死神の温度 虐待された少女の話
虐待が描写されている話になっていますのでご注意下さい。
「あなたは7時19分に亡くなりました」
真っ暗闇な世界で目を覚ますと私と同い年くらいの男の子は胸のポケットから手の中に納まる何かを見ながらそう言った。
「亡くなった?」
私は意味が解らなくて男の子に聞き返した。
「死んだって事です」
男の子はすごく簡単に答えてくれた。
そう言われて、あぁ。私、死んじゃったんだ。
お母さんに虐待されて殺されたんだと当然の事かのように理解した。
お父さん、お母さんと私の3人家族のごく普通の家庭に生まれた。私が小さな頃はお休みになるといろんなところに連れて行ってくれて毎日がお休みならいいのにって私が話すとお父さんもお母さんも笑っていた。ところが、小学校に入った頃からお父さんの帰りは遅くなって、何時帰ってくるの?とお母さんに聞いたら最初は、お仕事には残業というものがあって帰ってくるのが遅くなるのよって優しく教えてくれていたのにそれが段々と何も教えてくれなくなった。
私がいないところでお父さんとお母さんは喧嘩をしていたりお互いに避けていたり会話をしていないみたいだった。それからお母さんの怒りの矛先は段々と私に向かっていき、何か気に入らないことを理由に私に暴力を振るっていった。
殴られるのは痛くて嫌だったけれど、お父さんの帰りが遅いのは私の為だと、私が悪い子だと殴られ、叩かれ蹴られそう言われ続けそれは私が悪い子だからいけないのだと当然の事かのように思っていてそれが当たり前の事かのように受け入れていた。
殴る箇所は決まっていて必ず服で隠れる所。だから帰りがいつも遅いお父さんはもちろんの事、誰一人気が付かなかった。あの時までは。
私は、ランドセルを家に置いてから家から少し離れた公園に行くのが日課になっていた。少しでもお母さんの目の届かない所にいたかった。その公園は結構大きくて遊具も充実していたけれど、私は屋根のある休憩所みたいな所。後で教えてもらったけれど東屋って所で宿題をしたり本を読んだりしていた。図書館の方が雨や風は凌げると思っていて一度行ってみたけれど、息苦しくて何故か駄目だった。
その日、いつもの場所に行くと女の人がいて何か分厚い本を読んでいるみたいだった。お姉さんは私に気が付くとこんにちは。と挨拶をしてくれたから私も返したけれど学校以外で誰かと話すのは久しぶりだったから声が少し裏返ってしまった。でも、お姉さんはそんな私を笑うことなく優しく微笑みキャンディーをくれた。お姉さんは大学に通っていると話してくれた。
先生から知らない人と話しちゃいけませんって言われていたけれど挨拶くらいならいいかとそんなに気にしなかった。
私は友達も少なくて家にいても暴力を振るわれるだけだから辺りが暗くなるまでそこにいた。私たちは特別な話をするわけでもなかったけれどお互いの息遣いやページをめくる音、木々のざわめきや文字を走らせる音、遠くで聞こえるはしゃぐ声、同じ世界にいるのにそこだけ切り取られたかのように2人しかいないように思えた。他の誰かといるのに息苦しく感じることはなかった。
その日、苦手な算数の宿題をしていて中々問題が解けずにいた。
「何年生?」
そう尋ねられて、顔を上げるとお姉さんは分厚い本を閉じて私を見ていた。
「4年生です」
と私が答えると、
「じゃあ、少数と整数の割り算かな。あれ難しいよね」
今、私が解けない所を言い当てた。
「お姉さんも出来なかったんですか?」
「うん。出来なかったよ。どこがわからないの?」
そう言って私の隣に座った。お姉さんからは甘くいい匂いがして私はドキドキした。
お姉さんの教え方は正直、先生の教え方より解りやすく、その事を伝えるとすごく嬉しそうだった。
「ありがとうございます。また教えてくれますか?」
「もちろん。私でよかったらいつでも聞いて」
誰かにこんなに優しくされたのは久しぶりだったから私は涙が出るのをなんとか堪えようとしたけれど上手くいかなくてノートで隠すのに精一杯だった。
お姉さんはそんな私を見て最初は少し驚いたようだったけれど何も言わずにただ黙って手を握り泣き止むまで傍にいてくれた。
