72.ある乙女の困惑
※第三者視点:エリーゼ(アマデウス城 領主の恋人)
お母様のぬくもりは覚えているけれど、それはひどくおぼろげだ。
お父様に愛されていたかもしれないけれど、よくは覚えていない。
幼いころの記憶はほとんどない。ただ、お母様がいなくなり、わたしが病気になって寝てばかりいるようになった頃には、お父様の顔をほとんど見ることはなかったのだけは覚えている。
体の調子が良い時も、屋敷の外に出ることは許されなかった。
我儘を言うと、物置小屋のような場所に閉じ込められたことがある。泣いて暴れて、そのまま寝入って、体調を崩して熱を出したこともあった。
そういうことが繰り返された。お父様はわたしを持て余しているようだった。
愛されていないと気づいたのはいつだったか。
わたしが十四かそのくらいになった時、将来の結婚相手だという男の人に引き合わされた。
その人は私をひと目見て、あからさまに落胆したようだった。
病弱だったから? それとも可愛くなかったから?
とにかく、その人の話はわたしには不快なことばかりで、派手に言い合いをした。お父様は助けてくれなかった。
むしろ、一緒になってわたしを嘲笑った。
その頃から、お父様だった人を旦那様、と言うようになった。
……わたしの病気は悪くなるばかりだった。
静かに寝ていたり動いたりしていなければ、そこそこ元気で見られたけれど、何かをしようとするとまず上手くいかない。
息はすぐ上がってしまうし、簡単なことで風邪をひく。
熱もしょっちゅう出たし、いつもだるかった。
外にはほとんど出られない。体を動かすこともとても無理。つまらなかったし、悔しかった。
室内で出来ることを、と思ったけれど、不器用で針のひとつも扱えないし、勉強は許されなかったから、まともに本も読めない。簡単な文字だけは懸命に覚えた。それしかできなかったから。
いつしか屋敷を追い出されて、町の隅っこにある小屋に押し込められた。
そこでは使用人とたまにお医者の人が訪れるくらい。
使用人のマリアとイザベル、下男のヨハン。それと花畑の世話をする農夫の人。
その人たちだけが、わたしに親切にしてくれた。
ただ、彼らは忙しかった。
そのくせお給金は少ないようで、暮らしもきついんだとよく笑った。
何も知らないわたしに、たくさんの話をしてくれる人が、とにかくありがたかった。嬉しかった。
旦那様より、よほど身近に感じられる人だった。
たまに婚約者だとかのたまう男が、わたしの住処にやってくる。いつも喧嘩ばかりだ。
そしてとうとう、おまえとの婚約なんて解消するって言って、わたしをひどく罵った。もちろん言い返してやった。
あいつの相手をするだけで、具合が悪くなった。イザベラも憤慨して、わたしを労ってくれた。
婚約者じゃなくなっても、あいつはしょっちゅうわたしに嫌味を言いに来る。大嫌いだ、いなくなれ。
マリアたちは、昼間に家の中のことを片付けてくれる。それが終わると次の仕事に追われ、わたしはひとりきりになる。
だからわたしはずっと、旦那様が気に入っているというラベンダー畑をぼんやり眺めていた。
ほとんど何もしないためか、風邪をひいたり熱を出すことは減ったけれど、だるさは消えない。
鏡の中のわたしは、いつも暗い顔をしていた。
マリアがくれた絵本の中に、王子様とお姫様の物語があった。
可愛いお姫様の元には、いつか必ず王子様が迎えに来てくれるというお話。
わたしはそれに憧れて、でもそんなことなんてあり得ないと思いながら、ただぼんやりと毎日が過ぎるのを数えていた。
あと何回、私は生きて朝を迎えられるのか。
そう思うと夜眠ることも怖くなって、だからよく夜更かしをして、外を見ていた。
ラベンダーは綺麗だったし、そこを王子様が歩いてやってきたら、さぞ絵になることだろう。
あり得ない想像をしては、自分で笑う。そんなこと起こるはずなんてないのに。
だけどそんなある晩、唐突にその人は現れた。いえ、人じゃない。
