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いつも月夜に血の宴  作者: 桂木 一砂
第二章:月夜の宴
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74.ある乙女の苦悩

※第三者視点:エリーゼ(アマデウス城 領主の恋人)



 その吸血鬼が現れた時、私は悟った。

 ……ああ、私の命は今夜で終わりなんだって。


 だって、そうでしょう?

 わたしはか弱い、うら若き乙女。吸血鬼に対抗できる手段なんて持っていやしない。


 町はずれのみすぼらしい小屋にひとりきりで、助けを求める人もいない。

 聖印や祈りを捧げる時のハーブの押し葉、聖書は部屋の中だ。今から取って返したって間に合わない。

 吸血鬼はとっても力が強く、素早いんだ。

 壁を抜けるなんてこともできて、ふつうに逃げたんじゃおっつかない。


 ……そう悟った時、わたしは何だかもういいやって、そう思ってしまった。

 今にして思えば、やけになってたんだと思う。だって、逃げ切れるとは思えないし。

 それに、目の前に現れた吸血鬼は、何だかとても人の良さそうな雰囲気だった。どうせ殺されるなら、そのほうがましじゃない?

 少なくとも、クズ野郎どもにじわじわ追いつめられるよりは、ずっといい。




 ……吸血鬼って、見る人をみんな堕落させるほどの美しさを持っているらしい。

 けれどその吸血鬼は、まあまあ整った顔をしているけど、そんな浮世離れした美形って感じじゃない。親しみやすそうで、けっこうわたしの好みだったけど。

 それにスタイルがすごく良くて、挨拶した時のしぐさとか、私のそばに来た時の立ち振る舞いとか、やたらと洗練されてるっていうの? なんだかとってもスマートだ。


 だから、この吸血鬼に殺されるなら、それでもいいかなあって思ってしまった。


 ……だけどその吸血鬼は、わたしを殺さなかった。




 いかにもべたべたな挨拶から、さらりと流されるような世間話。

 ラベンダー畑を褒めてくれたのも、わたしの中で好感を持てた。吸血鬼ってハーブが苦手っていうけど、その吸血鬼は違った。すごく強い吸血鬼なのかな?


 吸血鬼なんて、乙女の前にやって来たら、きざったらしい言葉をいくつか言うかもしれないけど、まずいきなり襲いかかってくるようなケダモノばかりと思ってた。

 でも、その吸血鬼……アベルは違った。

 挨拶も返してくれたし、如才ないお話もしてくれた。それに、適当な時間になると、しっかりわたしの体を気遣って、最後まで丁寧に礼儀正しくして帰って行った。

 ……拍子抜けした。


 ではこのへんで、って感じになった時、いよいよ噛まれてしまうんだって、どきどきしたのに。

 そしてそれは、殺されるかもしれないっていう緊張とすこし違ったのに、あたしが気づくのは数日先。

 ちょくちょくやって来る吸血鬼に、その来訪を、わたしが楽しみにしていることに気付いた時。




 恋をしているんだと思った。

 アベルがまたやって来てくれるのを心待ちにしていた。

 来ないかも、と思うと恐ろしかったし、そうならないよう一生懸命考えた。

 でも、わたしに出来るのはアベルを待つことくらいで、そしてアベルはほとんど毎晩、わたしの元にやって来た。


 そしてアベルも、わたしを好きなんだって思った。

 だって、アベルったらわかりやすいんだもの。

 だから嬉しくて、毎晩が楽しみだった。生きて来て初めて、幸福だと思った。


 ……でも、そんなアベルの頼みにも、私は応えられなかった。

 吸血鬼になってほしいって言われた時も、どうしてもうんと言えなかった。




 好きなひとのお願いに、わたしはうなずけなかった。

 それでも、アベルはわたしを責めなかった。

 でも、アベルがわたしの元に来なくなってしまうと思うと恐ろしくてたまらない。


 だからアベルに、わたしから無理なお願いをした。人になってくれって。

 吸血鬼が人間になるだなんて話、聞いたこともなかったけど、その時は妙案だと思ったんだ。

 わたしが吸血鬼になるか、アベルが人になるか。

 どっちも難しいけど、アベルへの頼みごとのほうがきっとずっと難しい。

 だから、アベルがそれを探してみるって言った時は、すごく嬉しかった。


 だって、それを探す間中、わたしのことを考えてくれるでしょう?