私が泣き止んだのは日もすっかりくれた頃でお姉さんに優しくされたのに私は挨拶もそこそこに家に走って帰った、家に帰った私に待っていたのはお母さんの鉄拳だった。玄関を開けた瞬間、お母さんに殴られた。髪の毛を引っ張られ無理矢理、リビングに連れて行かれた。お母さんに長い爪が容赦なく私の肌を傷つけた。
帰りが遅くなったのは確かに自分が悪いのだけれど話すら聞いてくれなかった。その日の夜は、夕食抜きだった。
湯船に浸かると傷口がしみて体を洗う度に痛かった。お風呂から上がって軽く髪の毛を乾かしてリビングにいるお母さんにおやすみなさいと声をかけたけれどやっぱり返事は返ってこなかった。
手提げ鞄から教科書とノートを取り出していつもはやらないけれど復習をすることにした。私の文字の隣にお姉さんの綺麗な文字が並んでいて、そんな些細なことなのに嬉しくなった。
私が落ち着けるのは学校とあの東屋くらいで私の居場所なんてどこにもなかった。お母さんがいるときは体を縮こませている事しか出来なかった。まるでそこに私はいないのだと思わせる事かのように。
「僕は死神です。あなたの願いを一つだけ叶えます。後悔している事とかありますか?」
男の子は私に聞いてきた。
「私の後悔……」
「あ、生き返りたいとかはできませんよ?死んだ人は生き返ったりしません」
男の子は当然の事を言ってきた。いくら子供の私でも死んだ人が生き返らないことくらい知っている。生き返りたいなんて思うはずない。もし、生き返れたとしても待ち受けているのは、お母さんからの暴力という生き地獄だ。
「お母さんに復讐することもできますよ。どうしますか?」
男の子は無表情でそう言った。
お母さんに復讐する。私が受けたこの痛み、哀しみを与える。でも、私が本当に望んでいることなのだろうか。
「それって今すぐに決めなきゃいけないの?」
男の子は胸のポケットから手の平サイズの黒い手帳を取り出しながら、
「死んだ人に時間は関係ないですから今すぐにって訳じゃないですが、僕にも予定というものが早く決めて欲しいというのが本音です」
と言った。
お姉さんが私の異変に気が付いたのは少し経ってからだった。落ちた鉛筆を拾うために屈んだときに脚のアザを見られてしまった。見られてしまったときは背中に汗が伝うのを感じて私は恥ずかしいという気持ちと怒られるんじゃないかという思いが入り交じっていた。でも、お姉さんはそんなわたしをただ、黙って抱きしめてくれた。
「あなたがされているのは虐待で犯罪なの。いけない事なのよ」
「……いけない事」
「気づいてあげられなくてごめんなさいね」
そう言ってくれた時、今までに言葉に出来なかった痛み、思いが溢れてきて私は赤ん坊のように泣いた。私がお母さんにされている事は虐待で犯罪というものでそれはおかしいことなのだという事をお姉さんを教わった。受け入れちゃいけないんだ。私はお姉さんに全部ありのままに話した。お姉さんはじっと私の話を聞いてくれた。話終わると手にしていたハンカチで私の涙を拭いてくれた。気がつくとお姉さんも泣いているようだった。
「そっか。話してくれてありがとう」
お姉さんは私がされている事を通報する事ができるという事も教えてくれた。
「話して、どうなるんですか?遠くに行ったりしませんか?」
私がそう言うとお姉さんはしばらく黙ってしまった。
「絶対じゃないけれど、おじいちゃんおばあちゃんの家に行ったり施設に入ったりとかかな。お父さんがいるならお母さんが家を出ていくだけかな」
なんでお姉さんは詳しいんだろう。大人にとっては知っていて当たり前の事なんだろうか。
その日の帰り道、見慣れた人影に気がついた。その、人影に自然と
「お父さん…」
と呟いていた。そして、体が冷えていくのが分かった。静な冷めた怒り。お父さんはこの人の為にいつも帰りが遅いのか。確かに私はあの人のように可愛くもないから当然なのかもしれないけれど。私は気がつくと踵を返し家とは違う方に走り出していた。さっきまでお姉さんといたあの東屋へと。走り出す前にお父さんと目が合った気がしたけれどたぶん気のせいだ。あの人がいるからお父さんが帰ってくるのが遅くなって、結果、お母さんに暴力を振るわれるんだ。あの人がいるからっ!
