第百十二話 過ちを受け入れた後には光あり
「申し訳ございません!」
これぞうは冷たい玄関床に額を付けて土下座した。
「先生にここまでご迷惑をおかけして、情けない限りです」
「いや、まぁいいから」
「いいえ、先生は優しいからそう言いますが、これは許されることではありません」
息子を可愛がのるも躾るのもしっかり行なう父が口を挟んだ。
「先生、学校での先生の時間が終わっても尚家の息子がご迷惑をおかけしたことは本当に申し訳ない限りのことだと思っています。これぞうは、見知らぬ相手にでも落とし物を届ける良い子です。先生にご迷惑をおかけしたことに関しても本人に悪気はなく、記憶もない。しかし、過程が何であろうが、この子がこうして先生の手を借りて家まで運ばれたこと。これは親としても、これぞう本人としても情けないとしか思えないことです」
「お父さんの言う通りです。先生の貴重なお休みを奪ったことは何とお詫び申し上げればよいか」
これぞうに激しく謝られてみさきの方が困っている。
「これぞう、お前という奴は、やっと謹慎処分を終えたと思ったら次は酔っ払って夜遅くに、しかも愛する女性にお姫様抱っこされて帰ってくるなんて、何たる体たらく、情けない」
「お父さん、そこまで言わなくても、五所瓦君に悪気はないのですから」とみさきはフォローを入れる。
「だから悪気の問題ではありません。これぞうの行いの浅はかさを責めているのです。本来なら教師にこんな迷惑をかけたとなれば頬の一発でも叩いてやるべきです。しかし、こんなことをしても僕はこの子が可愛い。だからそれは出来ない。亡くなったお祖父さんならきっとこれぞうを打ったでしょう」
父は父としての自覚をしっかり持っていたが、教育のためでも何でも子に手をあげることがどうしても出来ない男であった。対してこれぞうの祖父は、教育のためなら暴力もありと唱える熱血漢であった。
基本として暴力はいけないこと。それはアホでも分かる。痛いし、下手をすれば死ぬからだ。しかし暴力という言葉、概念があるのは、それが活きる世界もまた確かに存在するからである。時、場合、その相手によっては、痛みを伴うコミュケーションが有用なことも確かにある。
暴力は決して禁じ手ではない。使い方、使い所を理解する者によって行われるのであれば、正しき行動ともなる。理解なくただ封じて、そのために教育が成されないなら、それは優しさではなく、教育者のただの怠慢となる。教育という世界は奥が深い。
「この子の場合には、頬を打つよりもっと効く薬があります。それは、愛した女の前で無様を晒したこと、それを実感させることです。先生には課外教育に付き合ってもらって申し訳ない。しかしどうか協力頂きたい。先生がこの場にいることが、この子への仕置になります。後で先生には、この子が食った飯代とタクシー賃はもちろんのこと、それでもまだ余るだけの額をお渡しします」
父の勢いに圧倒され、みさきは黙ってその場にいるのみであった。そして、確かに褒められた結果ではないが、それしてもそこまで事を荒立ててこれぞうを叱るものかと思っていた。一般家庭ではどうだか知らないが、これが五所瓦家の大黒柱五所瓦ごうぞうのやり方である。
「これぞう。今回のことは、五所瓦の男が代々酒に弱い体質なのがたたってのことかもしれん。しかしだ、あんなチョコにちょこっとしか入ってない酒でそんなにヘロヘロになるのはいくら何でも弱すぎる。お父さんはお前が飲酒したと聞いた時はもう退学かと思ったぞ」
父はチョコで良かった、ギリギリセーフなやつだと安心していた。
「お父さんごめんなさい。店のサービスでチョコがちょこっと出たと知るやいなや、スイーツ好きの僕は即食べてしまって、酒が入ってるかどうかの確認もしていませんでした」
これぞうは、最も愛した女の前で酔ってヘロヘロになり、おまけにお姫様抱っこで運ばせた迷惑をかけたことを深く恥じた。深く反省した。
そしてみさきは、五所瓦家親子がさっきから「チョコ」だとか「ちょこっと」だとか言うのはわざとかけてるのかと気になって仕方なかった。
「お前には回避できなかったことなのかもしれない。ただ、それで迷惑を被った人がいる。とにかく謝りなさい。お前にはそれしか出来ん」