 たとえ無理だったとしても、わたしのことを考えて、その方法を探してくれるでしょう?


 たとえわたしが死んでしまったとしても、きっと長く覚えていてくれるでしょう?


 ……そんな卑怯な恋を、わたしはしたんだ。




 アベルの告白を聞いて、わたしは思った。

 彼はきっと、わたしが考えているよりずっと弱い。

 だから、わたしに側にいてほしいって言うんだ。


「……わかった」


 いつも穏やかで、怒ったところもあんまり見ない。焦ったり困ったり、吸血鬼っぽくない吸血鬼のアベル。

 親しみやすいのに、今一歩近くにいてくれない。でも最近はその距離が縮まって嬉しかった。

 ちょっと情けないところもあるけど、やっぱり吸血鬼だから強いアベル。吸血鬼に効く聖印なんかには強いアベル。

 でも、そんな彼にはどうしても我慢できない弱点もあるんだ。


 わたしはそっとアベルに手を伸ばす。

 猫っ毛かと思いきや、けっこう硬い髪。きっと禿げたりしないね。

 わたしよりはずっと短いけど、男の人にしてはすこし長い。前髪は清潔に整えていて、後ろはいつもひとまとめにしているけど、寝る前だからそれも解かれてる。

 その銀灰色の綺麗な髪を、そっと梳く。すこし硬いけど、さらりとして気持ちいい。


「……アベルって臆病なんだ」


 わたしの言葉に、一瞬アベルは情けなさそうな顔をしたけど、そんな自分を薄く笑うようにして、目を閉じる。


「はい」

「それと寂しがり屋。ものすっごい寂しがり屋だわ」

「そうです」

「……ひとりでいるのが怖いのね。双子ちゃんだってビアンカだってスーだって、フィリップたちだってわたしたちだって、ジュリエットだってみんないるのに」

「……はい」


 アベルが目を開ける。見えた赤い瞳に銀の長い睫毛がかかって、とても綺麗だ。

 そっとわたしの手をとって、アベルはそれを大事そうに包み込んだ。


「……私は置いて行かれるのが怖かった。大切なものが私の手を離れて、遠ざかって行くことが恐ろしかった」


 その独白は、アベルが自分自身に言い聞かせているかのように、確認しているように聞こえた。

 それを聞いていると、わたしの踏み込めない場所までアベルが行ってしまう気がして、すごく怖かった。

 だから、次にアベルが私を見てくれた時、うれしく思った。


「……だから、エリ。どう私と一緒にいてください。それだけでいいんです。それ以外いらない」


 ひた、と私を見つめて、吸血鬼……アベルが告げる。

 アベルはとても切なそうで、それでわたしまですごく切なくなった。

 もう片方の手でアベルの頬を包んでやる。そうするとこの人は喜ぶんだ。


「……うん、わかってる。ずっと一緒にいる。わたしたち、お互い誓ったね」

「はい」


 くすぐったそうにアベルが笑い、そこにさっきの切なそうな色がないのにほっとする。

 ふたりでずっと一緒にいるって誓ったことに、わたしはなんのてらいもない。わたしだって心から望むことだからだ。


 ……けれど。

 アベルが今まで、甘えて来る癖にどこか一歩踏み込んで来なかったのは、そのせいなんだって思った。

 わたしが望んでもアベルが望んでも、わたしは人で彼は吸血鬼。

 ずっと一緒にはいられないし、同じ時は過ごせない。

 吸血鬼のアベルから見たら、きっととても限られた時間だけ、なんだろう。


 それはとても明らかなことで、その考えに至らなかったわたしに腹が立つくらいだ。

 アベルはずっと、わたしと同じ時間を過ごすことを望んでくれていた。わたしはただ、今を一緒にいられればいいって思ってた。

