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第百四十三話 揚げる女

 走る、走る。これぞうは夕陽を受けてをひたすら走った。過去の彼のように簡単に息切れと体力切れを起こすことはない。これぞうは海に出る前から基礎体力を身につけるためのトレーニングを行っていた。自分よりもたくましいみさきに少しでも近づくため、これぞうは日々密かに己を鍛えていた。こうして彼は少しずつ男になっていく。

 ポイズンマムシシティの通りを、夕陽に伸びるこれぞうの黒い影が横行して行く。そのスピードは遅くはない。

「はぁはぁ……鮮度、鮮度のある内だ!」

 これぞうは手ずから掴んだ栄光の赤き輝きをその手に宿している。それが何かって?無論彼が頑張って引き揚げたマグロの赤き身だ。

「これを……先生に……へへっ、先生は元々綺麗だからなぁ。それがもっと綺麗になるぞ~」

 水野家が見えた。これぞうのラストスパートだ。

 これぞうは人差し指で勢いよく呼び鈴ボタンを押した。

「はーい」

 ピンポンの音を聞いて出てきたのは水野家の母であった。

「はぁはぁ……これはこれはお母さん、ああ遅れましたね。明けましておめでとうございます」

「ええ、こちらこそ、どうしたのこれぞうちゃん。そんなに全身魚臭い匂いをさせて」

「ええ、それはもうその通りで、なにせこの品、トップオブ魚。そう、マグロですよ。これを是非みさき先生に。はぁはぁ……」

「まぁまぁ、そんなに息を切らせて。どう?天ぷらでも?」

「ええ、それはもう、くれると言うなら是非頂きたい!」

 水野家の母は、何かと天ぷらを揚げがち。そのせいで結婚後は少々ぷっくらとしたのだ。そんな母とこれぞうは、最近ではすっかり仲良し。

「丁度今、親戚からもらったあれこれの野菜を揚げたのよ。それから余った餅も揚げたの。これが結構イケるのよ、餅の天ぷら」

「ははぁ、餅の!それは興味深いので是非!で、お母さん、みさき先生は?」

「それがねぇ……」

 この後、母からみさきの行方が説明される。本日は1月5日、この日みさきは、たまの友人との再会を果たすため、友人女子宅で行われたお泊り会に参加していた。そして、そのまま向こうのアパートに帰るということだった。なので、もう家を出ていってしまい、年始にはこれぞうとは会えない。

「な、なんじゃそりゃ!」理解の早いこれぞうは状況の全てが分かっている。その上でもその言葉が口を突いて出た。

「ごめんなさいね。みさきももう少し待ってくれたら良かったのに……」

「いえいえ、お母さんが謝ることでは……まぁでしたら、こいつはご家族で是非食べて下さい。脂も乗ってとても新鮮。早い内に召し上がれ。はぁ~」

「これぞうちゃん、とりあえず、お返しの天ぷらを召し上がれ」

「ああ、それはもう、今日は一日忙しくってですね。マグロを揚げた後も色々と面倒があるのですよ。そして走って帰ってきて超お腹が減っているのです」

 そんな訳でこれぞうは、魚臭い匂いが残る中、水野家にお邪魔して天ぷらを食っていくこととなった。


 水野家の父は晩飯前だというのにカステラを齧りながらこれぞうの前に現れた。

「やぁやぁ、これぞう君。娘たちから聞いたよ。どうやら君は、たまの正月を丘を離れた海で楽しんだとか?」

「ええ、お父さん、その通りです。口には塩、肌には乾燥を促す冷たい風を受けてのことです。安らぎなどありはしない状態でしたよ。しかし、そんな中でこそ取れたのがこの極上のマグロなのです!」と言ってこれぞうは美しき赤き身を水野家の食卓に置いた。

「もう、これぞう君。魚臭いよ」鼻を摘んでみすずが言った。

「何さ君。新年一発目の対面で最初の言葉がそれかい?」

「だって臭いんだもん」そう言うとみすずはミントの香りがする消臭スプレーを持ってきてこれぞうの全身に吹いた。

「なんだいこれは?歯磨き粉の匂いだね」

「ミントよ。ミントも分からないの?」

「はは、海に長くいたから丘の植物の香りをしばし忘れていたよ。言わてみればこいつは確かにミントだ。ウチの親戚にこれを採ってるのがいるよ。いつぞやはそれを使って作ったシフォンケーキをみさき先生にご馳走したことがある」

 この街に引っ越して来て一年近く経つ。その間にこれぞうと水野家の面々はすっかり気心の知れた仲となっていた。五所瓦と水野の血はなかなか相性が良いようだ。

「まぁまぁ、君のお目当ての姫は不在だが、その分その父が相手しようではないか。では、海での壮絶な土産話をひとつしてもらおうかな」

「ええ、それはもう、リクエストとあらば喜んでお話しましょう」

「はは、君の話は楽しいからね。娘をやるやらないは別として、君という男自体との交流は楽しいから今後も続けたいね」

「はは、それは光栄ですよ。まぁその内にはそちらの許可も頂けるとありがたいですがね」

 ここで母は天ぷらを進める。

「まぁまぁこれぞうちゃん。熱い内に天ぷらをどうぞ」

 これぞうは腹が減って仕方ないのですぐに飯にがっつく。

「いやーこいつはうまいですなぁ。これが女性の身にしてああも逞しいみさき先生を育てた食卓。いやぁ、預かるには光栄な食事ですなぁ」

「ただの天ぷらよソレ」調子よくほざくこれぞうに向かってみすずが一言飛ばす。

「はっは、美味しいよ。餅を揚げたのもいけますね」

 これぞうの土産のマグロを見た母は、それをよく見てからこう言う。「あらあら、これは綺麗なマグロ。これも揚げましょうか」

「いやいやお母さん。そうしたって美味いことは美味いですが、個人としては、新鮮なのをお刺身で行くのをおすすめします」

 命がけで捕まえたマグロ。それをベストな状態で食ってほしいこれぞうは、何でも油で揚げたがる水野家の母に刺し身で食うことを強めに提案した。

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