「先生、重ねてお詫びします。今回のことで先生にご迷惑をおかけしたこと、真に申し訳ありませんでした」
「もういいわ。元々は輝美が定期券を落としたのがきっかけだし。五所瓦君があそこに来てくれないと私達が後で困ったわ。それに輝美がお礼を言ってたし、五所瓦君と話せたのも楽しかったと言ってたわ。お父さん、もういいでしょう?」
「ええ、もういいでしょう。最後に父親として……先生息子がご迷惑をかけて大変申し訳ありませんでした。こんなのですが、どうかこれからもご指導の方、よろしくお願いします。そして、もしその気になればその子と一緒になってもらいたい」
父はちゃっかり代理でプロポーズしといた。この父もみさきのことはかなり気に入ってる。そしてこの騒ぎの中だが、よその若い娘に「お父さん」と呼ばれるのは何だか気持ち良かった。
「はぁ……」
みさきはそれのみ返した。
「お父さん、最後の何?先生が困ってるでしょ。でも、先生ならいつでも歓迎だからね。嫁にならなくても家には遊びにきてね」
同じくみさきを気に入るあかりが言った。
「何を言うんだい。僕とみさき先生が丸っきりダメになった訳じゃないだろう。まだ可能性はあるさ」とこれぞうは意気込む。
みさきを目の前にしてこの調子で仲良く喋る家族であった。
「先生、そこで少々お待ち下さい。このまま帰すわけにはいかない。渡す物はしっかり渡して、それから車で家までお送りします」と父は提案した。
「いや、そんな……」
「だめだめ、何時だと思ってるのです?この時間に乙女の一人歩きなど痴漢してくれと言ってるようなもの。危ないですから歩いて帰らせる訳にはいきません」
心配しているのは本当だが、実は父、またみさきとドライブ出来るのが嬉しかったりもする。
「ははっ、と言ってもみさき先生はどんな痴漢よりも強いけどね」とこれぞうが言った。
「むむ、そうか。でも車じゃないとだめだ。とにかく先生、少し待って下さい」と言うと父は奥の間へと去った。
「五所瓦君、水かぶったりして……風邪引かないでね」
「ええ、僕は風邪を引かないのです」これぞうは自信たっぷりで言ってみせた。
「本当に酔った後の記憶ないの?」
「ええ、最後の記憶が店のカツ丼が美味かったということで、その後は何とも……」
「そう……」
「え!僕、まだ何か失礼をしていたのですか?」
「いえ、そうじゃないの。いいのよ」
「ふぅ~じゃあ安心だ」
これぞうはみさきの目をしっかり見て話し続ける。
「あの、こんなことになって申し訳ないのですが、でも僕は聖夜を先生と共に過ごせたて嬉しかったです。これは良き思い出になります。今日はすみませんでした。そしてありがとうございました」
「こちらこそ。輝美と3人での食事、楽しかったわ。ありがとう。でもこれを機にお酒には気をつけてね」
これはお世辞ではなく、みさきとしてもこれぞうを混じえた宴はなかなか楽しめるものであった。
「はい!……成人して酒も大丈夫になったら、先生と飲んでみたいなぁ」
「まだずっと先の話でしょ。今から約束はできません」
「先生、そこは嘘でも約束してよ」
「嘘なら約束にならないじゃない」
「ははっ、これは一本取られた。先生のお得意なやつだ」
二人は談笑していた。
「ねえ、私もいるんだけど。随分楽しそうにしてる所見せつけてくれるのね」
つい忘れていたが、その場にはあかりもいた。
「あ、これは姉さん、そのなんと言うか……ごめん」
これぞうとみさきは二人して顔を赤くした。
そこへ父が戻ってきた。
「先生、これは迷惑料を包んだものです。今回のことはちょっとした副業をして収入を得たくらいに思って忘れて頂けるとありがたい。それからこれは、先生が来る前からウチの妻が台所でグツグツ煮込んでいたおでんです。明日の朝ごはんの手間はこいつで埋めて欲しいです。本当に美味しいですから是非召し上がってください。ウチの妻は何かを煮込むことに関しては大したものですからね。ではまた安全運転で、大事なお体を家までお届けしましょう」
何せ近い未来、自分の孫を産むかもしれない体だからと父は思ったが、そういうのはセクハラになるから口には出さなかった。