涙を拭っても拭っても溢れてくる。全部、誰かに言ってしまいたかった。一人で抱えているのには大きすぎる問題だった。お姉さんはもう帰ってしまったかな。でも、私のこんな顔を見たらきっと心配させてしまう。そう思い私は、引き返して家に帰ることにした。
家に帰るとお母さんは夕ご飯の用意をしていた。さっき歩いている時に感じた匂いは家からだったのか。私がただいまと言っても返事はやっぱり返ってこなかった。
夕ご飯のカレーを口にしようとしたらさっきのお父さんの事を思い出して急に吐き気がした。私はハッとして、お母さんの方を見たらお母さんは私を突き飛ばし何か怒鳴って食器を下げてしまった。
「ごちそうさまでした」
と、それだけ言って私はリビングを後にした。
お母さんのご飯が美味しくなかったわけじゃない。不満があるわけじゃないのに。
お母さんにお父さんが他の女の人と一緒にいたことを言ってしまいたかった。そうすればきっとこんな毎日は終わる。でも、きっと言っても殴られるだけだ。私が見たのは勘違いであの人はお父さんのお友達なんだ。お父さんに聞いてみよう。明日は学校が休みだから少し夜更かししても平気だと思い私は寝たふりをしてお父さんの帰りを待つことにした。
途中、何度も寝そうになったけれど本を読んでなんとか頑張って起きている事が出来た。
時計を見ると夜中の1時をとっくに過ぎていた。しばらくして、玄関の開く音がした。お父さんに聞くために階段を降りて行く。まるでいたずらをするかのように心臓がドキドキしている。
お父さんは台所で水を飲んでいるようだった。
「おかえりなさい」
そう声を掛けたらお父さんはびっくりしたようだった。
「こんな時間まで起きていたのか。お母さんに怒られるぞ」
私はとっさに喉が渇いちゃってと嘘をついた。お父さんに水の入ったコップを手渡され口をつけた。今だ。夕方、お父さんを見かけた事を聞くのはお母さんがいない今しかないと思いカラカラの喉を十分に潤しお父さんに聞いた。
「あのね。夕方、お父さんを見かけたんだけど、一緒にいた女の人は誰?」
とお父さんに聞いてみた。
その瞬間、お父さんは真っ赤になって私の頬を思いっきり殴った。
その音の大きさにお母さんは何事かと飛び込んできた。どうやらお母さんも起きていたらしい。お母さんはお父さんと私の顔を見るとため息をつきただ一言、
「お父さんに謝りなさい」
とだけ言って部屋から出て行った。
お父さんが私の事を怖い顔で睨んでいる。ここには私の味方なんていないんだ。
「ごめんなさい」
私がそう言うとそう言うと、お父さんはもう寝なさいとだけ冷たく言った。
洗面所で自分の顔を見てみると赤く腫れいた。私はタオルを水で濡らし殴られたところを冷やして眠ることにした。
眠りにつきながら私はお姉さんに言われた事を考えていた。
私がされている事を言う。でもお父さんもわたしの私の味方じゃない。話してしまった事でお姉さんと離れてしまうのは嫌だという事ばかり頭の中がいっぱいになってとても寝られる気分ではなかった。
朝、目が覚めると目が開けにくかった。殴られた頬だけじゃなく顔全体が腫れているようだった。今日、公園に行ってお姉さんに会ったら心配させちゃうかな。でも、お姉さんに会いたいな。
リビングに行くとお父さんは日曜日なのに仕事に行ったみたいだった。本当に仕事なんだろうか。仕事と言いつつ、またあの人と会っているんだろうか。用意された朝ごはんを食べながらそんな事を考えていた。お母さんは私がなんでお父さんに殴られたのかなんて聞いてこなかった。どうせ、私の話なんて聞きっこない。朝ごはんを食べ終えてお母さんに出掛けてくる事を伝えた。
鏡を見て前髪を整えながらお姉さんに少し腫れた頬の事を聞かれないようにいつもは結んでいる髪を今日は下ろす事にした。
東屋に着くとまだお姉さんは来ていないようだった。大学に通っていると言っていたしいつもいるわけじゃないか。約束をしていないのに約束を破られたみたいで少し哀しくなった。
宿題の漢字の書き取りをしているとお姉さんがやって来た。
「おはよう」
「おはようございます。どうして笑ってるんですか?もしかして私の顔になんか付いていますか?」
「ん?私が来たら笑顔になったから可愛いなって思っただけ」
