51.残した者への想いがあります。
その町はうっすらと霧に沈んで、いかにも鬱々として見えました。
空は曇り、雨も近いのが、暗く重く垂れ込めております。
夕方に近く、そろそろ空も赤く閉ざされる頃合いですが、その温かみのある光は差し込みませんでした。
青く暗く、いかにも冷たい空気が、冷たい石造りの町を覆いつつあるようです。
以前見た時も、いかにも薄汚れて寂れた町並みでしたが、今現在はよりいっそう、寂しく廃れた雰囲気が漂っておりました。
人通りも少なく、また足早に道を行く人も、どこか陰鬱な表情を隠そうともしません。俯きがちに、みな口を閉ざしています。
「……どうやら戦も近いようじゃねえか」
そんな、陰気さを隠そうともしない声を耳にしたのは、寂れた界隈の一角にある、潰れかけの酒場でした。
「こっちはまだ辺鄙な町だからそうでもないが、国の反対側じゃあひどいことになってるらしいぞ」
「これでかよ。この町も終わりかね」
「あの無能領主じゃ仕方ねえ」
場末の宿の一階で、この町の者と、都から逃げて来たらしい者たちがたむろしております。
その会話が気になって、私はつい耳をそばだてました。
「この国はいけねえや、景気が悪くて仕方ねえ。このまま国境を越えて、隣の国まで逃げるつもりさ」
「……どうやって境越えすんだよ。お上はそういうとこだけはしっかり仕事しやがるから」
「難しいが、このままここにいても同じさ。あんたらも考えとけよ」
「どこの国も同じだろう。辛気臭い話しか聞かねえしな」
彼らの装いは、逃亡者と言われてもまったく違和感がないものでした。食うに食われず、止むに止まれず逃げ出そうというのは間違いないのでしょう。
この国は、隣国間との外交が上手くいっていないようでした。流通が滞る一方、流れ込むのは困窮者ばかり。
そしてそれは、近隣諸国もさほど大差ないようです。景気の良い話は聞くことはありません。
「……いっそのこと、吸血鬼どもの国のほうがましかもな」
町を追い出されかねない問題発言をしたのは、彼らのうち最も年配と思われる男性でした。
ふつうでしたら、そんなことを口にしたら良くて村八分、最悪は投獄でしょう。
けれど、その場にいた仲間たちも、景気が悪そうな顔をしている酒場の亭主も、反発するどころか苦々しく口を閉ざすばかりです。
「……恐ろしい話も聞くが、あの国じゃあすくなくとも、無駄に人が死ぬことは少ないんだろう?」
「そりゃそうだ。人間は吸血鬼サマの大事なお食事だからな。人死にはご法度、死なねえよう、貧乏人にもちゃんと食わしてくれるらしいじゃねえか。それどころか、美味い血の奴は優遇されるらしい」
「羨ましいこったな。俺も行ってみるかねえ」
「顔が良いとか悪いとかと、同じような話だろう。てめえの血が美味いなんてわかるのかよ? どうせ醜男は血も不味いんだろうよ」
「違いねえ」
どこか退廃的に笑う彼らは、いかにも辛気臭い雰囲気を漂わせています。
いろいろと間違っている話ですが、まったく見当違いとも言えないのが歯がゆいです。
けれど、冗談交じりで会話している彼らが、万一これから吸血鬼の国――極夜の国を目指しても、その地を踏むことはまず叶わないでしょう。
人の国からそこへ向かうには、国境もそうですが、何より広大な荒野が立ち塞がります。
そこは恐るべき魔物が跋扈する不毛の地、そこに境を接する国も、魔物への備えで精一杯です。中には吸血鬼でさえ手こずる魔物さえおりますしね。そんな中、境をつぶさに監視し、人が出国するのを咎めだてする余裕などありません。
けれど逆を言えば、国境警備兵も必要としないほど、恐ろしい壁がそこにあるのと同義です。凄腕の吸血鬼ハンターならともかく、一般の人が荒野を超えることはまず不可能です。
彼らはあれこれ、吸血鬼の国について眉唾ものの噂話を繰り返し、やけっぱちのように笑い合っております。
けれどその中のひとりがぽつりとこぼした言葉に、再び場は暗くなりました。
