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いつも月夜に血の宴  作者: 桂木 一砂
第二章:月夜の宴
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52.残された者の想いもあります。



 彼のエリに対する態度は、とても惚れている人間のものではありません。

 けれど、ふつうの人が“愛”と呼ぶものと、元婚約者のそれとは、また別の形のもののように思えました。


 愛していながら、酷い行いをする。そういう歪んだ人間だっているのです。

 愛しているから、酷い行いをしても許される。そういう歪んだ思考の者の前では、ふつうの考えや態度は求められません。

 根本から違っているのです。人と、吸血鬼のように。


 果たして、目の前の彼がそういった人種であるとは限りませんでしたが、どうやら私の言葉は届いたようです。

 それも図星だったのか、元婚約者は口をぱくぱくとさせながら、その表情を青褪めさせました。

 私も思わず、苦い表情になってしまいます。

 ……この人は想像していたよりも、救いようのない人間のようです。


 エリを虐待して、それで愛しているなど、どうして言えるのでしょう。

 どうして、そのような恥知らずな人間になるのか、私には想像もつきません。


 エリは明らかに、元婚約者を嫌っていました。彼に正面から訴えていました。

 悲しいと、この小屋に押し込められて忘れられて、寂しいのだと、ひどく苦しんでおりました。

 そこに土足で踏み入って、助けようとすらせずに暴言を吐いていたのは彼のはずです。傍若無人に振る舞っていたのは、この人のほうです。

 彼女を失ってから今まで、それに気づかなかったというのでしょうか。


「……だとしたら、あなたはやり方を間違えました。もう、それを正すことも出来ません。二度と彼女と会うことも叶わないのですから。後悔を抱えて、生きていきなさい」


 私の言葉を理解するのに時間がかかったようですが、やがて元婚約者の青ざめた顔に、血の気が戻って来ました。

 戻り過ぎて真っ赤になっております。ふるふると震えて、怒りが怒髪天をついたのでしょう。

 十字架という、私にとって無意味な武器を振りかざして、彼は絶叫しました。


「おまえがっ!! おまえがあああああ!!」


 その時、荒れ果てた小屋の中で、影が動きました。

 元婚約者が私に飛びかかるより圧倒的に早く、その影は彼の背後に回り込みます。

 ヘレナです。


 彼女は長身の元婚約者の背後から飛びかかると、その首筋へ一気に牙をつき立てました。

 ぞっとするほど美しい少女が、粗野な男性の太い首に噛みつくそのさまは、退廃的でいてどこか耽美な光景です。

 元婚約者は我が身に何が起こったのか理解する間もなく、その怒りの形相を呆けたものに変えました。

 充血した目はそのままに、そこに宿っていた狂気の光も消えています。


「――旦那様、いかがなさいますか?」


 大男ひとりをあっという間に無力化して、ヘレナは先ほどの勇ましい動きを彷彿とさせない、慎ましやかな動作で私に向き直りました。

 口から僅かに零れた血をぬぐうのも、この世の者とは思えない美しい所作です。


 ……ええ、今日は私はひとりではありませんでした。

 護衛のように従者のように、そして影のように、誰にも気づかれぬよう、ヘレナが付き添ってくれていたのです。




 今回の随伴は、外出する時に双子たちから提言されました。

 ここのところ、エリたちの時といいフレッドたちの時といい、私が外出した先で、吸血鬼ハンターに遭遇したり騒ぎになったので、心配してついて来てくれたのです。


 子どもでもあるまいし、三十路近くにもなって……いえ、そもそも吸血鬼となってもそれでは、私の立つ瀬がありません。

 それにヘレナは実態はどうあれ、外見は十代半ばの少女に見えます。それに護衛される三十路の男というのもどうなのでしょう。

 ……まあ、私も外見年齢は、本来ぎりぎり十代のはずですが、老け顔なので三十路くらいがちょうど良いのです。そういう意味では、実年齢と一致しておりますね。悲しいですが。