私、そんなに嬉しそうだったんだ。たしかに一人ででいるよりもお姉さんといた方が楽しいから嬉しくないわけじゃないけどお姉さんにそう指摘され恥ずかしくなった。
「笑ったりしてごめんね。これ作っていたから遅くなったんだ」
そう言いながら羽ながらの花柄の包みを見せてくれた。その包みからはなんだかいい匂いがしてきてお弁当だと分かった。
「今日、休みだからお昼一緒に食べようかなって」
「私もいいんですか?」
「もちろん。でも、お母さんが作って待っているかな?」
「お母さんも出掛けるって言っていたから平気です」
お母さんはそんな事は言っていなかった。家で会話もなく食べるよりお姉さんと食べた方がよかった。
お姉さんはサンドウィッチを作ってきてくれて、ハムやレタス、トマトが挟まったものや玉ねぎの入ったツナサンド、タマゴサンドどれも美味しかった。
「ごちそうさまでした。とても美味しかったです」
手を合わせて私がそう言うと、
「よかった。また作ってくるね」
「はい!楽しみにしています」
その後は、算数の勉強をしたりお姉さんと他愛のない話をして時間を過ごした。
「もしかして、昨日も叩かれた?」
私は思わずお父さんに殴られた頬を隠した。
「えっと。その、これはお父さんに殴られてしまって……」
「え、お父さんにも暴力を振るわれているの?」
「違うんです。お父さんが女の人と一緒にいた事を聞いたから。これは私がいけないんです」
「そうだったのね。でも、あなたは悪くないわよ」
そう言うとお姉さんは殴られた私の頬を優しく撫でてくれた。
なんで赤の他人のこの人はこんなに優しくしてくれるのに血の繋がったお父さんとお母さんは私にひどく当たるんだろう。
「この間の話なんですけど、私が虐待されているって話を他の人に話したらやっぱり遠くに行かなきゃ駄目ですよね」
「……そうなってしまうかもね」
「お姉さんと離れるのは嫌だな」
「私もそうよ」
私はお昼を食べていないということになっていたから日が暮れる前に名残が惜しいけれど帰る事にした。
「ただいま」
私はそう言いながらおそるおそるドアを開けた。
いつもならお母さんは夕ごはんを作っている頃だけど今日はまだ作っていないようだった。
「お母さん?」
私はソファーに座っているお母さんの顔を覗きこみ聞いた。お母さんはやっぱり黙って何も答えてくれなかった。
その無言が無断でお昼に帰ってこなかったから夕ごはんは抜きだと思い私は部屋に行こうとした瞬間、私はお母さんに肩を思いっきり掴まれ頬をビンタされた。いつもは顔を殴ったりしないのに今回だけは違った。何度も何度も叩かれた。叩かれている時、お母さんがなんで帰ってこなかったのとか余計な手間かけさせるんじゃないとか叫んでいるようだった。私は腕で必死に顔を庇ったけれど引きはがされた。
どれくらい経ったのか分からないけれどお母さんからの暴力はやっと終わり
「もう寝なさい」
とだけ言われた。
「はい。おやすみなさい」
私はそう言ってフラフラになりながらリビングから出て行った。
朝、目覚ましが鳴りいつものように学校に行く準備をする。やっぱり昨日、叩かれた頬が腫れていた。冷やさないでそのままにしていたせいかもしれない。私は昨日の夜ずっと考えていた。お姉さんと離れる事になってしまうけれど、こんな毎日から逃れるにはやっぱり他の人に言うしかないと思う。でも他の人に話す前にお母さんにやめてって言ってみよう。もしかしたらやめてくれるかもしれない。そんな事を考えながらついた。
リビングに行くとお母さんは朝ごはんの用意を終えていて早く食べちゃいなさいと言った。私は流しで食器を洗っているお母さんの隣に立って、
「お母さん。私はもう殴られるのが嫌。やめてくれなきゃお母さんのしている事、警察に言う。お母さんのしている事は犯罪なんだよ。いけない事なんだよ。もうこんな毎日嫌だよ」
と言ったら、
「何を言っているの?これは躾なのよ。あなたが悪い子だからいい子になって欲しいからやっていることなのよ」
お母さんは私にそう言った。
お姉さんはまだ学校で習ってないけれど『躾』って身に美しいって書く事を教えてくれた。お母さんがしている事が躾ならなんでこんなに私の身体は痣だらけなんだろう。全然、きれいじゃない。