 そう考えると、わたしはすごく自分がいたたまれなくて、彼の目を見ていられなくて、思わず目を逸らしてしまう。


「……でもわたし、人のままじゃ、いずれあなたを……」


 置いて行ってしまう、そう言おうとしたわたしの言葉は、噛みつくようなキスで遮られた。


 すこし、驚いた。アベルは押して来る時は押して来るけど、いつだってわたしを馬鹿丁寧なくらい気遣ってくれたから、すこしだけ荒っぽいキスにはびっくりだ。

 でももちろん、牙で噛みついたりすることはしない。わたしが怪我をしないように、アベルがしてくれるキスは啄ばむような、ごく軽いものが多いからだ。わたしが恥ずかしくて、身を引いてしまうこともあるせいかもしれないけど。


 アベルは吸血鬼だから、力もすごくある。それこそ、本気になったらわたしなんて、いっさいの抵抗なんて出来ないだろう。

 でも、彼はわたしを押さえ込んだりしたことなんてない。さっきだって、簡単に腕を撥ね退けられたし。

 だから、わたしをすごく大事にしてくれてるっていうのがよくわかる。それが嬉しい。


 いつもより熱いキスに応える。アベルが一生懸命、わたしを求めてくれるのがわかるから、わたしはすごくどきどきするのだ。

 だから、その時。

 そっと唇を離して、わたしを覗き込むアベルの瞳を見た時。

 いつもと違う声音がしたその瞬間、すっと背中に冷たいものが走った。


「……いいのです」


 アベルは、いつもと変わらないままだ。顔つきも表情も、穏やかで優しい。その瞳も静かに赤い。

 ただその声だけが、どこか、身体の底から冷えるような、凍える響きを持っていた。


「その問題は片付きましたから(・・・・・・・・)


 ……ぞっとした。

 その声が怖かったわけじゃない。冷たい声に肝が冷えたけど、でも、わたしを怒ったり否定するようなものじゃなくて、アベルが自分自身に向けるような声だったから。


 ただ、何でそれがそんな冷たいと感じるのかわからなくて、わたしは一瞬で呆然となった。




「……神やご真祖に誓わなくても、式が挙げられなくても構いません。エリが側にてくれるだけで、私は嬉しいのですから」


 アベルはそっと、額をわたしの肩に乗せる。

 でも、わたしは動けないままだ。その声音には今までにない、突き放したものがあるのがわかったから。

 だけどそれは、わたしに向けられたものじゃない。そうじゃないっていうのはわかるんだけど……。

 それが、ひどく寂しかった。


「……エリ?」


 わたしが固まったままだったのをいぶかしんだのか、アベルが顔を上げてわたしを覗き込む。

 そのとても心配そうな顔を見ているうち、さっきの言葉のほんとうの意味を聞くことも、真祖に誓ったっていいってわたしが思ったことも、アベルの正式な奥さんになりたいっていうことも、何も伝えられなくなってしまった。

 こういうのを、胸が詰まるっていうんだろう。

 私は苦しくて、思わず胸を抑えてしまった。


「エリ? どうしましたか、具合が悪いのですか」


 わたしを気遣う声が聞こえる。それはさっきの声と違って、ひどく暖かい。

 ……けれど、わたしの心は冷えたままだ。


 今の今になって、わたしはアベルが吸血鬼だっていうこと、わたしの知り得ないどこか遠い存在であることを、思い知っていた。


 ……得体の知れない、恐怖。

 それがいったい何なのか、何故こんなにもアベルを怖いと思うのか。

 そんな思いがしばらくの間、わたしを苛むことになり、なかなか答えの出ないその問題に、わたしは苦しむことになる。



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