86.馬鹿と天才は紙一重と申します。
「いやー、人と吸血鬼と話すなんて何年ぶりかな? 何十年? 何百年? ま、些細なことだけど!」
さすがに海パン一枚は拙いと思ったのか、始祖パオレは一枚のうすいジャケットを肌の上に羽織ると、にこにこしながら私たちに席を勧めてくれました。
よくよく見ると滝壷の一角にごく小さなテントが張ってあり、私とエリはその中に招かれたのです。
不思議空間の中にあったテントの中は、やはり同じく不思議空間でした。
どこぞのログハウスのような室内に通じていて、煉瓦の暖炉と重厚な木製の机と椅子、こ洒落たランタンの照明までありました。それを認めながら視線を横にずらすと、何故か巨大な熊の木彫り像が置いてあります。美術品でしょうか。
……ここで不思議をいちいち取り上げていたら、いつまで経っても終わりませんね。
私は気を取り直して、始祖パオレに向き直りました。
「始祖よ。偉大なる我が血族の――」
「あ、堅っ苦しい挨拶はいいからいいから。ねね、君。血のお菓子って食べられる?」
「え、えっと……」
「あ、そういえばクッキーもあるよ! え? 食べられないのに何であるのかって? ふふ、秘密ー!」
私のかしこまった挨拶は放り投げられ、始祖はあくまでも軽く明るく、エリにもお菓子を勧めてくれます。
エリも戸惑ってはいるようですが、悪い人では……たぶんないと思ったのか、おずおずと歓待を受けておりました。
「あ、でも名前だけ教えてよ。僕はパオレ! そのまんま呼んで!」
「……あ、わ、わたしはエリーゼです。姓はないです」
「エリ―ゼちゃんね! よろしく! 僕の孫ちゃんは? 君ってずいぶん若いよね?」
「……私はアベル・アーサー・アマデウスです。吸血鬼となって十年ほどで……」
「やっぱアマデウスの子か! そんで十歳か、わっかいなあ! 僕もそれくらいの歳はどうしてたかな! 覚えてないや!」
いまだかつてない軽々しい挨拶にも、始祖は頓着いたしません。よほど親しみやすいお方なのでしょう。
……そういう方向で認識して行こうと思います。
茶菓子について熱く語り出した始祖と、それに戸惑いながら受け答えするエリを横目に、私は混乱する頭を整理しておりました。
……始祖パオレ。
吸血鬼の真祖の眷属にして、六血族の一。カラスの血族が長である大吸血鬼。大公が祖。
クリス曰く、希代の芸術家にして発明家。解剖学や医学、その他諸々の学問に造詣が深い賢者。類稀なる変人。
私を吸血鬼にしたミラーカの祖。
……私が彼について知っているのはこのくらいですが、特に最後からふたつ目、大丈夫でしょうか。
心配になって来ましたが、かの方からは特に邪気も邪念も感じられず、嬉しそうに私たちの相手をするばかりです。
今もグラスにざくろ酒というお酒を注いでくれ、勧めてくれています。私は押されるがままにそれを受け取り、エリもお茶を入れてもらって、始祖を交えた三人で乾杯までしたのでした。
……始祖パオレ、押しが強いですね。
乾杯をしてなおも、始祖は上機嫌であれこれしゃべりながら、時には私たちの返事も待たずに自分で受け答えしています。
……どうやらおひとりで住んでいたようですが、ひとり暮らしが長いのでしょうか。
尊い地位にいらっしゃる方だというのに、お連れの方も護衛の方も、ひとりもいらっしゃらないのでしょうか。
始祖と言えば吸血鬼の中でも、真祖に次ぐ次席の者。世界に六しかない位に着く、尊い方々です。
私が今まで出会った最高位の吸血鬼、フランチェスカ大公閣下の祖であるのです。あの楚々とした貴婦人の“親”なのです。
……そんな始祖パオレが、何故こんなにもこんななのでしょうね。