 とにかく、私に対しては過保護な双子の心配を無碍にすることもできず、ひとまずヘレナについて来てもらった次第でした。

 先輩吸血鬼で姉貴分でもあるヘレナと一緒で、心強かったのはたしかです。


「このような者を気になさるのは、時間の無駄でしょう。よろしければ私が始末をつけますが」


 彼女に言われて、私は顎に手を当て、考え込みました。

 さて、どうしたものでしょう。


 私が彼に会いたかった理由は、せめてひと言、エリに対する仕打ちに文句を言ってやりたかった、ただそれだけです。

 ですが、たとえ文句を言っても、先ほどのようすからそれは届かないことが窺えました。

 何があったかはわかりませんが、ともかく、彼は何もかもうまくいかない理由をエリに押し付け、愛憎……いえ、あれを愛とは言いたくはないのですが、とにかく彼にとっては愛憎混じった強い感情を、エリにずっと抱いていたようです。


 これはもはや、単なる好きな子ほどいじめたいとかいう、子どもじみたいやがらせとかいう、生易しいものではありませんね。いい年をした男性がそれでは情けない限りですが、歪んだ愛情と言えないこともないのかもしれません。

 単なる嫉妬とも違うようです。何と言えば良いのでしょう。


「エリーゼは私どものところで幸せにやっている、ざまあみろとでもおっしゃってやれば良かったのでは」


 ヘレナが至って真面目な顔で、私に提言してくれています。

 ……溜息が出そうなほど美しい、深窓のご令嬢と見紛う少女が、ざまを見ろなどとそんなことを言ってはなりません。いや、私としても言ってやりたいのは山々ですけれど。

 ヘレナはエリのことを、奥様、お嬢様、エリーゼ様ときて、ふつうに名前呼びにしています。それはエリのたっての希望で、奥様と言われて顔を真っ赤にしていたエリもまた、可愛らしくて仕方なかったです。


 ……話が逸れました。

 ともかく、この元婚約者の始末をどうつけてくれましょう。

 かの人は憎き吸血鬼である私を前に、ぼうっとその何も見えていないような視線を漂わせています。


 カラスの血族といえども、このように吸血鬼がひと噛みすれば、相手はしばらくの間、こちらの意のままに操ることができます。意図的に操らないこともできますが。

 とにかく、このままこの元婚約者を、もうどうとでもすることができるのです。


 最悪、本人が思ってもみないような……、例えば自殺しろですとか、愛する人を殺しなさいというような酷い命令も、盲目的に全力で遂行しようとするのです。恐ろしいですね。

 もっとも、その催眠状態も長くは続きません。まあ、ローラのようなコウモリの血族になると、それは噛まれた当人が死ぬまで続いたりしますけれど。


 吸血鬼として弱いカラスの血族は、そういった特殊性を持ちません。あるのはただ、弱点への耐性のみです。

 とはいえ、弱点の完全無効化には、今一歩届きません。カラスの者として永い時を生きたヘレナでさえ、彼の持っていた十字架を目にして、すこしつらそうな表情を浮かべておりました。

 聖別されたものに特に弱いヘビの血族でしたら、よほど長生きしていても、この十字架ひとつで弱体化してしまうことでしょう。クリスがこの聖印に苦しむようすは想像できませんが。


