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第百二十九話 それが嘘だったらどれだけ良かったか

「嘘……だろ」

 これぞうはそう言うと、口に持っていく途中だった沢庵たくあんを机の上に落とした。

「いや、嘘じゃない」父は真剣に答えた。

「嘘……だろ」

 これぞうはまた同じことを言う。すると次には先程沢庵をつまんでいた箸まで机の上に落としてしまう。箸は机の上を転がるとこれぞうの膝に落ち、次には床にまで落ちた。こうなると水で洗わなければ食事の続きが出来ない。

「はは……お父さんってば、冗談キツイなぁ……それもこんな……楽しい食事の時間に……」そう言うとこれぞうは席を立って、壁にかけたカレンダーの前までゆっくり歩いて行く。

「えーと、今日は3月1日。丁度エイプリルフールの一ヶ月前だ。おとうさん、一ヶ月はフライングしすぎだよ。その嘘はまた一ヶ月後にどうぞ」

「いや、一ヶ月後、我々はここにいない」父はきっぱりと返した。


 今は五所瓦家の夕食の時間。食卓にはこれぞうとその父ごうぞう以外に姉のあかり、母のしずえもいた。いつもなら時刻に関係なく集まれば賑やかな四人なのに、今は静かでどんよりとした重い空気の中にいる。姉も母も口を閉じたままだ。

「姉さん、何か言ってやってくれよ。お父さんがいい加減な嘘を言ってるよ」

「いいえ、私達の父は真実の人よ。息子のあんたがそうなように、このお父さんもたちの悪い嘘は言わないわ」姉は弟ではなく机の古い傷をじっと見て答えた。この家がまだ若かった頃にあかりがつけた傷だ。

「はっはは……姉さんまで……」これぞうはひきつった笑いを浮かべた。

「お母さん、夫が乱心のようだよ。ささ、愛の力で沈めてあげて」

「ええ、そうなった時には言われなくてもそうするわ。でもね、これぞう。お父さんは正常なの。今言ったことに嘘はないの」

「嘘だ!皆して僕を騙している!こんなことがあるもんか!」普段穏やかなこれぞうが叫んだ。

「いい加減にしろこれぞう!皆知ってるんだ。お前に言うのが最後だ。お前が、今のお前がこの事を受け入れるのは辛すぎると想ったからこんな時期まで言えなかったんだ。お父さんだってコレをお前に言うのがどれだけ辛いか……」ごうぞうもまた声を荒げて息子に言い放った。彼の両肩は震えていた。

「……嫌だ。僕は嫌だ。そんなの知るもんか!」まだ飯が残っているのにこれぞうは部屋を飛び出した。そして階段を駆け上って自室にこもった。彼が飯を残すなんてことはおそらく今日が初めてだった。それだけに食卓に残された三人はショックだった。あんなこれぞうは見たことがない。


「お父さん……どうにもならないの?」あかりが尋ねた。

「もう三月だ。どうにかなっていればここまでもつれ込みはしない……」

「この家ともお別れね……」母は愛しい天井を見上げて言った。

「これぞうは、今の暮らしを愛しすぎている。あと一年早かったら、あの子があんなにごねることはなかったろうに……」

「お父さん……」あかりは俯く父を心配して言った。

「やっぱりあの子がああなったのは、水野先生のことが関係してるわね……」母が言った。

「そうだな、水野先生だよ。あの人との出会いがこれぞうを変えてしまった。これぞうがここを離れられない理由がそれだよ」


 年が明けた頃の話である。父ごうぞうは、勤めている会社から転勤を言い渡された。勤務地はポイズンマムシシティ。ここソニックオロチシティの二つ向こうにある街で、みさきの故郷でもある。そこで一家は引っ越しをすることとなったのだ。そうなればこれぞうも転校ということになる。それは横にイコールを置いて愛する女との別れを意味するものであった。


「はぁ……これだったら一年前に転勤の方が良かったな……」

「お父さん、それは言ってはダメよ。あの子がああして良い方向に変わったのは、みさき先生だけのおかげじゃないわ。通ってる生徒達も含めてあの学校自体が良かったのよ。これぞうはあそこに通って正解だったわ。例え途中で転校するとしてもね……」あかりは、かつて自分が生徒会長を務めていた古き学び舎を誇りに想った。

「はぁ……困ったなぁ。これはお父さんが憎まれ役だ。様々理由があっても、僕は子供に嫌われる親は三流だと想っている。自分が一流とは言わないが、せめて二流には食い込んで三流にはなりたくない。嫌われずに説得、これには骨が折れるよ」父はそう言うと沢庵をボリボリと齧った。

「まったく、こんなしゃれた物をこしらえることが出来る子になるなんて、一年前に誰が想像出来た?」

 その美味しい沢庵は、一年前には料理なんてまるで出来なかった愛しい息子の漬けた物であった。

「よく浸かってさぁ、歯ごたえも抜群だよ。良い子なんだが、泣かせてしまったなぁ……」父は口の奥からボリボリと虚しい音を響かせた。

「あなた、そんなに落ち込まなくても。これはあなたにとっては名誉なことじゃない?」としずえが声をかけた。

「ああ、かもね。でも、名誉っていうありがたいものだって人によって好き嫌いがあるんだよ。僕は努めて地味に生きたいんだ。正直言うと、名誉なんて願い下げだね。あれば目立ってしょうがないもの」

 これぞうの父ごうぞうは、控えめな男だった。しかし人の本質という物は何をしたってそうそう隠すことは出来ない。彼は優秀な会社員で、幸か不幸か仕事が出来た。なので上から腕を認められ今回の転勤が決まった。これは左遷ではない。間違いなく栄転であった。多くの会社員なら名誉に想って喜ぶことだろう。何せ出世したのだから。

 ごうぞうが仕事をするのは、家族と幸せに暮らす空間を維持するため。それにはお金が必要だ。彼の仕事へのモチベーションはそういったものだった。ごうぞうは仕事を真面目にする男だが、会社に特別義理立てることはしない。なんなら明日100億円でも手に入ったら何の未練もなく会社を辞めても良いと考えていた。


「我々は家族だ。苦しく辛いだろうけど、四人で乗り越えよう。時間はかかるだろうが、これぞうとちゃんと話をして分かり合おう」

 ごうぞうのその言葉にあかりとしずえは黙って頷いた。


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