私は考え過ぎて頭が痛くなってきましたが、エリはどうやら慣れて来たらしく、楽しそうに始祖とおしゃべりし出しました。始祖もことのほか嬉しそうです。
とにかく、こちらから口を挟む隙もなかなか見つかりませんし、かの方が気が済むまで待つことにしましょう。
そう思って私も会話に混じり、相槌を打ったり打たれたりしました。
……始祖パオレがこちらの話を聞いてくれたのは、ずいぶん時間が経った後でした。
「あーそうか。僕の残した“鍵”で入って来たんだ」
多少落ち着かれたのか、最初の頃のハイテンションよりはだいぶ静かになられて、始祖パオレは私の言葉にうなずきました。
私とエリがここに来てしまった経緯を話したのですが、始祖の話と比べると、あまりにあっさりと終わってしまいました。
……まあ、本で手を切って、気づいたらここにいて、歩いていたら始祖とお会いした。それだけですしね。
それだけを伝えるのにどっと時間と精神を使ってしまったのですが、始祖はそれにも頓着せず、うんうんとうなずくばかりです。
「いやー、他にも鍵を作ったんだけど、どっかに行っちゃってさ。ほら、僕ってあんまり出たがらないから、必要もないのにわざわざ探すのも面倒臭くて。だからずっと引きこもってたんだよ」
「それは……もしや始祖パオレ、この空間から人は出られないなんてことは」
思わず焦った声をあげてしまいましたが、始祖はぱたぱたと気楽に手を振ってくれます。
「あ、だいじょうぶだいじょうぶ。ちゃんと非常口はあるからね。あとで案内してあげるよ」
その言葉に、ひとまずほっと息をつき、エリに笑いかけました。エリもすこしばかり疲れた表情で、笑い返してくれます。
ええ、きちんとお相手するとだいぶ疲れるお方ですからね。パオレを前にすると、始祖への敬意もどっかに行ってしまいましたし。
まあ、気の置けない雰囲気でいられるというのは、ふつうは楽なはずですが……。
始祖パオレからは、ローラやクリス、あるいはプリムローズやフランチェスカ大公といった、大吸血鬼の威圧感を感じません。
数十万という、私ごときでは想像しにくいほどの歳を経た吸血鬼なのですから、たとえカラスのものと言えど、ものすごくお強いはずです。それをまったく感じさせません。
それは強さを隠されている、と言うことなのだと思うのですが、そう思っても警戒感を抱かせない、不思議なお方であらせられるようです。
……まあ、単に変人だから、で片づけられそうですけれど。
そして始祖パオレは、私たちのようすや態度など、まったく歯牙にもかけずにしゃべり倒しておりました。
「ここはご真祖の為に作った空間のひとつなんだけど、余計なのは要らないって言われちゃってさ。まあ全部作りものだし、気に食わなかったんだろうね。遊び場としては十分だから、僕はいろいろ持ち込んで実験とか執筆とか作画してたんだけど。うっかり外の時間を忘れちゃってねー。いやー、たまには外のようすも窺った方がいいってわかってるんだけど、ついついね。僕の系譜も少ないし、友達もいなくってさ。すっかり製作や実験に打ち込んでたら、あっという間に何千年って経っちゃうし。いや、ほんと楽しいんだよ。僕の作品を見て見る? あ、それとこっちの熊は、僕が掘ったんじゃなくて――」
始祖の言葉を受けて、部屋の隅に視線を向けます。
ここはどうやら居間のようで、存在感のある熊の木彫りの他に、それらしい芸術品の類はありません。
ただ、ログハウス風の部屋の奥にある扉は、やはり異空間に繋がっているらしく、アマデウス城の宝物庫じみた風景が、ちらりと見えました。
……ここも魔窟ですね。うっかり足を踏み入れるとまた遭難しそうですから、気をつけましょう。
エリに目配せしておいて、私は口を開きます。
「始祖パオレ。ここはアマデウスの城へも繋がっているのですか?」