 反面、たかだか十年しか吸血鬼として生きていない若輩者の私は、いたってけろりとしております。

 これも真血を持つからこそでしょう。ご真祖に近いというこの血の特異性が良くわかりますね。


 私は床に落ちた十字架を拾い上げ、鉄と銀の装飾でできたそれを、片手で握り潰しました。

 そのまま両手でころころと転がして、球体にしてやります。

 ヘレナがほっと息を吐いたので、それを床に放り投げてから、私はなおも考え込みました。


 正直、この人をエリの前まで引きずっていって、土下座なり何なり、とにかく彼女に謝らせてやりたい気持ちでいっぱいです。

 彼のエリに対する暴言は、通りすがりのようだった私が聞いても、酷く耳触りで不愉快でしたから。

 エリも激しく言い返しておりましたけれど、真実傷ついているようでした。

 ここに来るまで、せめて謝らせてやりたい、その言葉を届けたいと思っていたのです。


 けれど、元婚約者はそのような愁傷な心構えは、いっさい持ち合わせていないようでした。

 私の言葉に逆上するだけでしたしね。


 それにもし、無理やりにでも謝罪させたとして、エリはそれを喜ぶでしょうか。

 ……この人たちに復讐しても良いのだと、かつて私は彼女に提案しました。

 けれど、それをあっさりと蹴って、そんなことよりも私と共に居ることを選んでくれた、優しい女性です。

 今さら、この人の謝罪など要らないと言うでしょう。

 そもそも、心のこもっていない謝罪など、どんな人だって嬉しく思うはずがありません。


「……この人はもうとっくに、エリの中ではどうでもいい人です。目的のものも回収しましたし、放っておきましょう」

「御意に」


 ヘレナはすこしばかり、がっかりしたような表情を浮かべましたが、それは同族である私しかわからないような些細なものでした。

 淑女然とした彼女ですが、双子のルーナともども、身内には非常に甘い娘です。私の心の機微を敏感に悟って、いつも先回りしているくらいですから。

 今ここで元婚約者をひねってやりたいとまでは、私は思っておりません。だから多少の不満があっても、私の思うことを優先してくれるのです。


 ……この人はもう、過去の人。エリにとっても通り過ぎた、もう二度と振り返るはずのない遺物です。

 どこへなりとも行って、好きに生きろと思うだけです。私はそれに関知しません。

 既に何の関わりもない、赤の他人なのですから。


「……失ってから気づくことがあると申しますが、後悔は先に立たないのと同じですね。せいぜい、逃がした魚は大きくて美しいものだったと、悔しがって生きなさい」


 私の言葉が聞こえているのかいないのか、元婚約者は呆けた視線を私に向けて、ぎこちなくうなずいたのでした。




 ……種族が違っても、相手のすべてを受け入れられなくても。

 奉ずる神が違っても、その性質を全て認められなくても。

 それでも、共に生きることが出来るのです。


 それを愛と呼ばずして何と言うのでしょう。


 私はそれを手放したくありません。せいいっぱい受け止め、そして彼女に返すつもりです。

 その感謝を忘れないようにしないと、私もこの人のようになってしまうでしょうね。




「おかえりなさい、アベル! ヘレナ!」


 ヘレナと共にカラスに変化して、空の風脈に乗って旅をすることしばし。

 極夜の国、アマデウス領に戻った私を、エリは笑顔出迎えてくれました。

 今回同伴しなかったルーナも、いつものようにぴっちりと控えております。


 私は帰城の挨拶もそこそこに、マリアとヨハン、イザベラも呼んで、みんなの故郷の話をしてやりました。

 町がひどく寂れ、人が次々に減って行くようだという話には、もう二度と戻れない故郷でさえ、いえ、そうであるからか、みんな痛ましい顔をしておりました。

 ただ、領主が身代を食いつぶして、大きな資産を手放したようだという話には、案外けろりとしておりました。


「それはそうよ。もうけっこう前から、そうなるんじゃないかって薄々気づいていたもの」

「学のないおれたちだってわかってたくらいですからね。ああ、もう駄目なんだなって」

「あれだけの町だったのに、若い人からどんどんいなくなっちゃうんだから、それは寂れちゃいますよ」

「生者必衰と言ってねえ。まあ、みっともない領主だったし、仕方ないさね。先代はもうちょっとばかりましだったんだが」


