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第百四十一話 マグロ一本釣り奇譚~男これぞう、船上での戦い~

 これぞうが高校生になって迎えた二度目の正月。彼は実家を留守にしていた。せっかくみさきが帰って来たのに、またもや彼は留守。こうして作品主人公とヒロインの対面はまた見送られたのである。

 これぞうが正月に家を留守にした理由、それがいかなる物であったか、その説明をせねばならないだろう。

 

「うわっ、しょっぱ!」

 これぞうの舌を濡らしたのは、十分な塩分を含んだ冷たい水であった。彼の足元はグラグラと揺れている。決して動かない安定感ある丘に足を着くのが懐かしくなる程に彼の足場は安定しない。

「気張れや、ファイブ!」野太い声が言う。ファイブ、それはこれぞうのことを指している。

 彼が今どこにいるのか、びっくりしてはいけない。彼は今、荒れ狂う海に浮かぶマグロ漁船の上にいた。インドア派を極めた文学青年の彼が、最も家に引きこもっていられる年末年始という時期に、それもクソ寒い中で船の上にいる。これは尋常ではない事態である。

 季節に関わらず、海に近付こうとは微塵も思わないこれぞうのような男が、なぜマグロ漁船に乗っているのか、その理由はこうだ。これぞうとは従姉妹の桂子の実家龍王院グループは、マグロの商売も行っている。毎年新年にはマグロを初競りで売るのだ。このマグロは毎年、龍王院グループからの信頼が厚い腕利き漁師が担当していた。しかし、そんな腕利きの漁師も、寄る年波と海の荒波には敵わない。年末、波に揺れる船の上で行われた漁で、彼は大事な腰を痛めた。そのため、最も大事なこのマグロ漁に出られなかったのである。そうなれば、空いた穴を埋める人材の投入を急がなければならない。そこで色々あって、本当に色々あっての結果、海に出たことはないが、若さの血潮の盛りを迎えたこれぞう少年に白羽の矢が立ったのだ。

 彼は今、その先にマグロがかかっている細い糸を手繰り寄せている。


「うぉぉぉ!!なんて引きだ!これがマグロなのか!寿司皿の上で大人しくしている赤い切り身の状態でしか見たことがなかったが、海にいる奴はここまでなのか!」これぞうは本場のマグロの怪力にただただ驚いていた。同時に、姿が見えずとも釣り糸から溢れるその生命力に興奮と感動を覚えていた。

 油断すれば体ごと海に引っ張られそうだ。そんなギリギリの戦い中、海は荒れ始め、波によってこれぞうの足場もグラグラとする。

「ファイブ!マジで油断するな。この戦いの結末を見るとすれば、お前が海に沈むか、奴が丘に引き揚げられて美味しく食べられるかのどちらかだけだ!龍王院グループが手がけるマグロ商売はマジもマジなんだ。そいつ一匹で億単位の金が動く。お前の掴んでる糸の先にはそのレベルの化け物がかかってる!」

「はい!ボス!何だか分からないが、この戦い、僕は負けたくない。悔しいが、僕も男ってことみたいだ!」ボスの呼びかけに、これぞうはテンション高めに答えた。

「この海ってやつは、男の血潮をたぎらせやがるんですよ。これぞう君が一番に影響されましたね」普段は桂子の使用人をしている甲本が言った。

「ファイブ、とにかく腰だ。腰を沈めて気張るんだ。踏ん張りを効かせないと、海に引っ張られる」

「はい、イケさん!」


 今回のマグロ漁にはピンチヒッターのこれぞう、ボス、イケさん、そして甲本が参加した。これぞうをファイブと呼ぶボス、イケさんの両名は、遡ること数十話前のみさきの引っ越しの歳に、引越し業者として登場している。その時はこれぞうもバイトで参加し、三人で引越し作業をした。このボスとイケさんは、優秀で有能、そして経験も豊富なため、グループの中でも現場の使い回しが可能な重宝されるスタッフであった。彼らは普段は引越し屋をしているが、こうしてピンチの際には海にも呼ばれる。そして丘、海問わずに十分な働きが出来た。