「……でも俺も、この町には残っていたくねえ」
「……そうだな。領主の噂を聞いただろ? とうとう唯一の財産を手放しちまったとか」
「鉱山だったか? あれを失くしてこれからどうするんだ。ただでさえ細々と掘ってて、大した儲けでもなかっただろうに」
「愛人どもも、みんな逃げ出しちまったらしいぜ」
彼らの話題は町の話題に戻りました。どうやらここの財政は、よほど逼迫しているようです。
そういえば、エリから亡くなった母の話は聞きましたが、領主の正妻の方は聞いておりません。もしかしたら独身であったのかもしれませんね。
「……元々悪かったが、ここ半年で転げ落ちるようだったな。何がきっかけだ?」
「ほら、あの吸血鬼騒ぎだろう。たしかあの頃からじゃねえか?」
「娘が吸血鬼に襲われたんだっけか」
私が思いを馳せていると、何とも興味深い話になってきたので、思わず耳をそばだてました。
見知らぬ人が自分の話をするのを聞くことは、少々後ろ暗さもあるのですが、何とも面映ゆく感じるものでもあるようです。
「あのジジイ、妾腹のガキを厄介払いしたかったんだろ? いい機会だったんじゃねえか」
「だがよ、その娘っ子がいなくなってから、一気におかしくなっちまった。召使いどもも何人もいなくなったし、娘の元婚約者って男もすっかり頭がいかれちまったとか」
「……悪いことは重なると言うが、ここまでとはな」
「その吸血鬼ってのが悪いに決まってる。どうせそいつの呪いだろう」
彼らはなおも、不景気な話題を続けております。
領主を扱き下ろしたり、吸血鬼を嘲ったりしておりますが、エリの話はこれ以上出て来ないようでした。
……というか、吸血鬼は確かに呪われているような存在ですが、人を直接呪うような術は……すくなくとも私は使えません。
ローラやクリスは嬉々として試すでしょうか? いえ、極夜の国で吸血鬼に逆らうような人間はおりませんから、呪術などそう使う機会はないでしょう。
むしろ、吸血鬼ハンターがやりそうですね。私もやられましたし。
そろそろ潮時のようでしたので、彼らの話を盗み聞くのを止め、席を立って勘定を支払い、外へ出ました。
日は落ち、私たち吸血鬼にとっておあつらえ向きの時間です。
……こうして、私がこの町にやって来たのは、ある目的のついでと、単なる好奇心でした。
ここは、エリが住んでいた町。
私が彼女と出会ったその町の中心街です。
この町の領主は彼女の父親で、お手つきとなった侍女との間に生まれたのがエリーゼです。
彼女は町外れの粗末な小屋に押し込まれ、自らの病と向き合いながら、ただ死が訪れるのを待っておりました。
そんなエリですが、今は吸血鬼の国で元気にしております。
彼女と、彼女について来たマリアとヨハン、イザベラも、すっかりアマデウスでの暮らしに慣れ、楽しんで毎日を過ごしているのです。
……ですが、生活の基盤も落ち着き、仕事やすべき目標も定めた今になって、故郷のようすが気になると彼女たちは口にしました。
その気持ちは、私にもよくわかるつもりです。
私が人だった頃、生まれ住んだ土地のことは、今でも気がかりではあるのですから。
……とはいえ、そこにはもう私の知る者は誰ひとりとしておりません。みな死んでしまうか、すっかり離散してしまったからです。私にとって血の繋がりのある者、親しくしてもらったおじさんは亡くなり、肩を寄せ合っていた貧民街のみんなは、既に行方を追うこともできません。
それでも、時折あの町のことを思い出すのです。
人ですらなくなったというのに、難儀なものですね。
……吸血鬼である私ですらそうなのですから、エリたちが故郷を思う気持ちはいかほどでしょう。
その気持ちを汲んで、極夜の国から出られない彼女らに変わり、こうして私はまたこの町に舞い戻ったのでした。
ひと通り町を見回りましたが、先ほどの会話のようなことを、ぽつぽつと耳にするばかりでした。