「そうだよー。他にも極夜の有名どころは全部。あとは世界の端っこと、月の裏側とかね。他にもたくさんあるよー」
始祖パオレはにこにこ笑いながら説明してくれましたが、私はすこしうんざりしておりました。
有名どころ全部とか世界の端とか、どうしろというのでしょう。観光には最適かもしれませんが、把握があり得ないほど大変です。
……まあこっそり、エリとお出かけするときに使わせてもらいましょうか。全部を把握するのと、封印が死ぬほど大変そうですが。
「……今現在、城のその区域は封印されておりまして。始祖パオレはそこの設計図などをお持ちですか?」
「あーそうなんだ。若い子には危ないもんね。うん、地図があるよー。たしかに参考資料は大事だったね、うっかりしてた。写しがご入り用かな?」
「はい。複写をしたいので、できればお貸し願いたいのですが」
「じゃ、ここでぱぱっとやっちゃおうか」
パオレはあっさりと承諾していただけたばかりか、目の前で文字どおり複写機のように、精密な製図を書き上げてもいただけました。
多方面に才能を発揮した、というのはほんとうなのですね。変わったお方ではあるようですが、恐ろしく詳しくわかりやすいその図面を眺めながら、私はしみじみと感じておりました。
禁域の各所に最適な封印の術式まで教えてもらい、これであの場所の管理も、ぐっと楽になったでしょう。
ここから脱出する方法がわかり、城の禁域の把握もできそうです。私はほっと息をつき、そして外の景色が薄暗くなっていることに気づきました。
ずいぶんと長い間、居座ってしまったようです。
始祖パオレと出会えたことは、思うところもありますが、なかなかにない僥倖でした。それを思えば、他にもいろいろと彼にたずねたいこともあったのですが、今はいけません。
ここに来る前も、向こうは夜中……就寝前だったのに、それからさらに半日ほども過ぎています。エリがやや疲れた顔で、そして眠そうでしたので、早めにお暇させていただきましょう。
「始祖パオレ。私たちはそろそろ――」
「あ、今日は泊って行ってよ! ほんとうに久しぶりの客人だし、僕ももっともてなしたいしさ! おしゃべりもしたい! 部屋なんて腐るほど余ってるから、好きに使っちゃっていいよ!」
私の言いかけた言葉は始祖に遮られ、そして彼はてきぱきと率先して動いて、私たちの寝床を用意してくれたのでした。
「んじゃ、明日起こしに来るからさ! エリーゼちゃん用の朝ごはんも用意するから期待しててよ! それじゃあおやすみ!」
部屋に案内してあれよあれよという間に、始祖は挨拶を残して扉をぱたんと閉めました。
……嵐のような方ですね、ほんとうに。
私は思わずエリと顔を見合わせましたが、彼女はやはり瞼が重そうで、今日のところはとっとと休むことにしました。
ここがごくごくふつうの寝室であることに異様にほっとしながら、寝る支度を整えます。これもまた一般的な夜着も用意してあって、あの奇人っぷりは何だったのだろうと思うほどです。
着替えてベッドに横になると、エリは心底疲れ切っていたのか、倒れるようにして寝転がりました。
私は彼女を抱き寄せて、毛布を手繰り寄せます。そしてエリをぎゅっと抱きすくめますと、久しぶりのその温かさと柔らかさ、匂いにとても安心できたのでした。
エリはだいぶ睡魔に負けているのか、恥ずかしがったり、可愛らしいささやかな抵抗もしません。私は久しぶりに思うぞんぶん、エリを堪能したのです。
「……こうして、抱き合うのも久しぶりですね」
「ん。……ごめんね、わたし、ちょっと悩んでて……」
眠そうなエリの声がひどく甘くて、私は内心悶えながら、その額に口付けました。
「……眠いですよね。お話はまた明日、ゆっくりと。今日のところは、おやすみなさい」
