59.ある侍女の述懐
※第三者視点:イザベラ(アマデウス城 侍女)
旦那様が変わった。
いや、元々変わった吸血鬼であるとは思っていたのだけれど、それが最近ますます変わった。
どうにも吸血鬼っぽくない、貴族らしからぬ方ではあったのだけれど、最近はよりいっそう人間臭く思えてきた。
「一体何があったんだと思います?」
「……それが、よくわからないのよね」
エリーゼお嬢様は思案顔だ。困っている、といった体ではないけれど、腑に落ちないといった顔をされている。
元からお嬢様に甘い……甘過ぎる旦那様ではあったけれど、何と言えばいいのだろう。
ぐっとその距離がよりいっそう近くなったといえば良いのか、より親しみやすくなったというべきなのか。
元々親しみやすい方だけれど、よりそれが顕著になった。たぶん、この表現が一番正しい。
とくにこれ、といって指し示すことができる態度ではないのだけれど、全体的に親しく感じられるようになったのだ。
旦那様は吸血鬼らしからぬ、ひどく穏やかで優しい領主だけれど、その実どこか、一歩引いたような距離を感じることがあった。
言葉遣いも、これまた吸血鬼らしからぬ丁寧さだったから、そのせいだと思ったこともある。
けれど、言葉だけでは図れない、旦那様が確かに作っていた見えない壁が、このところすっかり消え失せてしまったようなのだ。
「変わったって言っても、何て言っていいのかもわからないし、それが悪いものとも言えないんだけど、何だろ、もどかしいというか? 何かこう、はっきりしないのよね……」
お嬢様は乙女乙女した表情で、手の中のペンを弄ぶ。
今は学習の時間だ。ラナ先生は今日お休みなので、妖精のスーと一緒に図書室で講義を受けている。お嬢様もこうして一緒に机……いや、席を並べて教えを乞うているのだ。
スー先生が人間用サイズのペンを抱えて、さらさらと文字を書く。いつ見ても不思議な光景だ。
「……贅沢な悩みですよね。あたしなんて相手もいないのに」
あたしが思わず溜息をついて見せると、お嬢さまはすっかり慌てて腰をあげた。
「ちょ、イザベラったら拗ねないでよ。いいじゃない、相談できるのってあんたくらいなんだから!」
「わかってますって。別に拗ねてません。ただ単に、羨ましいな~って思っただけです」
「……それ、拗ねてるって言わない?」
お嬢様は不審顔だ。たしかにちょっと、あてつけっぽかったかな。
とはいえ、ひとり身の寂しいあたしと比べて、お嬢様はかなり幸せ者だ。
吸血鬼とはいえ相手は貴族、それもアマデウス領というとんでもなく広い領地のご領主だ。
ジュリエットという新しく勤めるようになった吸血鬼曰く、財政も潤沢であるらしい。美術品もたくさんあって、ジュリエットはご満悦だ。
地位もお金も、それなりに容姿も整っている。そんな相手を射止めたのだから、ちょっとした悩みや愚痴を言われることくらい、何てことはないだろう。
お嬢様とあたしは、いちおう主従関係にあるが、年も同じだし、それなりに長い付き合いだから、たまに敬語が外れてしまうことがある。そのくらいざっかけない間柄であるし、お互いそう思っている。
なのでこうしてお嬢様の惚気や悩み、あたしの愚痴を、勉強の合間にこぼし合うことも、よくあることだ。
「……で、お嬢様。あちらの守備はどうなんです?」
お嬢様の悩みは、特に答えが出るものでもないし、差し迫った問題でもない。
なのであたしは矛先を変える。お嬢様はきょとんとした顔をあたしに向けた。
「あちらの守備って?」
「それはもう、あちらといったら……あちらですよ」
にやり、と笑ってお嬢様を小突く。お嬢様はきょとんとされていたけれど、やがてその顔が赤くなった。
「きちんと結婚されている訳じゃないですけど、恋人同士であるのは確かですよね? そんなおふたりがやっと寝室を共にされたんですから、進展したんでしょう? ねね、どうだったんです?」
「イ、イ、イ……」
エリーゼお嬢様はおこりにかかったように、同じ音を発している。
まあ、あまりにはしたない話題だ。下世話過ぎて、ふつうは引いてしまうだろう。
でもここアマデウス領では、そういった恥じらいや抵抗感はやや薄い。アマデウスの領地に住む、城に通いで勤めている人とも話をするが、どうやらそんな感じなのだ。
だって、ここは吸血鬼の国なのだから。もっとオープンでいいと思う。
すぐ赤くなるお嬢様だけれど、その実かなり強かであることを、あたしは知っていた。この程度のこと、旦那様といちゃいちゃしている甘い空気に比べたら、恥ずかしいことなんてない。
案の定、がっくりとうなだれて恨めしそうな目を向けるお嬢様に、あたしは笑みが抑えきれない。
「イザベラったら、なんてこと言うのよ……」
「ただの僻みっぽい、下世話な女のやっかみです。……で、どうなんです? もう気になって気になって」
あたし自身、そういうことに疎いものだから、話に飢えているのだ。
それも親しいお嬢様のものであれば、大好物になる。思わず飛びついてしまうほどに。お婆ちゃんだって気にしているしね。
お嬢様は往生際が悪く、あーだのうーだのおっしゃっていたけれど、やがて諦めたかのように溜息をひとつついた。
「……いわよ」
「え?」
「……だから、何もないわよって言ったの。ふつうに一緒に眠っただけ」
あたしは思わず、椅子から立ち上がった。
「えぇっ、本気ですか!? ふだんあれだけ、いちゃいちゃしてるのに!?」
「声が大きい!」
かん、と高い音がしたので振り返ると、スー先生がむうっと頬を膨らませてあたしたちを睨みつけていた。
先生が万年筆のキャップを放り出して、腰に手を当てて凄んでいる。可愛らしいけれど、怒っているのはよくわかる。
……そういえば、学習中だったのだった。すっかり恋愛話に現を抜かしていたことに気づき、あたしは慌てて居住まいを正した。
「……お嬢様、あとでみっちりお願いしますね?」
「しつこいわよ、イザベラ」
お嬢様もスー先生と同じように頬を膨らませているが、何だかんだで話してくれるだろうことはわかっている。
甘い甘い旦那様だけれど、お嬢様だって甘いのだ。結局最後には惚気話になることは知っている。
それを聞いて、あたしはむず痒いような、身悶えさせられるような、そんな気分に陥るのだ。
こういう時、いっそ爆発してしまえ! と呪う慣習が、どこかの国にあるという。
ここには外国の書籍も多いので、面白い話を目にするのだ。難しい本は好きじゃないが、そういう話だったらたくさん読みたい。
……というか、爆発って何だろう?
