(文学)悦子の明日
文学風の話です。
今年で三十になる悦子は、女学校で音楽教師をしている。
いつも生徒に厳しかった悦子は、いきおくれだの年増だのと陰口をたたかれていた。
悦子はそんなことなど気にもせず、始終にらみをきかせている。
音楽部に在籍している女生徒がいた。
彼女は音楽の才能に秀でており、曲を聴いただけで空に五線譜を引くことができた。
いつか音楽で身を立てるのだと、日頃から自慢げに話していた。
しかし悦子の態度は変わらない。才能だけで通用するほど音楽の世界は甘くない。
悦子自身、身に響くほどの過去があった。音楽で世間という舞台に立てたらと、つのる思いに心を焦がしたこともある。
でも諦めた。
諦めるしかなかった。
病床の父が頭をかすめる。
父ひとり子ひとりで、ほかに頼る身寄りもない。
縁談がきてもすべて断わった。
――この男は父を見放すだろう。
――この男の甲斐性ではいずれ野に放り出される。
そんな男たちばかりをみてきた。
自分が稼がなくては、自分が世話をしなければ誰が父を支えるのか。
ぎりと唇を噛む。
心地よい音色で明日は照らせても、一年後が闇色に染まっていた。安心した未来を語れる音楽家がどれだけいるというのか。
膨大な砂塵の砂丘において音楽家になれるのは、一握りしてこぼし、わずか掌中に残った砂粒たちだけだ。
悦子は才気あふれる女生徒の未来を、思わずにはいられない。
普通に結婚し、普通に子どもをもうけ、普通に暮らしていくことがどれほど容易で、どれほど幸せなことか。それが彼女たちの歳ではわからないのだ。
どれほど説こうとも身を硬くした過去がなければ、解きほぐすことさえできない。
一年後、悦子は教職を辞していた。
原因の発端は例の女生徒だった。
学校の催した音楽発表会にて違う曲を弾かれたのだ。
余興のひとつなのかと、誰もが微笑えんでいたはずだった。
悦子が取り乱さなければ。
二小節をすぎたところで我に返った悦子は、急に立ち上がったのがいけなかった。目の前が真っ暗になり、そのまま倒れこんだ。
体をしたたかに打ちつけ、苦悶の表情を浮かべる悦子に、事情を知っている生徒がほくそえむ。
なにごとかと周りの父兄に支えられ、ようやくベッドに寝かされたときにはすべてが終わっていた。
事情を聞いた教師たちは悦子の管理能力を問うた。悦子に不快を抱いてた生徒たちの吹聴する噂も、ここぞとばかりに拍車をかけた。
上からのほのめかしは絶対だった。
悦子は病床の父を前に無言の問いを繰り返す。
無機質な呼吸を繰り返す父からは、明日が見えなかった。