「うん……おやすみ」
そう呟くと、エリはあっさりと夢の世界に旅立ったようでした。
私も存外疲れていたのですが、エリのおかげで目が冴えてしまいましたね、いけません。落ち着かねば。
そっとエリを抱き直して、その豊満な赤い髪に顔を埋めます。エリの髪はすごく艶やかで滑らかで、気持ち良いのです。
……何だかとんでもないことの連続があった気がしましたが、エリといつもどおりに接することができて、それが私には何よりの薬でした。多少疲れたのは事実ですが、それも寝床にあっては心地良い疲労です。
なので私も目を閉じて、身体から力を抜くと、あっさりと睡魔に誘われて、眠りの中に落ちたのでした。
……吸血鬼は本来、睡眠を必要としません。
日光に弱く、昼間は起きていることすらできないという一部の吸血鬼からすればおかしいことなのかもしれませんが、突き詰めるとこうです。
吸血鬼は蘇った死体であり、新陳代謝を行いません。
老いることも死ぬこともないわけですから、まあ当然ですよね。
そして、蘇った死体なので呼吸も脈動もありません。ガス交換もしないわけですから、細胞の老化もないわけです。不老不死、と言われる所以ですね。
まあ、完全なる不死者ではありません。首をはねられても死にませんが、心臓を潰されたら死んでしまいます。
……なので本来であれば、痛みを感じることも、疲労を感じることもないのです。
痛みを感じないので快楽もありませんよね。脳内物質的に。
生殖活動をせずに子孫を残せますので、性交渉も必要としませんし、ふつうの食事も要りません。
吸血鬼はそのような、生き物の枠組みから外れた存在なのです。
……ですが実際問題といて、私は睡眠を必要とします。
もちろん怪我をしたら痛いですし、くすぐられたら笑ってしまいます。食事だって、血液を媒介に生気を吸収するというとんでもない方法ですが、もちろん必要とします。
心臓は脈を打っておりませんが、生きた血が体を巡っておりますし、呼吸をしなくても苦しくありませんが、言葉を話すために空気を吸ったり吐いたりします。
体温もありませんが、変温動物というわけではありません。外部の影響に関わらず、一定に保つこともできるのです。
……何度も何度も申し上げてきましたが、ほんとうにわけのわからない、異様でアンバランスで不可解な生き物ですね、吸血鬼。
自分でも何を言いたいのかわからなくなってきました。
まあ要するに突き詰めてしまえば、吸血鬼なんてそんなわけのわからない存在だということです。
……そして何故こんな、わけのわからないことを思ったのかといえば。
「やあおはよう! 今日もいい天気だよ! 起きよう!」
そう言って部屋に飛び込んで来た小さな子どもに、始祖パオレの濃厚な面影を見つけて、そしてその子どもが始祖パオレ当人だと気づいたからでしょう。
私は寝ぼけ眼のエリを抱きしめながら、自身も頭がいつもの三割増しで寝ぼけているのかと、何度も目をこすったのです。
昨日の中年男性から一転、小さな少年となった始祖は、昨日とまったく同じ笑みを満面に浮かべておりました。
見た目はヒューゴとユリウス、彼らよりさらに二、三歳下くらいでしょうか。中年男性のパオレを若くして小さくし、さらに小動物的にしたそのままです。
寝台の上で呆然と抱き合ったままの私たちを眺めて、始祖は笑顔にいやらしいものを混ぜて、下卑た声で叫びました。
「昨夜はお楽しみだったかな!?」
ぐふふ、と全く子供らしくない笑みを浮かべる始祖の顔に、枕を投げつけてやりたい衝動に駆られたのも、致し方ないことでしょう?
……私は爽やかな早朝、その起き抜けの瞬間から、どっと疲労が蓄積するのをひしひしと感じたのでした。