第九話 これぞう、恐ろしいぞう
「はぁ~みさき先生~可愛いなぁ~」
この春から過ごすことになった教室での僕の席は、窓際の一番後ろだ。席がこの位置になったのはラッキーだ。なぜって、こうして少しばかり首を左に動かせば、すぐに校庭全体を見回すことが出来るから。今校庭では他学年の生徒が体育の授業を行っていて、毎年春恒例のスポーツテストに精を出している。僕はあれが嫌いなんだな。面倒だしね。
そして校庭で生徒達に指導しているのはみさき先生だった。みさき先生の緑のジャージが素敵だ。体育の授業中には髪をポニテにしている。みさき先生のポニテは反則級に似合っていて、一際僕をときめかせる。
「五所瓦どこを見ている!」
田村先生の怒声が飛び、次には白いチョークが飛んできた。僕は右手を顔の前に持ってきて、中指と人差し指の間でそいつをキャッチしようとした。さしずめ真剣白刃取りのようにね。しかし田村先生の攻撃が速い。僕が手をチョキの形にし、その間をチョークが通過したら挟むつもりでいたのだが、間に合わず、気づくとチョークは僕の額の真ん中に白い点を作っていた。
「ふっ、僕としたことがまだまだ未熟のようだ。田村先生の殺気は校庭に目をやっていても察知できたのに、いかんせん動体視力ってヤツが攻撃に反応しきれない」
外では体育の授業が行われ、僕の教室では田村先生の国語の授業が行われていた。田村先生はあれで元高校球児、守備位置は捕手とのことである。強肩を唸らせて敵チームの盗塁を次々と阻止したことから「大蛇のネズミ取り」と呼ばれていたとか。ランナーをスピード違反者に見立ててストップさせるってことみたい。先程のチョーク投げのコントロールとスピードはその実力の裏付けとして十分なものであった。
授業が終わって休み時間になった。みさき先生に会いに行ける昼休みまでは、退屈な授業をやり過ごし、その他の休み時間は漱石を読んで過ごす。漱石はとっくの昔に死んでいて、僕は会ったこともないのだが、それでも僕の少ない友人の一人として数えられる人物である。自分の人生に「つまらない!」と文句ばかり言って、それこそつまらない日常を送っている暇な若者諸君は、つまらないで元々の人生の新たな刺激として漱石を読むが良かろう、とこの僕からおすすめしておこう。
「おいおい、五所瓦何を読んでいるんだ?」と在校生の一人が僕に声をかけてきた。
そこで僕は「おいおい、そんな君は一体誰なんだい?」と相手の質問に無視を決め込んだ上に、こちらからも新しい質問を返してみた。
「おい、もう学校が始まって2週間が経つし、席も隣なんだから覚えてくれよ。俺は久松よしおだよ」
「ああ、久松君ね。悪いね、人名を覚えるのは苦手なんだ」
ここで久松君は腰を落とし、同時に声のボリュームも落として話を続けた。
「なぁお前、さっき水野先生のこと見てたろ。ていうか、みさき先生可愛いって普通に声に出してたしな」
「ふふっ、聞かれちゃったかい。そりゃよく見てたよ。田村先生には悪いけど、国語の授業よりも僕はあっちに夢中だからね」
「うっ、お前、何かすごいヤツだな。全くひるんでない」
「何をひるむことがある。ローキックをお見舞いされたワケでもあるまい」
「噂通りの変人だなぁ……」
久松君は噂がどうとかワケの分からないことを言った。何だ、変人の噂が広まっているのか?
「でも確かに水野先生は……イケてるよなぁ」
「久松君もファンってわけかい」
「いやいや、先生だし。俺は好きとかじゃないけど、確かに美人ではあるよな」
「君も分かっているじゃないか」
「で、お前何を読んでるんだっけ?」
「ああ、これは漱石さ。僕の好きな作家でねぇ……と、君に説明してもこの本の面白さが伝わりそうもないなぁ」
「それはお前の説明が下手って話かい、それとも俺に問題があるってわけか?」
「うん、そうだね。後者の方だね」
「ふん、お前のその人を素直に舐め腐った感じ、嫌いじゃないぜ」
久松君は結構ノリが良い。
「五所瓦君、ちょっと良い?」
「いや、後にしてもらおう!」
久松くんと僕の談笑に割って入ってくる女子がいたので僕はちょっと手厳しい感じで返した。すると彼女はムッとした顔付きになった。
「いや、五所瓦、それは厳しいだろうが。なんだ、言ってくれよ松野さん」
久松君の話からこの女子は松野という名であるのが分かった。
「五所瓦君、今日は日直でしょ。次の時間までに黒板の文字を消して、それから日誌も書いてよ」
「へぇ、僕は日直で、日直にはそんな仕事があるのか」
「先生が説明したの聞いてなかったの?」
どうやら聞いてなかったらしい。だって思い出せないもの。
「んっ、どこ見てるの?」
松野さんがそう言ったのも仕方ない。僕は彼女の体のある一部分をずっと見ていたのだから。
「うん、その胸だよ。君、色の濃いブラジャーがカッターの上から透けてるぜ。これじゃ目のやり場にこ困ることなくずっとそこを見ちゃうだろ」
「なっ!」と言った松野さんの顔は真っ赤になった。網に乗っける前のカルビみたいにね。昨日の晩食べたんだ。実に美味かった。
「おい、五所瓦そりゃまずいって!」と久松君が耳元で言う。
「やめなよ、耳は感じやすいんだから」久松君が急に弱点を付くものだから僕は不覚にも感じてしまった。
松野さんは何も言わず回れ右すると僕から離れていった。そして、女子が3人固まって座っている中に入って行く。
「どうしたのななこ?」
「泣いてる?何かあったの?」
といった話声が聞こえた。松野さんは下の名前をななこというらしい。
「ふぅ、日直の仕事ね。面倒だけど、まぁクラスのルールだもの、なるたけ守ろうじゃないか」
僕は席を立った。
「お前……色んな意味で恐ろしいヤツだな」と久松君は言った。
何が恐ろしいものか。僕は僕ほど地球に優しい人間を知らない。