彼らの言うとおり、町から逃げ出す者も多いようです。今にも壊れそうな馬車にわずかな荷を積んで、数家族がまとまって門を出るようすも目にしました。
……どうやらもう、歯止めは効かないようです。
鉱山の他に見るべき産業もないこの町は、衰退の一途を辿ってしまうのでしょう。
その報告をするのはつらいですが、私にはどうしようもできません。
極夜の国、アマデウス領では領主という地位にある私ですが、人の国ではただのいち吸血鬼、人を襲う悪しき化け物です。
何の力にもなりませんし、なれません。ただ見たままを報告するほかないようです。
せめて、エリたちに何かお土産をと、ほとんど店が閉まっている商店街のような界隈をさ迷いました。
こうしてわずかばかりの店を回っても、子どもの玩具のような工芸品ひとつをとっても、極夜の国とは雲泥の差ですね。吸血鬼の技術や芸術性の高さを、改めて感じてしまいます。
ともあれ、私はゆっくりと暗い町を練り歩き、僅かばかりのお土産を買いました。
その足で更に、町の郊外へと向かいます。
……エリの住んでいた、あの小屋に行くのです。
季節も過ぎたためか、それとも世話をする者がないのか。
あれほど見事だったラベンダー畑は、すっかり様変わりしておりました。
ラベンダーのものか、それともただの雑草か、枯れて寂しげな色を残した葉が、わずかに残るばかり。
そのもはや畑と呼べない畑の向こうに、エリの住んでいた小屋があります。
あれからたった半年ほどなのに、粗末な小屋はすっかり荒れ果てておりました。
かつては古いなりに、きちんと掃除されて手入れされていたのでしょう。これはマリアたち、使用人の手入れがよほど良かったのでしょうね。
その人の手が入らなくなると、家屋というものはすっかり痛んで廃れてしまうようです。
猫の額のようなテラスに、私がよくお邪魔していた大きな窓、小さな台所に、申し訳程度の居間。そして、エリがよく休んでいた寝室。
そのどれもが、荒れ果てておりました。中には何者かに壊されたのか、崩れた家具もありました。
不審者でも入り込んだのでしょうか。ともかく、私はそれらの残骸を超えて、彼女の部屋に向かいます。
その部屋は他と比べて、いっそうひどいありさまでした。
棚は傾ぎ、中のものが床に散らばっております。元々ものが少なかったのか、足の踏み場がないほどではありませんが、嵐でも通り過ぎ去ったかのようです。
そのさまに眉を顰めながらも、私は寝台の側に歩み寄りました。
エリに教えてもらった場所……足が折れかけているベッドの下、わずかに歪んだ床板の下に、小さな文箱がありました。
彼女が気にしていた“忘れ物”です。
『――あそこを出る時、お母様の形見の他は要らないって思ってたし、実際そうなんだけど、もうひとつ持ち出したいものがあったのよ。それも持って行こうと思ってたのに、あの馬鹿どもに攫われたもんだからそのままになっちゃって。大したものじゃないんだけど、今更になって気になって』
そんな彼女の言葉もあり、私はそれを回収しに来たのです。
見つけた文箱を手に取って立ちあがった時に、その声は聞こえました。
「――おい吸血鬼! これでも喰らえ!」
粗野な声。唐突なその呼びかけに、私はいたって落ち着いて、そちらを振り返りました。
そこには、十字架を手に凄む若い男性の姿。見たことのある顔です。
「よくものこのこ現れやがったなっ! どうだ、苦しいだろう!? 大人しく這いつくばりやがれ!」
彼は十字架をせいいっぱい掲げ、こちらに押し付けるようにします。
とはいえ、寝室の入り口ですから、今すぐ私に掴みかかれる距離ではありません。仮に掴みかかられても、あっさりあしらえますしね。
男性は、焦げ茶色の髪に瞳。深い顔立ちでなかなかの美形なのに、卑しい表情のせいで台無しです。
そう。エリの元婚約者その人でした。
「は、ははっ、どうした、声もでねえのかよ! 動けねえのかっ!? ほら、そこに跪け!!」