……わたしの元には王子様ではなく、吸血鬼がやって来た。
「……もう、吸血鬼にも吸血鬼ハンターにも、関わりたくありません」
何だかげっそりしているアベルは、やさぐれているのか、いつもよりほんのすこしだけぞんざいな言葉遣いと態度だった。
今夜は、久しぶりにアベルとゆっくり話が出来ると思ったのだけど、どうやら聞き手に回った方が良さそう。
吸血鬼の城の、その領主様の部屋。天蓋付きの大きなベッドに、紗なんてものが垂れ下っている。
領主のベッドはひとりふたりどころか、マリアたち全員が一緒に寝転んでもまだ余裕がありまくる、とても大きな寝床。スプリングが効いているのか、ひどく体に優しいマットの上に、とんでもなく肌触りのいい布が何枚もある。
寝転がっているだけで気持ち良い。
調度品も、触れることも躊躇われるすごく綺麗なものばかり。ちょっと黒くて重苦しいけれど、怖いくらい丁寧な作りで、彫刻もあって、何だかお洒落。
照明も魔法なんてものがかかっているのか、幻想的な明かりもある。ぎらぎらと目を突き刺すシャンデリアの光ではなく、カンテラ越しに見るほのかな灯みたいに、柔らかくて綺麗なの。
わたしの以前の暮らしとはかけ離れた、想像するのも難しいくらいの、贅が尽くされた一室だった。
「……というか、クリスとヘルシング限定でしょうか? 何故か毎回、血生臭いことになるのですよね。……ローラは最近はまあ、大人しくしてくれますし。相変わらずたまに血を寄越せと言われますけど……」
呟きながら寝台に顔を伏せるアベルは、心底疲れ切っているみたい。
帰って来たばかりの時もそうだったし、それに怪我もしてたから、わたしはすごく驚いたし、心配もした。アベルが慌ててもう平気ですって言ってたけど、それでも知らないところで怪我をしているのが不安だったし、怖かった。
ほんとに、心配させないでよ、もう。
とにかく今も、アベルは何だか弱り切っているし、可哀そうだったので、わたしは彼の隣りで同じように腹這いになりながら、手を伸ばしてその頭を撫でてやる。
「うんうん、お疲れ様でした。でも、目的のものは手に入ったんでしょう?」
「ええ、まあ。……クリスは頼りになるのですが、その代償が大き過ぎることにやっと気づきました。すくなくとも私にとっては。……あまりお願いをしに行かないことにします」
組んだ腕に右頬を埋めながら、それでも気持ち良さそうに目を細めるアベルは、何だか可愛い。
クリスというのは、アベルが悪友といってはばからない、すこし怖い吸血鬼だ。前に一度、アベルがいなかった時にやって来て、わたしが応対したことがある。
まるで王子様みたいな美形だったから驚いたけど、いかにもそれっぽかったし、目が真っ赤だったからやっぱり吸血鬼で、油断しないで身構えていた。そしてやっぱりどこか腹黒い雰囲気だったから、油断しなくて正解だったと思う。
ただ、アベルが来た時の、クリスという吸血鬼の態度。ほんとうにすこしだけど、嬉しそうなのがわかったし、だからちゃんとした友達だと思ったんだけど、あの後いきなりアベルに噛みついて、アベルも倒れてしまったものだから、とっても驚いたし、怖かった。
吸血鬼ってみんな、あんななの? あ、アベルはもちろん違うけど。
……とにかくあの時以来、私の前では甘くて力強いって思えるアベルは、どこか弱々しい一面もあるんだって気づいた。
だからこうしてふたりでいる時くらい、甘えさせてあげようと思ってる。
「でももう、長い間お城を開けなくていいのよね?」
「そうですね。もう絶対しばらくは誰の呼び出しにも答えません。エリに癒してもらいます」
アベルは微笑みながら手を伸ばして、わたしの頬に触れてくる。すこしこそばゆい。
吸血鬼は体温がないから冷たいはずなんだけど、でもアベルの手は冷たいと感じないから不思議だ。
アベルはこのところ、しばらくお城を開けていた。
