96.勉強は嫌いではないのです。
「ううう」
私の目の前で、我が城の侍女が呻いております。イザベラです。
テーブルに乗り上げるように突っ伏して亜麻色の髪を振り乱し、その長い髪がテーブルをのたうつさまは、ちょっと怖いようですね。指先でテーブルに爪を立てているのですが、黒檀の机はむろん、人のうら若き女性の爪と力では傷ひとつ付きません。
そんな彼女を、隣の席に座るエリが、すこしばかり呆れた顔で見つめているのですが、声をかけたりはしていません。先ほどからずっとこうですからね。
別にイザベラは具合が悪いわけではなく、少々……いや、かなりのところ、頭を痛めているだけのです。
主に、学力的な問題で。
「……さすがに、いきなり医科学科に転向は無謀過ぎましたね」
答案を手に難しい顔をするラナ先生のお言葉にも、イザベラはうんともすんとも反応を返せませんでした。
図書室の本の森に埋もれるようにして、その勉強スペースはありました。表面が鏡のように磨かれた黒檀のテーブルに、ラナ先生と私が並んで座り、向こう側にエリとイザベラが座っています。学習用のためか、アマデウス城にあっては珍しい、小さめのテーブルですね。
先生の背面にあるサイドボードにはびっしりと書き込まれており、これをノートにまとめるのも大変だなあと、私は暢気にも思ったのです。
「編入者には特別枠があって、入学や編入試験の際にも優遇措置が取られていますけれど。でも最低ラインというものもありますし、これはちょっとさすがに誤魔化せませんよね……」
ねえ? とこちらを向く先生に苦笑いを返して、私はそっとはす向かいのイザベラに話しかけます。
「ですがどうしていきなり、こんな難関な学部に入ろうと思ったのですか?」
私の言葉に答えようと言うのか、イザベラはよろよろと手をついて上体を起こしました。髪が相変わらず振り乱されていて大変なことになっておりましたが、エリが手を伸ばして整えてやっておりました。
……イザベラはアマデウス城の侍女として働いておりますが、メフィスト学園への入学を希望しておりました。
そのためにエリと一緒に、ラナ先生に付いて勉強していたのです。ラナ先生の都合がつかない場合は、スーもよく面倒をみてやっていたようですね。
ふたりはかなり懸命に、ずっと勉強をし続けて来たのです。
ある程度の読み書きと計算しかできなかったイザベラたちですが、元々頭が良かったのでしょうし、ラナ先生の教えも上手ということもあって、めきめき学力をつけておりました。学園の普通科への編入であればさほど問題はない程度になっていたのですが、何とイザベラは学園でも最高難度の、医学部への中途編入試験を受けようとしたのです。
さすがにそこは難易度が跳ね上がりますし、小さな頃から勉強をして来た者であっても、簡単ではありません。
ですがイザベラたっての希望ともあって、過去の試験集からいくつか先生が選んで、疑似テストを行ったのですが……。
結果はイザベラ自身が頭を抱えたくなるものだったようです。
むろん時間をかけてゆっくりと学力をつけ、準備を進めれば問題ではありません。医学部を希望する者には、そういった人も多いですしね。
けれどそうすると、二十代後半や三十代前半、それ以降の年齢になってもおかしくありません。
勉学だけが目的であるイザベラにとっては、それはちょっといただけないでしょうね。
……ここアマデウス領には、義務教育というものがあります。
人の子どもはみんな一定の年齢から三年間は、必ずどこかの学び舎で勉学し、修了証書を受け取らなければなりません。それは認可を受けた私塾のような場所から、それこそメフィスト学園のような領内から多くの人が目指すものまで、さまざまです。
ですが、それはアマデウスに限った制度。極夜の国は広いですし、中には人が勉学する余地すらない場所さえあります。
そのために編入者支援制度というものがありまして、一定期間にある程度の学力をつける為に、さまざまな支援を受けられるのです。塾や先生についてもらう費用なり、遠くの学校へ入るための入寮の優先であったりですね。これは生活費の他に追加で与えられる権利です。
他の領地はわかりませんが、ここアマデウスは政に人間が関わっておりますので、読み書きと計算の他、常識や法についても出来るだけ深く知っておかねばなりません。人に無知でいてもらっては困るのです。
なので、ここでは義務教育の他の勉学についても推奨されています。そこに分け隔てはありません。
さまざまな優遇措置もありますし、イザベラも普通科への編入であれば、まったく問題はないレベルに到達していたのですが……。
「……だ、だって、せっかくあの華々しい学校に入れるんですし、ならもっと上を目指したいなあ、なんて……」
口ごもりながら視線を余所に彷徨わせるイザベラは、何やら他に思惑がありそうです。
「えっと、それは素晴らしい向上心ですけれど、これだとたとえ領主権限で無理矢理編入しても、後が厳しいですね。それにユリウスはもう、初等部に入って楽しそうにやっていますよ? 学園に慣れるかどうかもわかりませんし、まず普通科へ編入して、そちらで力をつけてから、学部移動を狙った方が良いのでは」
