んで過ごしていたってわけ?」
「ああ、こうして家庭内が無音である状況は極めてレア。そんなだから集中できて余計に読書を楽しんでしまったよ。はっは~」
「だめだめねあんたは。よし、今晩にでも動くわ。みさき先生にアポなし突撃をかけるわ」
「姉さん、また何をするつもりだい?」
「まぁまぁこっちに全部まかせてよ。それにしても本当に行動力に欠けるわね。チャンスにぶち当たる運はあっても、それを掴めない者は揃って敗者、弱者の扱いよ。あんたは一回一回のチャンスを大事にしなさい。いいわね」
「はい!」
今日のあかりはこれぞうに対して当りが強い。これぞうとの話が終わると、あかりは携帯電話を取り出して電話をかけた。
「もしもし桂子。ちょっと用意して欲しいものがあるの。あんたにとってもきっと楽しい話よ」
電話をかけた相手は従姉妹の桂子だった。
そしてその日の晩が来た。水野みさきはアパートに在宅していた。
その日、みさきは悶々としていた。みさきは夕方のテレビニュースをなんとなしに見ていたが、頭にあったのはこれぞうのこと。
「五所瓦君が帰ってきた。なんだろうか、想った以上に驚かなかったけど、何だかこう、胸がざわつく感じがする。五所瓦君……またあれを言って……まだ私のこと好きだって……一体どういうつもりなのかしら。……好きって言っておいて、そのすぐ後には松野さんとデートとか……あれはちょっと、なんと言うか……どうして私がこんなことを気にしないといけないのよ」
みさきは帰ってきたこれぞうをあっさり迎え入れたように見えたが、それは大人なのでポーズを取っただけ。本当はと言うと、並々ならぬ心の揺らぎがあった。彼女にとってこれぞうはただの生徒ではない。これぞうは一年の間に確実に成長していた。背も伸び、顔つきから何から含めて逞しく見えた。また警察の厄介になるところなんかは相変わらず間抜けだけど、それでも時間が経っただけ確かな変化があった。みさきは本能でもそれを感じていた。
そんなことを考えていると「はぁっ」とため息が一つ漏れた。丁度その時、彼女の部屋のピンポンが鳴った。
「はい」
「こんばんはみさき先生!」みさきが扉を開けると、そこにいたのはなんとこれぞうであった。
「お久しぶりみさき」その後ろには桂子もいた。
「先生、ご無沙汰しております」礼儀正しくあかりも挨拶した。
「え!あなた達どうしたの?」
「説明するわみさき」と言うと桂子は一歩前に出て偉そうに説明を始める。「これぞうとあかりが無事にこっちに戻ってこれた。これは私としてもとても嬉しいことよ。そこで、お祝いパーティーをすることにしたの。その会場にみさきの部屋が選ばれたってわけ」
「ええ?聞いてないわ」
「知っていたらあなたはきっとエスパー何かよ、だって言ってないもの」
アポ無し突撃という迷惑行為をしておきながら、このお嬢様には悪びた様子が微塵も見えない。
「先生!鍋をつつきましょう」これぞうが急に言う。
「ええ、鍋?」
「ええ、鍋ですとも。あ!鍋をつつくって言っても、つつくのは鍋で炊いた具材ですよ」
「それは分かっています!」
「みさき、あなた夕飯はまだでしょう?」
「ええ、これからだけど……」
「じゃあ決まりね」
自分の意見オンリーで全てを決めてしまった桂子は、さっそくみさきの家に上がろうとする。
「えーちょっとちょっと!」
さすがにみさきは待ったをかけた。だって急すぎるもの。
「なーにみさき?ああ、物を見せろって言うのね。鍋をやろうなんて言うなら、通行料として具材持参は当たり前よね。事前に見せろとはさすがみさき」
「え、何が?別にそんなことは……」
「先生、見て下さい。皆大好きな甲殻類の王様、蟹です!」これぞうは発泡スチロールに入った蟹を見せた。これぞう的には蟹が甲殻類の王様らしい。
「まだまだ、こっちにはネギ、春菊、人参、白菜、きのこ類様々、こんな感じで野菜は充実。そしてこっちには肉もあるし、河豚もあるわ。いずれもどこかで採れた高級品よ。これでも文句があるかしらみさき?」桂子は次々と食材を見せた。仕入れ先は使用人に任せているので全然知らないが、龍王院家で用意したのものだ。であれば一級品であることは間違いない。
「先生、鍋は我が家の大きいのを持って来ていますし、蟹とかその他の食材から出たゴミはこっちで持って帰ります。先生にはなるたけご迷惑をかけないようにしますから」
この申し出、ありがたい。ここまでは拒否反応とも取れるアクションを行ったが、みさきのような節約中の一人暮らし乙女にとって、食材の提供は真にありがたい。実を言うと、最初の蟹が出た段階で、この三人を追い返すことは出来ないと想った。みさきは、と言うか、大体の人間が欲望に素直だ。中でも食欲を制することは難しく、美味しそうな具材を見ればみさきの口内の汁量は増え、そして腹が鳴るのであった。何せ今日のみさきの昼飯はスーパーの特売セールで買った一玉10円のうどんを用いた質素なうどんだったからだ。
みさきの腹の虫の音を聞いてこれぞうはニコっと笑った。
「先生のお腹の虫の可愛い声を聴くのも一年ぶりだな~」
これぞうがそんなことを言ってくる中、みさきは顔を赤くしたまま黙ってやり過ごしたのである。