どこへ何をしに出かけるのかと聞いても、はぐらかすばかりできちんと答えてくれない。吸血鬼として話してはならないことらしいけど、わたしはすこし不満だった。
でも、怪我もしていたし、今もこれだけ疲れて萎れているのを見れば、いくらわたしでもしつこくたずねていじめてやろうとはとても思えない。久しぶりだし、たくさん甘えさせてあげようと思う。
でもちょっと、気になることがある。
「……ね、例の本ってどんななの? 始祖ってすごい吸血鬼の本なんでしょう?」
アベルが難しい顔をして本を開いていたものだから、つい覗いてしまったのだ。
慌てていたけれど、わたしが読めないのを知ってほっとしていたから、いやらしい本かと思って責めてやった。
アベルも読めないのだと情けない顔をして、ほんとうに困ったようだったから、わたしも解読に協力してやろうと思ったのだ。
……でも、最近になって勉強を始めたばかりのわたしが、役に立てることなんてないのよね……。
アベルが片手を上げて、ひょいとそれを振ると、ひとかかえくらいある大きな本がぱっと現れる。
魔法だとわかってもびっくりするけれど、見た目からすれば軽いけど、そこそこ重たい本を爪先で軽く扱えるアベルは、やっぱり吸血鬼なんだなと変なところで感心してしまう。
はじめてアベルと会った時は、夜明け前の空みたいな綺麗な藍色の瞳をしていたけど、今は真っ赤だ。だから吸血鬼だってことなんだけど、つい忘れてしまう。
アベルが吸血鬼っぽいことをあまりしないからだ。アベルが吸血鬼らしいところって、たまに私から血を吸うのだけど、その時くらいかな。
吸血鬼に噛まれると吸血鬼になるのだと聞いていたから、はじめはものすごく抵抗があった。
ただ、それまでアベルはわたしから血を欲しがることがなかったし、噛みつこうとしたこともない。それに何だか、吸血鬼にも種類があるらしくて、アベルは噛んでも大丈夫な吸血鬼らしい。
たしか、吸血鬼の種類は六つくらいあって、アベルはその中でも一番弱い種族なんだって。
それでもあのくそ野郎をかるく捻っていたし、十分すごいと思うけど。でも、戦うところとか怒ったところもほとんど見ないから、強そうには見えないし、思えない。
たまに顔を見るちっちゃい女の子……目が赤いからやっぱり吸血鬼なんだろうけど、その前でもアベルはすごく緊張してるし、クリスって友達の前でもそうだったから、たぶんアベルよりみんな強いんだろうけれど。双子もアベルより年上で強いらしいんだけど、ほんとに不思議。
吸血鬼って、すごい美形揃いなのにそのうえ強いって、不公平だわ。
「クリスから譲ってもらった品ではあるのですが、すぐに読めるものではないので……」
アベルが難しそうな顔をして本を開く。
わたしも覗き込んで見たけれど、相変わらずわけのわからない本だ。
「これって、結局文字なの? 記号なの? 何かの暗号なのかしら」
「私にもさっぱりです。クリスにもわからなかったみたいですし、ローラは何故か始祖に関わりたがらないみたいで、頼れませんし……どうしましょうね、これ」
ぱらりとめくってみたけれど、大きな本にびっしりと、文字だか何だかわからない記号が綴られている。
象形文字とか幾何学模様とか、いろいろと混ざり込んだ面白い形だ。
見ていて飽きないくらい綺麗だったけれど、ここから何かを読み解けと言われても、とても無理だ。
「うーん、吸血鬼の人でも読めないんじゃ、ラナ先生でもきっと駄目よね……」
「……まあ、あまり人の目にさせたくない本でもありますし。どうしても読まねばならないものでもありませんから」
アベルがまたひょいと手を振ると、大きな本がかき消えた。魔法って面白い。
わたしもやってみたかったんだけど、どうやら魔法って人には使える人と使えない人がいるみたいで、そのうえ吸血鬼が使えるものとも違うみたいで、ややこしい。
わたしに才能があるかもわからないし、他にも勉強しなければならないことがたくさんある。