私の言葉に、イザベラはぐっと息をつめて、またも俯いてしまいました。
イザベラたちは人の国で、学校や塾に通ったことがないそうです。かつての私もそうでしたが、貧しい国ではそれも当り前で、文字を書くことすら覚えないまま生涯を終える人も珍しくありません。ある程度富んだ国でも、学校に通えるのは富裕層や貴族階級ばかりで、平民には学ぶ機会がなかなか与えられていないのです。
よって学園での集団生活にも慣れておりません。そこに上手く馴染んでやっていくのは、なかなか大変なのです。
就学が初等部から勧められるのも、当然かもしれませんね。小さな子どもの順応性や生活力は馬鹿に出来ません。大人が敵わない、子どもの優れた“力”ですね。何かを学び始めるのも、若いうちからのほうがずいぶんやりやすいようですし。
けれどもちろん、年齢がいくつであっても好きに学園に入学出来ます。医学部のような難易度の高い学科では、年配の人も多いそうですし。
それにアマデウスでも、学園の制度が整ったのは八年前程度です。
メフィスト学園の医学部は六年で修了ですから、卒業した者もまだ二回生程度と少ないですし、その人たちもまだ研修などをしているのかもしれませんね。元々は独学や家庭医学の知識で医師をしていた人たちに付いて、一緒に治療に当たっているのでしょう。
とにかく、医学部は難易度も高く入学も卒業も大変で、多くの時間が必要になります。卒業後も忙しいでしょう。学園卒の正式な医師はまだまだ少ないですから、あちこちで引っ張りだこになりそうです。
その分、メフィスト学園卒の医師たちは尊敬され、収入もかなり良いはずです。アマデウスでも上位の富裕層となるでしょうね。
……ちなみにアマデウス領民の医療費は、いかなる分野でも全額無料です。医学関係者の給料や、その他の設備・備品・薬品など、かかる費用はすべて税金で賄われます。
なので医学部は、上を目指すにはたしかにあり得る選択肢ですが、今から転換するとなるとものすごく大変なはずなのです。
「だから言ったじゃない、イザベラ。わたしたちの頭じゃ、せいぜい家庭科学学科が関の山よ。それでだって、数学がものすごく難しいし……理系っていうの? そういうのは諦めた方がいいわよ」
「ううう」
エリの呆れつつ慰める声とイザベラの呻き声に、私は首をかしげました。
「それにしても、なぜ急に方向転換を? イザベラは勉学もそうですが、何より学園生活を楽しみにしていましたよね?」
「それがね……」
エリははあと大きく息をついて、仕方のない子だと言うようにイザベラを見つめました。
「……どうせなら将来有望な男の人をとっ捕まえたいから、働き者でお金持ちが多そうな医学部に行きたいんだって」
「うわあ」
これはラナ先生です。らしくないちょっと不躾な態度と声にびっくりしましたが、私もだいたい同じような気分です。
先生はイザベラの答案とイザベラ自身を交互に見つめてから、大きく肩を落としました。
「いえ、失礼しました。向上心も自尊心も執着心も、そのパワーは勉学に必須ですしね。その何が何でも上に行ってやるという気概は買いましょう。けれどね」
ラナ先生はそっと答案をテーブルに乗せました。ちょっと悲惨な点数が出ておりますが、私なら答えられるかと問われても、無言のまま一歩下がるより他ありませんので、大人しくしておきます。
……そういえば私も無学なのですよね。領民に学べと強制しておきながらこれで、果たして良いのでしょうか。
ラナ先生はそっとイザベラの頭を撫でてやりながら、にっこり笑いました。
「……学力試験の結果は、嘘を言いません。いくら編入者への優遇制度があっても、学力だけは誤魔化せません。一定の水準……点数に届かなければ、問答無用で弾かれます。そういう明確な世界なのですよ」
「うう……はい、わかってます……」
しおしおとイザベラが頭を下げたので、ラナ先生は語気を弱めました。
「……まあ、やる気があるのは良いことです。それにあなたはそこそこ見所があるようですし。ここまでの短期間でこれだけ力をつけるなんて、相当すごいですよ。どうせならこのまま、天辺を目指すのも楽しそうです」
「せ、せんせえ……」
イザベラがうるうるとした目で手を伸ばし、それをラナ先生がはっしと掴んでおります。師弟の熱い場面ですね。
それをいつの間にか側に来ていたスーが眺めていて、やれやれと言うように肩を竦めて首を振りました。
……何だかスーが、以前より人前でよく感情を外に出すようになって来たと思うのですが、気のせいでしょうか。いえ、良いことだと思いますけれど。
師匠と弟子が彼女たちだけの世界に入ってしまったので、私は手持無沙汰にエリやイザベラの答案を眺めました。はじめは文字を書くことすら怪しかったのが、めきめきと力をつけてゆくのが目に見えてわかります。すごいですね。
と、エリが手を伸ばして自分の答案を持って行ってしまいました。見るとすこし顔を赤くして、怒ったように頬をふくらませております。
