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第百五話 君が君であったために起こった事件

 今日は12月25日。

 これぞうは考え事をしながら図書館に向かっていた。

「う~む、復学して早くも今年の学校が終わってしまった。しかしそこらの事情に関係なく時は刻まれていく。学校がなくともみさき先生にお近きになるにはどうすれば良いのだろうか。どうすれば会えるかな」

 彼は恋する少年ならではの悩みを抱えていた。

 これぞうが川辺を歩いていると一人の女性とすれ違いになった。これぞうと彼女がすれ違って少し経った時、聴覚冴えるこれぞうの耳は何かが落ちる音を聞き取った。

「はて?何だろうか?」

 これぞうが振り向くと道の真ん中に何かが落ちている。気になったこれぞうはとりあえず近づいて確認してみた。

「むむ、これは定期入れだな」

 これぞうが視線を上げると先程すれ違った女性の背中が見えた。これぞうから20メートルくらい離れていた。

「あの人が落としたのだな。大変だ、これがなきゃ交通機関が使えないぞ。もしも電子マネーに依存しすぎて現金を持っていないとしたら、彼女は家に帰れなくなるかもしれない。だったら交番を経由せずともすぐに返してやろうじゃないか。お祖父さんがよく言ってったっけ、情けは人の為ならずってね」

 人間関係の希薄化著しい現代において、これぞうという若者は人助けに真面目である。これぞうはすぐに女性の後を追うことにした。

「お~い、きみ~。そこのきみってば~」

 これぞうは大きな声で言いながら追いかけた。

「ん、こんな場末の通りで私を呼ぶのは誰だろう」その女性は後ろを振り返った。

「あ、良かった。君ーこれ君のー」

「は!知らない男が私の名前を呼んで近づいて来る!」

 女性の名は偶然にも輝美きみであった。そんな輝美は知らない男にファーストネームを呼ばれることにビビるばかりであった。しかし彼女、足腰は強いのでビビった所で腰を抜かしなどはしない。追手を確認した輝美は脚力に任せてダッシュした。

「ああ!おい君!何故逃げる!」

 それは彼女の名が輝美だったからであるが、博識のこれぞうでもその事情は知りえない。

「ちぃ、乗りかかった船、いやもう乗ってる。ならば途中下船は無しだ。僕はこいつを彼女に届ける任をやり遂げるぞ。お祖父さんが言っていた、半端な親切は正直言ってダサい。やるならちゃんと優しくってね」

 祖父の言葉を胸に彼もまた拙い足腰にものを言わせて駆け出した。


はやっ!はやっ!松野さんやみさき先生だって速いが、ここにも足の速い女性がいたか!」

 なんと逃げる輝美の足は想像以上に速かった。距離は開く一方だ。

「しかし僕だって負けはしない。みさき先生に見合う男になるため、最近はこっそりトレーニングをしていたのさ。以前程簡単にはバテはせん」

 これぞうは先日警官とやりあった時に自分の体力のなさを感じていた。もしもの時に長期戦にもつれ込むと自分の敗北の可能性は100%に近くなる。加えてみさきの前でゴキブリにビビッたこと。これら二つのことから彼は自分をもっと鍛えなければいけないと想った。というわけでつい最近からちょっと走ったり筋トレしたりしていたのだ。


「は!まだ追いかけてくる。何なのアイツ。気合の入ったナンパ男ね!」

 この時輝美は既に500メートル駆けていた。500メートルを止まらずにダッシュするというのは相当きつい。これだけ走れば諦めて足を止めるヤツだって多いだろう。しかしこれぞうはまだ追いかける。

「ぜぇぜぇ、何て逞しい娘さんなんだ。よく走る。僕が定期券を持っていることを知らないんだな。だが僕は諦めんぞ、これを返すまではな!」

 これぞうは何故か熱くなっていた。


 その日輝美は友人と会うためにちょっと良い飲み屋に行く途中であった。電車に乗るつもりだったが変ななヤツに追われて逃げる内に目的地付近まで来てしまった。

「はぁはぁ、こんなに走ったのは久しぶり。最近はトレーニングをお休みしてたからね。まったく冬なのに汗かいちゃったじゃない」

 輝美は飲み屋近くの裏通りに来ていた。人気の少ない場所である。

「まさか、もういないよね」

 輝美は辺りを見回した。

 すると通りの角を曲がってくる人影があった。これぞうだ。

「はぁ、はぁ、いやいや、マジでどんだけ走るの?現代女子はこんだけ走って普通なのか……」

 なんと輝美が走った距離は5キロ程。これぞうは横っ腹が痛くて仕方なかった。彼がこの距離を止まらず走ったのは人生で初めてかもしれない。体力がないし、足が速い訳でない彼が落とし物を届けるためだけにマジになって駆けたのである。

「はぁ、はぁ、もうだめだぞ。逃げないでくれよ。今の僕では君の足には追いつけない」

「わわっ!嘘でしょ!この距離を付けてくるの!」

「君、いいか。もう動くなよ、でないときっと後悔するからな」

 逃げようにも輝美の方も疲れていたし、無我夢中で逃げん込んだこの通りは先を見ると行き止まりのようだった。

「どうして私の名前を……?」

「は?何、君の名前がどうしたって?」

「だからホラ、輝美って私の名前」

「何を……言って……ぜぇぜぇ」

 これぞうの息はかなり乱れていた。

「僕の言う君ってのは呼称ではなくてだね……あの、二人称として用いる定番の……はぁはぁ」

 これぞうは言いながら一歩ずつ輝美に近づく。

「はぁはぁ、そうかぁ、君の名はキミと言うのか。はは、良い名じゃないか。よく見りゃこれにも書いてらぁ……」

 バタン。

 ここまで言うとこれぞうは輝美の前に倒れた。疲れ切ったのだ。運動不足の物にこの距離はきつかった。

「あ!それ私の定期券!」

 倒れたこれぞうが右手に握っていたのは輝美の定期入れであった。

 ここで輝美は全てに気づく。目の前に倒れる男は気合の入ったナンパ野郎ではなく、落とし物を届けてくれた親切な少年であった。

「ああ、どうしよう~。私ったらてっきりその、勘違いして」

 輝美はこれぞうの前で屈んで声をかけた。

「嘘!この子、気絶してる!」

 これぞうは疲れ切って意識を無くしていた。これまで、これぞうが自宅の布団と学校の机以外で寝ることはまずありえなかった。そこへ来て先月はみさきに意識ごと体を蹴り飛ばされて路上に少しの間寝転ぶことになった。そして今日また新しい例が追加された。逃げる女を追って力尽きて倒れてしまったのだ。

 これぞうは優しくて良い心がけの若者だとは思う。しかしちょっと情けないぞ。 

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