……今のわたしには、たくさん出来ることがあるし、やることがある。
そのための時間も、アベルがくれた。たくさんのものを与えてくれた。
わたしを救ってくれた。
「……アベル」
「なんですか? エリ」
疲れていて眠たいのか、アベルの声はどこか柔らかく、甘い。
何だかたまらなくなって、わたしは思い切りアベルに抱きついてやった。ベッドの上だからバランスを崩したって大丈夫。
「……エリ?」
仰向けになったアベルが、驚いてわたしを抱きとめてくれたけど、わたしはその首元にすり寄ってやる。
人前だと恥ずかしくてとても出来ないし、アベルがからかってくるものだから甘えてなんかかやらないけど、ふたりきりのこの時間なら、わたしは自分の好きに出来るんだ。
「うん、好きよ」
「……私も好きですよ、エリ」
顔を上げると、優しいキスが落とされる。
私は目を閉じて、うっとりとそれに意識を持っていかれる。思ったより柔らかく暖かい唇の感触を楽しむ。やっぱりアベルの体は冷たくなんかない。不思議だ。
鼻を鳴らしてもっととせがむと、アベルはそれにちゃんと応えてくれる。背中に回された腕が心地良い。
やわらかくて心地良いベッドに沈むようにして、わたしは自分の中で猛る熱に溺れた。
「――だからなんでそれ以上何もないんですかあああ!」
イザベラが叫んで立ちあがった瞬間、すこん、とその額に何かが投げつけられた。
万年筆のキャップだった。見ると机の上に仁王立ちしたスーが、可愛らしく頬を膨らませている。
「ご、ごめんなさい、スー先生……」
よろよろとイザベラが席に着くと、妖精さんは大きくうなずいて腕を組んだ。
わたしたちを見張るつもりらしい。
いつものイザベラとの勉強の席。
この間アベルがようすを見に来たんだけど、スーの考えた試験の紙と、わたしたちの答案を見比べて難しい顔をしていた。
相当悪かったのかと心配になって声をかけたけど、アベルは首を横に振っていた。
『入学自体は問題ないレベルになっていると思いますよ。ふたりとも頑張りましたね。特にエリはハンデもあったのにすごいです』
そしてわたしの頭を撫でてくれたので、わたしはとても満足した。
でもそれなら何でアベルが難しい顔をしていたのかと言うと、何でも学園への途中編入は、ふつうの入学試験よりすこし難しいんだって。何でそうなっているかはよくわからないけど、既に入学している子たちのレベルに合わせるとかどうとか、そういう話だった。
だからもうすこし力をつけないと、ちょっと厳しいかもしれないらしい。
領主権限でごり押せますけど、とアベルが言ったけど、もちろんイザベラは鼻息も荒くいいえと断った。でしょうねとアベルが笑っていた。
イザベラは自立した大人の女性を目指すのだから、さすがにそこまでアベルのお世話にはなれない。
私は学園には入らないけど、同じくらいの知識は身につけたいと思ってる。アベルの役にも立ちたいしね。
でもそれだったらほんとうは、イザベラと一緒に学園に入学したほうがいいのかも知れない。今だったらイザベラも一緒だから、心細くないし。
……でも、アベルが一緒にいることを望んでくれてるし、わたしだってそうだ。
最近のアベルは前より甘えてくるし、わたしだって甘えさせてやりたいし、甘えたい。
だからこれでいいんだろうけど、イザベラは不満顔をしてる。
……たぶん、勉強のストレスをわたしの話で発散してるんだと思うけど、それってどうなのよ。
でも私もイザベラに相談したかったから、ちょうどいいのかもしれない。
けれど、今はとにかく勉強だ。怖い先生もいるし、問題を解かないと。
わたしとイザベラは一生懸命、参考本と紙片と、にらめっこを続けた。
「……あとでみっちり、お話をお願いしますっ」
……イザベラの小さな呟きは、やたらとはっきり大きく聞こえた。
何でそんなに気合が入ってるの?
イザベラは友達で家族だけど、たまによくわからない。いい子なんだけどね。