 甲本はと言うと、実家が漁をやっているので、息子の彼も海には慣れている。マグロ漁に関しても経験がないわけではない。使えると判断されてここに回された。

 ここに、未知なる可能性を秘めた素人のこれぞうを加えることで、この冬限定のスペシャルチームが発足したのである。


「うぁ!冷たいし、痛い!」高波が弾け、これぞうの顔面を濡らす。そして海上に吹きすさぶ風の冷たいこと。これを顔に受けると痛みすら感じる。乾燥しまくりでお肌に悪い。

「荒れてやがるなぁ。地の利を得ているのは奴だ。長引く程にこっちが不利だ。全員気合を入れろ!」ボスが皆を鼓舞した。

「へへ、こんな状況で言うのも何ですけどね、またボスの下で働けるなんて光栄なことだ。僕は嬉しい。そしてこの漁が成功すれば、その喜びも一入ってね」

「ファイブ、しばらく見ない内に逞しくなったよな。引っ越しの時にはヒョロヒョロだったのに、ここまでは良くついてきてる。成長して体も出来てきたし、それに、こいつは幾らか鍛えてるなぁ」イケさんが分析を加えた。

「まぁね。前回の引っ越し業務でボスとイケさんに迷惑をかけた時、僕は自分の未熟を恥じた。だから、ここのところは、筋トレやランニングで鍛えていたのさ」

「ファイブ。見事奴を丘に引き揚げてみせろ!俺だってお前との再会は嬉しい。仕事が成功すれば、この再会も最高のものとなる」ボスはこれぞうの人となりは気に入っていた。

「やれやれ、暑苦しいなぁ。僕は熱血なノリが好みじゃないのだが、それでも、アレを引き上げたいって気持ちは同じだね。これに失敗すれば、あのお嬢さんからうるさく言われて面倒なことになるしね」甲本も失敗に終わらせる気は微塵もない。


「ぐぅくうう!」これぞうは糸を引く。

「イケさん!もっとだ、もっと引け!ファイブも気張れ!」

「はいよ!」

 ボスは船の操縦席から指示を出していた。

 マグロの姿は船上からはまだ見えない。ただ、海に投げ入れた一本の針が確実に奴に掛かっている。針から伸びる糸を掴むことで、これぞうと奴は繋がっている。

「恐ろしい。恐ろしいことだ。丘で自由に歩き回る僕たちだが、海ではその勝手が通じない。捕食するは我にありのはずが、今はその美味しい食材に力でもって翻弄されている。海ってのは恐ろしい。分からないことだらけだ」これぞうは海の持つ大きな生命力、その中でもマグロというわずか一部に恐怖していた。

「ふふっ、感じたかファイブ。海の恐ろしさをよぉ。戦う相手の怖さも知らない内は三流、で、お前は今そこを脱した」ボスはこれぞうに語りかける。「いいか、海ってのは生命のお袋。俺たちみたいな命も、元を辿ればその下から出てきたのよ。だが、生み出せるってことは、同時に殺すことにも決定権を持っているってことだ。母なる海なんて言うが、その海から怒りを買えば、人も、村だって飲み込んで死に変えちまうんだ。海を舐めるな。海を舐めた奴は皆殺しだ。海の男は、皆その真実を胸に刻んでいる」

 ボスの言葉を受けて、これぞうはゴクリと唾を飲み込んだ。その瞬間、奴がこれぞうを引っ張った。

「ぬおおお!!負けるか!」これぞうは糸を手繰る。

「イケさん。サポートお願いしますよ!」

「任せなファイブ!丘に帰る時には4人と一匹でだ!」イケさんもマジだ。

 マグロは左右に激しく暴れているようだ。これぞうは糸の引き具合でそのように予想した。

「くぅおお!負けてたまるかぁあ!!僕はこいつに勝って、みさき先生のいるあの丘に帰るんじゃぁああ!」愛をパワーに変えてこれぞうはマグロの体力を削りにかかる。

「へっへ、なんだ今のは、ファイブ、お前のコレの名前でも叫んでるのか?」そう言いながらボスは小指を立てて見せた。

「へへ、そんなんじゃ。いや、そうなる予定の人ですよ。へへ」これぞうはヘラヘラして返した。

「じゃあ、糸の先の初物を、お前の良い人の土産に持って行ってやりな。こいつを食えばもっとべっぴんさんになる」

「みさき先生がもっとだって!ふふ、それはまるで鬼に金棒だな」これぞうは俄然やる気になった。


「ファイブ、海上を見ろ。今、影が……ああ、やっぱりだ!」イケさんが指示する。

「ああ!イケさん。見えましたよ!なんてデカいんだ!まるで怪獣じゃないか」

「おいでなすった。これぞう君、頼みますよ。奴だって消耗してる。もうひと踏ん張りです」甲本もこれぞうを全力でサポートする。

 やっと海上に姿を現したマグロ。それは恐ろしい程にデカい。しかし、ここからが長い。なかなか船に近寄せることが出来ない。向こうも必死で力を振り絞っている。そして荒波がこれぞうの仕事の邪魔をするのだった。