しっかりとお母さんの顔を見てもう一度、
「もう私を殴るのはやめてください。お願いします」
と頭を下げた。
「生意気な事を言わないの!一体、誰に吹き込まれたの?!」駄目だ。やっぱり何を言っても分かってもらえない。
「お父さんは他の女の人といるから帰ってこないの私、知っているよ。お母さんがそんな風だから帰ってこないんだよ!悪いのは私だけじゃない。私は悪い子なんかじゃない」
「そんな事、とっくに知って知るわよ。あの人が浮気している事くらいあんたに言われなくても分かっていたわよ。でも、私がどんなに家の事をやっても無関心であんたはあんたで何も知らないで能天気でいて私だってもうんざり」
お母さんは私を睨んで
「あんたさえいなけりゃ」
と言いながら私の首を絞めた。息が出来なくて苦しい。手足をばたつかせ必死にもがきお母さん手を離そうとしたけれど全然、力じゃ敵わない。お母さんに馬乗りになられた私の頬に水が落ちてきた。薄目で見てみるとお母さんは泣いているみたいだった。こんな私でもいなくなるのは哀しいのかな。そんなありもしない事を思ってしまった自分におかしくて笑いそうになった。
「何がそんなにおかしいのよ。あんたまで私をバカにするの?」
そう言いながらさらに首を絞める力が強くなった。
別にお母さんをバカにしたんじゃないよ。私はそんな事一度も思った事ないとお母さんに伝えられたか分からない。
「もう一度聞きます。あなたの叶えたい願い事はなんですか?」
私は目を閉じて考えた。私の叶えたい願い事。今までの事が思い出される。
お父さんの事、お母さんの事、クラスメイトの事。そして、お姉さんの事。やっばり、私の願いはこれしかない。
「お姉さんから私の記憶を消してほしい」
私はそう死神の男の子に言った。
「本当にいいんですか?両親に復讐する事だって出来るんですよ」
やっぱり、男の子は私の願い事に無表情に聞いた。
一つしかない願い事を他人に使う人はいないと子供の私でも思う。でも、私の願いは変わらない。
「うん。お姉さんとの思い出はちゃんとここにあるから。それよりもお姉さんが私の事で哀しい思いをする事の方が嫌だ」
お姉さんが私の事を忘れるのは哀しい事だけど私はちゃんとお姉さんの事を覚えている。
お姉さんと話した事や教えてもらった事。2人で食べたサンドウィッチ。今度は作り方を教えてもらい一緒に食べたかったけれど娘のこの願い事は叶えてもらえそうにないみたい。
「分かりました。その願い叶えましょう」
と男の子は丁寧にお辞儀をした。その声を聞いた瞬間、私の意識は途絶えた――――――――。
カーテンから射し込む陽ざしに私は目を覚ました。目を擦ると、目の端がかすかに濡れている事に気が付いた。
「あれ?私、何で泣いているんだろう」
伸びをしてカーテンを開けた。いい天気だ。今日は大学に行ってみようかな。そんなことを考えていた。
私はしばらく、大学をサボっていた。将来の夢に行き詰まり現実逃避に公園の東屋で本を読んだりしていた。あれ?誰かと一緒だった気もするけれど誰だったかな。大学に行くだけだから特に近所に知っている人はいないと思うけれど。なぜだか急に涙か溢れだしてきた。
何か忘れちゃいけない大事な事を忘れているような錯覚に陥る。私は何を忘れてしまったんだろう。大切な記憶だったように思える。
身支度を済ませお昼ごはんのサンドウィッチを作る。大好きなツナサンドは玉ねぎ入り。それとハムとレタスとトマトの入ったものを手早く作る。それを花柄の布で包む。
大学へ向かう途中、とある一軒の前に人だかりがあった。何人かの警官と救急隊員が慌ただしそうにしている。この家の住人だろうか、女性が手首の辺りに布を掛けられパトカーに乗せられていく。
通りすぎようとした時に近所の噂好きそうなおばさんたちの話し声が聞こえてきた。
「―――ちゃん。虐待されていたそうよ。あんなにいい子だったのに可哀想に」
近所付き合いのない私はどんな女の子か分からないが、近所の人の話ではとてもいい子だったようだ。心の中で私はその知らない女の子に手を合わせた。
そして。私は一度、諦めそうになった教師の夢を叶えるために大学へと急いだ。