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第百一話 招かれざる黒き者

「先生、おまたせしました。何だ、先に食べてもらってもよかったのに」

 これぞうはカツ丼には味噌汁、これ定番と想っていたので、台所で沸かした湯が入ったヤカンを持ってきた。

「いえいえ、一緒にいただきますしましょ」

「なんだかな~感激だな~そのセリフ」

 これぞうは即席の家族感、いや夫婦感に酔いしれる。そんな彼が持ってきたのが汁椀と即席味噌汁。

「おっと、湯が冷める。先生、こいつは先生が家に泊まった次の日の朝ごはんにも出したあの即席味噌汁ですよ。ここのは結構美味しいのです。それとこれはこっちで用意したワカメです。こいつは国内のどこかの海で取って乾燥させたものを湯が湧く間に水で戻しておきました。じゃんじゃん入れて飲んでくださいね」

 これぞうは相変わらず準備が良い。

「それではいただきます!」とこれぞうが言うと、みさきも「いただきます」と言った。

 これぞうはカツ丼を味わいながらもみさきを盗み見る。 


 先生は品行方正でどこまでも清く美しき乙女だ。そんな先生の、食べっぷりは粋。先生の歯も舌も動きが早く、女性の割には早食いなんだな。お嬢様みたいな上品な食べ方とまではいかないが、それでも品を留めたままにこの人は米粒一つ残さず綺麗に平らげる。先生から返ってくる僕の弁当箱はいつだって綺麗だ。


 これぞうはみさきの食べっぷり一つを取っても好いていた。彼にとって、みさきは好きになるポイントが多すぎる。愛が渋滞して彼の脳内はやかましいことになっていた。


 これぞうはみさきを盗み見たつもりでいたが、彼の目線がチラチラと向き、そしてキラキラと輝いてもいたのでみさきにはそれがバレていた。みさきは気を遣って「おいしいね」と言った。

「はい、とっても!」これぞうは満面の笑みで返す。幸せが顔から漏れ出ていた。

「五所瓦君ってカツ丼好きよね?」

「はい、とっても!先生の次にですね」とこれぞうはさり気なく愛を伝える。

「へぇ、それって高い順位なのかしら?」みさきはこれぞうにそんなことを言われて恥ずかしい気持ちでいたが、ここで黙ってはいけないと想って強気に返した。

「そりゃ一位ですよ。みさき先生とカツ丼でワンツーフィニッシュです」

「なによそれ、何で私とカツ丼がコンビなの?」

 みさきが笑顔で返すのを見ればこれぞうはカツを頬張りながらときめいてしまった。

「げほっ!」

 ときめいた瞬間喉を詰まらせたこれぞうは味噌汁をガブガブと飲んだ。


 ふぅ、先生ってばやっぱり可愛いなぁ。カツ丼とみさき先生の幸せダブルパンチは喉に来るぜぇ……気をつけよう。


 これぞうはそんなことを想っていた。


「あー美味しかった。ごちそうさま」

「先生、良い緑茶がありますので是非グビーとやって行ってください」と言うとこれぞうは再び台所へと向かう。

 みさきは至り尽くせりでこれぞうに悪い気もしたが、お腹も心も良い気分すぎた。独身女性が賃貸暮らしでカツ丼を食う。これは結構な贅沢でしょっちゅう行えるものではない。それを思わぬ所で頂くことになったのでみさきは大変満足していた。一人暮らしの食事問題は意外と難しい。調子こいて良いものばっかり食ってると、お金は翼を生やして懐から飛び去ってしまう。

 みさきが幸福に浸っていると台所から「うわぉ~!!」という叫びが聞こえた。これぞうの叫びだ。

 生徒の身に何かあったのか、そう想ったみさきはすぐに緊張状態となって立ち上がり部屋を飛び出した。そして台所へ向かう。その様はまさに風、それ程みさきの行動は音もなくスピーディーに行われる。


「どうしたの!何があったの五所瓦君!」

「わぁわぁ、先生!」

 床を這ってこれぞうに向かう黒き影をがある。みさきはそれを視力2越えの両目に捉えた。怯え上がったこれぞうはみさきにしがみつく。

「わぁ!こっちに来るよ先生!」

 この時みさきの頭はフル回転した。みさきはゾーンに入った。みさきには時が止まったように感じた。みさきが片足をひょいと上げると履いていたスリッパが彼女の胸目掛けて飛ぶ。彼女はそれを片手でパシッと掴む。次の瞬間、彼女は自分達に迫る床の黒き影目掛けてスリッパを振り下ろした。台所には気持ちよく「パン」と言う音が響いた。そして時は動き出す。

 これぞうはまだみさきにしがみついていた。

「五所瓦君、いつまで……いえ、どこにしがみついているの?」

 故意ではない。騒ぎに応じておっぱいにタッチする、そんなマナー無きサッカー観戦客のような卑劣にし卑猥な行為が出来る程これぞうの心は濁ってはいない。溺れる者は藁をも掴むのごとく恐怖に追いやられてにっちもさっちもいかなくなった彼がただ安心を得るためだけに手を伸ばして掴んだのが藁ではなくてみさきの腰だった。そして片手は間違いなくおっぱいを掴んでいた。

「……今度は罪として立証できるから、別の意味でまた警察と関わることになるわよ」

 みさきの心は冷静の範囲に留まっていたが、それでも平静を保つには届かない揺ぎがあった。

「わぁ!すいません」これぞうは両手を大きく上げてみさきから離れた。

「わざとではありません!待って、訴えないでくださいよ!あいつのせいですよ」

 これぞうが指差した先にはゴキブリの死体が転がっていた。これぞうがビビり、みさきが退治した黒き影の正体はこいつであった。

「まさか、そんなにゴキブリにビビるとはね。ほら、新聞紙持ってきて」

「はい、ただいま」と言ってこれぞうが台所を出ようとすると、台所の入り口の柱にしがみつく大きな影があった。

「あっ!お父さん!帰ってたんですね」

「わぁ、あいつどうなったの?」

 なんと父、帰って来て今のを入り口で見ていた。この父もゴキブリのが怖いのでデカイ図体ずうたいをしてこうして隠れて震えていたのであった。

 これぞうはとりあえず新聞紙を持って来てきみさきに渡した。みさきは鮮やかに死体を処理した。

「はい、終わりよ。まったく大の男がゴキブリくらいであんな悲鳴あげて……」

「あい、すいません」父ごうぞうは小さくなって謝った。

「いえ、お父さんに言ったのでは……」親子セットでかよとみさきは想った。

「先生……格好良い……」これぞうは惚れ惚れしながら言った。

 自分を襲った悪しき、そしておぞましきクソムシをあのように鮮やかに処理することで自分を助けてくれたみさきは、これぞうにとって騎士ナイトに見えたのだ。

 これぞうよ、格好悪い。それと父も。

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