「くそおおお!もう観念しろよ!!」これぞうの手は痺れ初めていた。これぞうが想った以上に船の上に立つと体力が消耗した。それに加えて、この暴れ者を相手取るのだ。疲れて当然だ。

「ああ、デカイなぁ。昔読んだ『老人と海』っていう本を思い出すなぁ」ボスが言った。

「ボスでも文学を読むのですね」アーネスト・ヘミングウェイが紡ぎしその名作のことを当然知っていたこれぞうはそう返した。

「いや、あれは文学なんて代物じゃねえ。あれは、海に生きる男の熱き魂っていう目に見えない物を、文字に起こして見せた魂の経典だ。俺にとっては、文学ってよりかは啓発本とか、ハウツー本かな」

「へへっ、確かに。あの話では、せっかく大物カジキを捕まえたのに、丘に運ぶ途中でカジキがサメに食われてしまうんでしたよね。僕らのこの獲物は五体満足、新鮮な状態で持って帰りましょう」

「そうだねこれぞう君」と言う甲本は、マグロが漁船に近づけばいつでも銛で突けるよう準備をしていた。

「ファイブ、仕上げだ。奴には、母なる海から出てもらうぞ!」イケさんが糸を手繰る。

「はい!ぬぅおああああ!マグロよ!親離れの時だ!」気合の雄叫びと共にこれぞうは糸を引く。それに圧倒されてか、マグロは遂に漁船のすぐ傍まで引き寄せられた。

 そこで、自分の間合いに入った獲物を決して逃さない漁師の息子の鋭い一突きが、マグロのたくましいボディに打ち込まれた。甲本の銛は確実にマグロを刺した。その瞬間、荒れ狂う黒き海に鮮血の花が咲く。

 イケさんは漁船に備わる大きな吊り金具に手をかけた。弱り切ったマグロにこいつを引っ掛けて船上に引き揚げるのだ。

「これぞう君、もっと引いて!奴さん、この後に及んでまだすごい力で暴れている」

「はい!」

 甲本が銛でマグロの体力を削ぐ中でもまだ安心出来ない。コレほどの血を流しても尚、奴の目は死んでいない。これぞうはマグロの目を見た。ギョロッとしたその目は有り余る生を宿しているようでこれぞうを恐怖させた。一体どれだけ血が流れたか、たかが魚がこれほどの血液を体に宿しているのかとこれぞうは驚くばかりだった。

 甲本の放った銛はマグロの身を刳り、血を奪った。しばらくの攻防の末、やっとマグロは大人しくなる。そこでイケさんは透かさずマグロのエラ部分に巨大な吊り金具を引っ掛ける。あとは、これを引いて船に上げるのみ。マグロは遂に海面を離れ、宙に浮く。そこでボスはマグロの尾にロープをかけて船上へと引っ張る。遂にマグロが船上に引き揚げられた。

「デ、デカイ!」これぞうは驚いてマグロを見た。「こいつが大の男4人を力でもって翻弄したのか。全身が筋肉で出来ているとでも言うのか……」

「はは、ファイブ。良くやったな。お手柄だよ」イケさんはこれぞうの肩を叩いた。

「用が済んだらさっさと引き上げるぞ。燃料が心配だな。帰れるか……もしもの時にはそいつを食えば、男4人でも5日くらい持つかな」

「ボス、頼みますよ!僕はどうしても丘に帰らなくちゃいけない。このままみさき先生に会えずにこの世からおさらばなんて出来るはずがない」この時これぞうは、みさきの笑顔を思い浮かべていた。

「そうですよボス。これぞう君を死なせるようなことがあったら、あなたにも死んで責任を取ってもらう。僕はお嬢さんからそこまで言われてるんですからね。というか、だったらこれぞう君の派遣自体をちょっと考えたらって話なんですけどね」甲本は自分の面倒な事情を語る。

「はっはー。まあお前達を全員無事で帰すのが俺の仕事だ。なーに安心しろ」

 ボスは丘に向けて船を走らせた。その道中にも海は荒れる。海がご機嫌斜めになって行くのと反比例して、船上の4人は益々ご機嫌になるばかりであった。

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