第百話 煩悩打ち消すには難しいお年頃
もうすっかり大人の先生と、大人にはまだ届かずとも決して子供の領域には留まってはいない現在進化系の僕。この二人を一つ屋根の下の同じ部屋に残して飯に出かけた姉さんとお母さんは、考えるととんでもないことをやったわけだ。しかしこれはチャンス、第百話に来て大きなチャンス。何かが起こる、いや起こして見せよう。勝利の女神が微笑むのを待っていてはいけない。こちらから笑かしに行くのだ。今だけ僕は愛のお笑い芸人だ。
そんなことを考えていたこれぞうは、とりあえす祖父の位牌を安置した仏壇の戸を大きく開いた。
「なぜ今開けるの?」とみさきは問う。
「いえ……別に……」と返したこれぞうだが、これにはちゃんと理由がある。
僕は紳士として育てられた男。そう、男なんだ。しかも恋をしている。そして目の前には僕の愛する美しい女性がいるわけだ。僕は僕の理性を信じたいが、何かの書物には男の理性とはどこまでも疑ってかからないといけないとあった。なぜって男なのだから、その本能は完全に飼い慣らすことは出来ないということらしい。つまり、密室で綺麗な女性といれば、この僕だって道徳的にも法的にもアウトな何かをしかねない。
そこへ来て僕を抑制する存在がここに。そう、お祖父さんだ。こうしてお祖父さんの位牌が見ている、つまりは他人の目があると想えば理性は限りなく強固なものとなる。お祖父さんは僕が社会的に死ぬのをきっと防いでくれる。と言っても、僕が事に及んだらそれより先に僕の8倍強いこの先生に骨でも折られて生物的危機を迎えると思うのだが……あ、そうか、なら安心だ。お祖父さんの目があってもなくても、合意なしに先生に何かすれば、また前みたく意識ごと体を蹴り飛ばされるだろう。じゃあ、ここは閉めてお祖父さんには退場願おう。
これだけのことを5秒くらいで考えたこれぞうは仏壇を閉じた。隙間なく閉じた。
「へへ、急にお祖父さんが懐かしくなりましてちょっと覗いただけですよ。もういいや」
「おかしな人ね」
これぞうが再び机に向かおうとした時、床に置いていた姉のおすすめ漫画を蹴ってしまった。
「あぅち!」これぞう、親指をちょっぴり痛めた。
「あっ、それ。『果物籠』じゃない」
「ああ、先生もご存知でしたか。姉さんが友達に借りたのを僕に貸してくれたのです」
これは世に言う又貸しという行為。本作ではこれを推奨していません。
「わぁ~懐かしいなぁ。私もこれ読んでたのよ。アニメもやってたから見てたわ」と言うとみさきは漫画を手に取ってパラパラとページをめくる。
「これすごく流行ってね、クラスの子も良く話題にしてたの。男の子の中にも読んでる子いたなー」
みさきは懐かしんで漫画を見ている。
「へぇーそうですかぁ……」
これぞうははしゃぐみさきを見つめる。
「そうしてると、まるで少女のようですね」
「へ?」みさきはこれぞうの視線に気づいて顔を上げた。
これぞうはいつだってみさきには好意的。接し方からも好意が滲み出ている。しかし時として、普段のおちゃらけた感じは抜きに、真に胸ときめかせて潤んだ目をみさきに送ることがあった。これは愛しい気持ちがもう一段階強まった時に発生する熱視線なわけだが、みさきも彼との関係を続ける中でその視線の存在には気づいていた。今自分を見るこれぞうの目はいつものとは少し違う。いつも以上にキラキラしているように見えた。これを受けてみさきの方では見られるのが恥ずかしくなってきた。
「なっ、なんですか。教師に向かって、もう大人です……」
「確かに……少女が下げるにしては……いやはや驚異的なものを……」と返すこれぞうの目線は下へと降りて行き、どうやらおっぱいの位置に合っているようだ。
「五所瓦君……どこを見て言ってるの?」
「へっ!」とここでこれぞうはぼぅーとしていたところからパッと目を大きく開く。
「はっは、何でしょう。ぼぅーとしていました」
「……いやらしい」
「かぁ~!」とこれぞう謎の雄叫び。
これにはこれぞうショック。大好きな先生から「いやらしい」の一言をもらった。
みさき程の美しい女であるから、ホモでもなけれな微塵もそういう目で見ないなんてことは不可能。しかし、自分にとって先生は清らかな乙女。ならば、そういう目で見るのは失礼と想っていたのにも関わらずついつい豊満な一物、いや二物抱えし胸部をガン見してしまった。これは一重に煩悩の成した愚行。
僕としたことがなんたる凡ミス。そりゃ手は出さないさ。しかし視姦なんて言葉もある。例え手足が無くとも目の片方だけでもあれば、男は女子を辱めることが出来る。まさに野獣の才。油断した。セクハラってのは手数が多彩だ。直に相手に触れずとも間接的に、しかも知らぬ内に成立することがあり得る。迂闊であった。僕程冷静沈着を売りにして来た男が何だ!第百話でなんたる体たらく。お祖父さんが生きていれば頬に重いのを一撃もらったかもしれない。
これぞうの思考はバリバリ活動していたが、みさきの「いやらしい」の一言を受けてから体の動きは完全に停止していた。その間約30秒。
「ちょっと、どうしたの?五所瓦君」
みさきはこれぞうの肩を叩いた。
ここで玄関のピンポンが鳴った。出前のカツ丼の到着である。ここまで匂いがしていた。と言ってもそれはこれぞうのみしか分かっていなかった。何せ彼、嗅覚がすごいのだから。
「くんくん……来ましたよ。カツ丼だ!」
カツ丼の匂いでショックから回復したこれぞうは急いで玄関へと向かった。
第百話だからって関係なく五所瓦これぞうの恋は彼のペースで歩むのみ。別段大きな何かがあるわけでもない。