まあともかく、今は真面目に勉強しないと、先生の目が怖い。
あたしとお嬢様は頭を並べて、難しいことを教えてくれる先生に、必死に食らいついたのだった。
「……イザベラったら、学園に入りたいなら、勉強を第一にしなさいよ」
「人生に勉学は大事ですが、恋愛がなければそれも色褪せちゃいます!」
あたしの言葉に、お嬢様は深々と溜息をつく。
学習時間も何とか乗り越え、仕事を片づけ、一日を終えたその後だ。
いわゆる晩のことを、こちらでは星夜と言うそうだ。夜しかない国で、月が落ちた後の一番暗い時間帯になる。極夜の国の月は明るく、かつて暮らした国の朝焼け夕焼け時よりも、うっすら明るいとさえ思えるくらいだ。
その月が沈めば、真実、真っ暗な闇夜だ。人の国の夜よりよほど暗い。
そのぶん、夜空に星が瞬くそのさまは、息を呑むほど美しい。
吸血鬼も眠りに就く、真の夜の時間帯は、内緒話にはちょうど良い感じだ。
私室に退がって、あたしとお嬢様は、ふたりで女の話に花を咲かせる。
……晩餐後、お嬢様に置いて行かれた旦那様が寂しそうに見ていたけれど、あの方にだけお嬢様を独占させるつもりはさらさらない。ただでさえ、暇さえあればお嬢様にべったりなのだ、あの吸血鬼は。
それにお嬢様にだって、女同士のざっかけない会話は必要だと思う。旦那様にも言えないようなことだってあるのだし。
まあそんなことを言っても、結局はあたしがおふたりの関係に興味津々であるという、それだけなのだ。
「……ほんとにもう、最近どいつもこいつも色惚けてないかしら」
「その筆頭が何をおっしゃるんですか」
そんな風に膨れたって、お嬢様は結局のところ、最後にはしぶしぶ白状するのだ。そしてそれがやがてすっかりノリノリになってしまう。
いつもいつも、甘いお話をごちそうさまです。
……そういえば、お嬢様たちだけでなく、フレッドさんとビアンカさんの人狼カップルのようすも気になるなあ。
あのふたりは、別に仲が悪いという訳ではないし、むしろ良い関係にあるだろう。それでも恋人同士と言えるほどの間柄ではまだないようだ。
お互い感触は良さそうなのに、この辺は種族の違いだから感性も違うのかな?
まあともあれ、なかなか進展していないようだけれど、じれじれしているのも大好物です。
それに引き換え、お嬢様と旦那様は、傍から見ていて実に仲睦まじい。
懐っこい犬猫のように、お嬢様に構ってもらいたがる旦那様も大概だが、すこし恥ずかしがってみせるとはいえ、その実なかなか度胸のあるお嬢様は、それをどーんと受け止めている。
旦那様よりお嬢様のほうが、むしろ漢らしいと言えるだろう。
結局のところ、何だかんだで主導権を握っているのはお嬢様なのだ。旦那様は今まで、押してはいるもののどこか一歩引いた感触があった。
けれど何があったかは知らないが、最近はその距離が詰まっている。お嬢様にとっても喜ばしいことのはずだが、何をきっかけにそうなったかがわからないので、すこしもやもやとするのだろう。
「……なんだかね。アベルったら、やたらすっきりした顔になったのよね。今まではなんていうか……ほら、野良の犬や猫みたいな、懐いてくる癖に今一歩、懐に入れてくれない感じがしてたんだけど、最近はそれもなくて」
「あ、お嬢様もそう感じていたんですね」
まあ、他人のあたしよりも、当人たちのほうが良くわかるのがふつうなのだろうけれど。
恋は盲目とか聞くけれど、賢明なお嬢様にとっては、そんな愚かしい状況にはならないようだ。
「……ねえ、これ、ほんとうに言わなきゃいけないの?」
「今さらそれをおっしゃいますか。さあ、白状なさい!」
お嬢様が難しい顔をしているが、私はもう待ちきれない。
というか、時にはお腹いっぱいのあたしにも、遠慮なく砂糖を継ぎ足してくれるお嬢様なのだから、ほんとうにまったく今さらの話だ。
散々甘い話を聞かされて、あたしにも砂糖耐性ができたことだし、問題はないじゃないか。
「で、で? どういうことなんです? 好き合っている男女が同衾して、まったく何もなかったんですか?」
「……ああもう、わかったわよ!」
明け透けな言葉で迫るあたしに、やっと腹をくくったのか、お嬢様は旦那様のことを話してくれた。