「は、恥ずかしいから見ないでよ。あんたは勉強できるんだから、こんなの見てもつまらないでしょ?」
「いえ、楽しいです。それに私、勉強できませんよ? 学校どころか私塾にすら通ったことがありませんし」
私の言葉に、エリは不思議そうに首をかしげました。
「あれ、そうだったっけ。領主やってる貴族なのに……。そういえば前に、誰かに読み書きを教わったって聞いたわね」
「はい。学園生活もしたことがありません。なのでイザベラの気持ちもすこしわかるのですよね」
「……わたしがいるんだから、他にいい人を見つける必要なんてないわよね?」
「も、もちろんです! 勉強とか、学園での集団生活のほうが気になるのです。なのでつねらないでください」
にっこりと笑いながら手を離すエリに、私はつねられた手の甲を撫でながら、ほっと息をつきました。
イザベラは学園で出会う人たちに大きく興味を抱いているようですが、もちろん学園は学ぶための場所であり、機関です。定期的に行われる学力試験や単位修得試験に合格しなければ、在学すら危ぶまれます。
学生は学生としての品位も重要で、学園での生活態度も常に測られますが、まずそれらが一番の指針ですからね。
学園にはそれぞれの学部を修了するために、一定数以上の単位を修得する必要があります。これは試験や実技、あるいは論文提出などで計られ、教師が裁定を下します。修了に足らないとされれば追加期間を設けられ、再試験や再提出が必要となります。
それすら間に合わなかったら、留年という形で学科や学部に留め置かれます。
そして三年間、一定の単位を修得できなければ学園から除籍となる、厳しい世界なのです。
また、結果がが足りない際の留年に対して、成績優秀者には飛び級という制度もあります。留年は一年区切りですが、飛び級はその限りがありません。結果が優秀であればあるだけ、単位を修得出来たら出来ただけ、どんどん上に駒を進められます。
なので歳若くして、修士院まで修了する猛者もいたりします。たしか最年少は十三歳の、どこぞの子息だった覚えがあります。すごいですね。
と、視線を感じて振り向くと、ラナ先生とイザベラがじっと私を見つめておりました。
……何でしょう、ちょっと目つきが怖いです。
「領主様は領主なのに、学ばれた経験がないのですか……」
「え、ええ。元々は人間で、それも日々の暮らしに追われる貧困層でしたから……」
嫌な予感を覚えながらもうなずくと、ラナ先生は何かを考えながら、大きく首を縦に振りました。
「そういえば、ウォステンホルムでもそうでした。私たち家族は比較的お金があるほうでしたから、貴族院の庶民が所属する学部に入れましたけれど。ですが貧しい者はずっと貧しいまま、何をする機会も与えられない場所でした。人の国もそうなんですね?」
「そうですねえ、あたしたちの町もそんな感じでした。お兄ちゃんもあたしも、町の寺子屋にちょっとだけ通って、あとはお婆ちゃんにいろいろ教わったくらいですし」
「私はある方に教わったのと、あとは全部独学ですね……」
ラナ先生とイザベラのしみじみとした会話にうなずき、私は“隣のおじさん”に思いを馳せ、感謝しました。
彼がいなければ私はまともに文字を書くことも学ぶことも出来ず、仕事にもありつけなかったでしょうね。教養がなくてもある程度は出来る、日雇いの力仕事は虚弱体質の私にはとても勤まらなかったでしょうし。
……貧しい家庭に生まれ、賢い頭も健康な体すら持たず、お荷物となっていたあの日々。
あのまま家族の足を引っ張り続けていたら、きっと私は途中で死にたくなったことでしょう。もっとも、そう長生きもできなかったでしょうが。
私もしみじみしていると、不意にラナ先生が私の肩を叩きました。
見ればエリたちの試験問題を手に、私ににっこりと微笑みかけております。
「……何ですか?」
「領主様。領主様も学力テストを受けて見ませんか? せっかくの機会ですし」
何故かわくわくとしたその声に、私はつと額に汗が流れるのを感じておりました。
先ほどイザベラに、医学部は無理だろうと偉そうにのたまってしまったのが悔やまれます。私が解答しても酷い結果にしかならないでしょうし、ここは是非逃げたかったのですが……。
「あ、それいいわね。わたしもアベルがどのくらい勉強出来るのか知りたい」
「……そうですねえ。旦那様も元は学がなかったっておっしゃってましたけど、今は立派に領主をなさってますし。吸血鬼になると頭も良くなるんですか? あたし、気になります!」
「領主様であられるのに、今までに学ぶ機会が与えられていなかっただなんて……悲劇です。今だけ、ここだけでも学生気分になるのも悪くないのでは」
……イザベラとラナ先生、ちょっといやらしい笑みを浮かべていません?
気になりましたが、みなさんはどうやら逃がしてはくれないようです。先生とイザベラは迫力ある笑顔を浮かべるばかりですし、エリも興味深そうに私を見るだけです。
女性三人に囲まれて進退極まった私は、冷や汗を流しつつも、恐る恐る試験用紙を手に取ったのでした。




