第百三話 来る明日が楽しいものと想えば老いることもまた一興
みさきが帰った後、これぞうはみさきと一緒に楽しんだ食卓の片付けをしていた。これぞうはみさきの使った汁椀や茶碗を台所に運んで洗っていた。
「今日は特別だ。しかしこれが常になると良い」
12月になるとさすがに手には冷たい水道水を扱いながらもこれぞうの体は少し熱くなっていた。愛する女のことを考えていたからだ。
そこへ外食に出かけていた姉と母が帰還した。
「これぞう!」
姉のあかりは玄関から台所まで一直線に走って来ると弟の名を叫んだ。
「何だい姉さん。そんなに大きな声を上げなくてもこの距離で僕が姉さんの声を聞き漏らすものか」
「あんた、先生のおっぱいを揉んだそうじゃない!私はそんなことをさせるためにあんた達を二人きりにさせたんじゃないのよ!」
「な!ちょっと、お母さんがいるじゃないか。大きい声で止してよ。というか何故それを?」
「お父さんよ。現場を見たとテンション高めのメールを送って来たわ。お母さんも知ってる」
これぞうはこの件を父に口止めするつもりでいたが遅かった。みさきを乗せて車で家を出た時、既に父はあかりにメールしていたのだ。
「アウチ!やられた、電脳空間の便利さに遅れを取った!にしてもお父さん、姉さんに言うのが速いよ」
「何を言ってるの!私の弟ともあろう者が、いくら先生が可愛いからって襲うだなんて!自分が生徒という身分を考えなさい!なんて汚らわしいことをしてくれたの!謹慎処分の上に更に罪を重ねようと言うのこの子は」
あかりは怒っている。無理もない。自分の愛する弟が愛した女を大事にしなかった。そう想えばどこの姉だって怒りと失望を覚える。
「ちょっと待ちなよ姉さん。どうせお父さんのことだ。結果だけを言ってその前をすっ飛ばしてるのだろう?」
そう、父のごうぞうは教えてもない高等学問を解いたかと想えば、次の瞬間には多くのアホと同じようなミスもする男であった。彼は学生時代から基本をすっ飛ばして発展系に対応出来るという変わったセンスを持っていた。
「へ?おっぱいを揉む前に何かあったの?」
「ない訳がないだろう。まぁ聞いてよ」
この時姉は弟の胸ぐらを掴んでいたのだが、弟が弁解を始める段になると、彼女は女子にしてはありすぎる握力を徐々に緩めていった。五所瓦家の女は代々身体能力が高い。
これぞうは姉に事の真相を告げた。
「やだ私ったら、かっとなって可愛い弟にこんな乱暴を、はしたないわ」
姉は「てへ(笑)」とでも言わんばかりにあっさりと弟を疑ってかかった件を流した。
「ああ、怖かった……」
これぞうは姉が大好きだが、そんな姉を敵に回すことを考えると心底怖い思いがした。
「しかしねぇ……どっちにせよ今日のあんたはバツよ、それとお父さんもね」
「へ?それはまたどうゆう?」
「ゴキブリよ」
「ひぃ!」とこれぞうは叫ぶ。
ゴキブリはそこにはいない。しかし姉の口からゴキブリと出ただけで彼はビビってしまった。
「それそれ、大の男がゴキブリごときで何よその態度。みさき先生は絶対に情けない男だって想ってるよ」
「うう……実は気にしてたんだそれ。やっぱりそうかな」
「はぁ~あんたと比べてあの先生は逞しすぎるわよね。あんたももっと鍛えないとダメよ?」
「はい……」
ここ五所瓦家ではゴキブリが出現した場合、駆逐に当たるのは女性陣である。逞しい姉あかりと母しずえは、臆することなく鮮やかにゴキブリを処理する。そして父と息子はビビって隅で小さくなるのであった。実に情けない。
「反省しなさい!ゴキブリも退治出来ないような男があんなレベルの高いみさき先生をどうこう出来るわけないでしょ」
「でもお父さんは……」
「お父さんは人生の運を全部使ってお母さんを落としたのよ。あんたにはお父さんみたく運を操る力はないわ。だから反省して鍛えなさい」
「そんな無茶な……」
「ふむふむ無茶と言えば、あんたそこに美味しそうな茶っぱを出してるじゃない。さっきので喉が乾いたからお姉ちゃんにも美味しいのを一杯入れなさい」
「はい、わかったよ姉さん。湯を沸かしたら持っていくから座っててよ」
これぞうはヤカンを火にかけた。
そして所変わってみさきのアパートにはごうぞうの運転する車が到着していた。
「先生、今日は息子がお世話になりました。ありがとうございました。そしてすみません」
「いえいえ、こちらこそ美味しいご飯をごちそうになってしまって」
「今度は僕がいる時に頼みますよ。これぞうだけずるいじゃないですか」
ごうぞうだって男。みさきのような若くて可愛い娘と食卓が囲めるならそれにお供したくもなる。
ごうぞうは先に車を降りると、みさきの座る助手席のドアの外に周る。そしてドアを開けた。
「ささっ、気をつけてお降りください」
「はぁ……」
ごうぞうの意外にして変化球な男子力を見せられたみさきは反応に困る。
「ははっ、我々の若い時分には女性にこれをやれば喜ばれたものですよ」
「はぁ、そうなのですか」
「では先生、今日はこれで。おやすみなさい」
「どうもありがとうございました。おやすみなさい」
挨拶を交わすと父は運転席に戻って車を発進させた。
みさきの姿がバックミラーから消えると父は一息漏らした。
「ふぅ、いやはやこれで安心。先生を無事に届けなかったらこれぞうに何を言われるか分かったものではないからな」
ごうぞうは息子が大事にする女を家に届ける間緊張していた。
「しかし綺麗な人だな。僕には、例え輪廻の輪を巡って次の命を得たとしてもまた一緒になりたいと想っている嫁がいるが……それでもあの先生を横に座らせて狭い空間を二人きりとなれば、ホモでもない限りときめきを覚えずにはいられないだろうなぁ。これぞうはそういった気持ちを抑制しつつもいつだってあの人に近づいているわけかぁ。コイツは考えようによっては茨の道だぞ。あの先生の攻略は容易じゃない。それが今日は分かったよ」
ごうぞうはこれぞうとみさきの関係性について自分なりに分析していた。
「ふふ、しかし我が息子と言ったところだな。険しい山を登るのを選ぶ所なんて僕と一緒じゃないか。さて、可愛い息子の未来は一体どうなるのか。老いるのは嫌だが、老いた先の楽しみはしっかり用意されているようだな。あんな面白い息子を作っておいて良かったよ」
この父は息子が大好きである。そんな息子の将来を色々と想像しながら父は安全運転の下ハンドルを切るのであった。