 四人とも、故郷を惜しむ気持ちはあっても、かつての家族と雇い主に対しては、案外辛辣なようすです。


「そりゃそうさ。世の中、おまんまが食えなきゃおしまいだよ」

「稼げなきゃ、貧乏人は餓死するしかないですからね。ここでは違いますけど」


 マリアとイザベラが深くうなずき合っております。祖母と孫であるふたりは、外見はあまり似ておりませんが、中身の根本はやはり似通っているようでした。


「……こっちでの暮らしに慣れると、あっちがいい場所じゃなかったっていうのが良くわかるからなあ」

「そうよね。向こうに負けてるところなんて思いつかないわ。せいぜい血を吸われることだけど、それで死ぬ訳でもないし。吸血鬼だって優しい人ばかりだし」


 ヨハンとエリも、何やらしみじみとしております。

 確かにアマデウス領に帰ると、人の国との差異に驚くばかりです。私ももともとは、人の国の貧民街出身ですから、エリたちの言うことは良くわかるのです。


 もっとも、吸血鬼に良い人ばかりというのは、アマデウス領の直轄地付近に限ります。

 我が領地でも、恐ろしい吸血鬼はいるのです。みんながみんな、カラスの血族という訳ではありませんし。

 まあ、人に無碍な扱いはできないようにしておりますので、問題は起きませんし、起こさせません。

 エリたちが無為に嫌な思いをしないよう、今後も尽力して行く所存です。


 ……それから私は、エリに元婚約者と遭遇したことを話そうと思いましたが、何と切り出すか考え込んでしまいました。

 結局会っただけで、何やら一方的に罵られ、愚痴を聞かされただけの状態です。

 すっかり身持ちを崩している彼のようすを語ったところで、勇ましいエリの溜飲が下がるとは思いません。

 せめて一発、殴ってやれば良かったでしょうか。


 そしてその時、あることに気づきました。


「……とうとう名前、わからないままでしたね」

「え、何が?」


 きょとんとするエリに、笑って首を横に振ります。

 どうせ、もう関わりのない人のことです。

 エリがどうしても気になるとでも言わない限り、私の胸に収めておきましょう。


 私だって恋する愚かな男のひとりです。

 彼に同情などはしてやりませんが、死体を蹴り飛ばすような真似はしないでおきます。

 どちらかというと、吸血鬼である私のほうが、死体に近い存在なのですけれど。




 ともかく、久しぶりの遠出も、吸血鬼ハンターなどに出会うこともなく、無事に終えることが出来ました。


「……ところで、エリの忘れものって、何だったか聞いても良いですか?」

「ああ、これ?」


 エリは私から受け取った文箱をあっさりと開けて、小さな紙包みを取り出しました。

 他にも小さな紙片などが入っていたようですが、目立つものはそのくらいです。

 ていねいに包みをほどいて、中の小さな黒い粒をエリは示しました。


「これ、ラベンダーの種よ。思い出したら気になっちゃって。こっちで育てても良いわよね?」

「……いちおう、ハーブの一種ですので、屋内に限りますけれど。スーと相談してくださいね」


 私には良い香りですが、吸血鬼にはふつう、ハーブの香りは嫌なものとして捉えられます。

 エリとの思い出の香りですが、それをかつてのように、外で楽しめないのはすこし残念に思いました。

 けれど何だか、それは思い出を彼女とふたりきりで占有しているようで、面映ゆく嬉しいですね。


「そっか、わかったわ。せめてあの温室を花でいっぱいにしてやるわよ」


 こちらの習わしに慣れつつあるエリは、さほど気にせず、愛おしげにラベンダーの種を手に包みました。

 私はとにかく、エリが楽しそうに笑ってくれるだけで充分なのです。

 こんなに笑顔が眩しい彼女を手放すだなんて、あの元婚約者は愚かな男ですね。


 私はみみっちくもせせこましい、ちっぽけな高慢さで、あの元婚約者への記憶を封印することにしました。

 ともかく私は、エリの笑顔と一緒にいられるだけで幸せなのです。


「押し花にしたら、外に持ち出しても平気かしら」

「ハーブの香りは残りますからね。すこし難しいです」

「ちょっと軟弱過ぎるわよ、吸血鬼さんって」


 やれやれと笑うエリに笑い返しているうちに、その月夜も更けて行くのでした。



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