彼は歪んだ表情で喚き散らしますが、私に十字架は効きません。どうやら他にも、対吸血鬼用の品を持っているようですけれど、そちらも同様です。
まあ、エリたちを攫って逃げる時は、吸血鬼ハンターばかり怖れて、とにかく逃げの一手でしたから、そういったこともご存じないのでしょう。
……彼が私の後をついて来ていたのは知っていました。
そのために、わざわざ町をうろつきまわっていたのですからね。もっとも、エリの元婚約者は、この町のそこそこの豊かな商家の子息としか知りませんでしたから、町に残っている大きめのお店を回っただけですが。
遭遇できるかは賭けでしたが、どうやら上手く誘い出されてくれたようです。
彼とはかつて、一度だけ会っています。その時がその時ですから、たぶん覚えていて、気づいてくれるだろうとは思いました。その時と同じ服装に、フード付きの長い外套を羽織っただけですし。
もっとも、そう人目にわかりやすい、覚えてもらえるような目立つ風貌ではありませんが……。
さて、こうして会えたのですが、まずは何と言ってやるべきでしょうか。
どうしたものかと思案して動かない私に、元婚約者はさらに喚き出します。
「てめえの……、てめえのせいでなあ!!」
裏返った声に、私ははじめて驚いて、彼の人のようすをじっくりと眺めました。
……その目は濁っており、白目が黄色く、そして充血しておりました。
装いも、すっかりくたびれているようです。髪も乱れておりますし、以前会った時と比べて、ややみすぼらしくなったように見えます。
この町と同じように。
町で聞いた噂話に、彼がすっかりいかれてしまったなどとありましたが、どうやら真実であるようです。
鬼気迫ったようすの元婚約者は、今度は一気に声の調子を落として、ぶつぶつと呟き出しました。
「……あの女が、あの女がいけねえんだ」
つい今さっきまで、仇でも見るように私を睨みつけていた彼ですが、どうやら今度の矛先はエリに向いたようです。
「俺が、この俺がいるっていうのに、吸血鬼なんぞに騙されやがって……。他の男についていくなんて」
目は血走り、その大きな口からは、ぎりぎりと歯ぎしりまで聞こえてきます。
一体、どんなことが彼の身の上に起こったのでしょう。
以前見た時も高慢な男であるのは窺えましたし、その下品な物言いからも良い印象は持っておりませんでしたが、この変わりようは驚くものでした。
「……あいつがいなくなってから、何もかもうまくいかねえ。親父は商売をしくじっちまうし、領主殿もあてにならねえ。エリーゼを探せって言っても、自分のことばっかりで埒があかねえ……娘が吸血鬼に攫われたってのによ。教会も胡散臭えし、ハンターどもも腰ぬけばかりだ。何が名門だ、たかが野良吸血鬼一匹探し当てられねえくせに」
……ハンターの名門というのは、ヘルシングのことでしょうか。
あの時も追手がかかりませんでしたし、おそらくはディートリンデの配慮があったのだと、私は勝手に思っています。
ふつう、人が吸血鬼に攫われたとなれば、教会やハンターが総出で行方を追いますが、私の時はそのような背景もありますし、今のところ、私を積極的に狙う者もありません。
クリスほどではありませんが、私も伝手を頼ってハンターたちの動きに探りを入れて入るのです。狙われるのは怖いですしね。
「みんな、みんな役立たずだ。あの女だって、ただの足手まといじゃねえか。使用人どもも俺を馬鹿にしやがるし、親父も怒鳴り散らすだけ……領主も役に立たねえし、何が金だ、権力だ。どいつもこいつも無能ぞろいの癖に、俺を馬鹿にしやがって……許さねえ」
元婚約者はなおも、今の自分の置かれている状況や、その周囲の者たちを罵りました。
聞いていて胸が悪くなるようでしたが、何を言っても届かないように思えて、私は沈黙したままです。
「あいつが、あいつが悪いんだ。俺がいるってのに……」
どうやら元婚約者の思考は、そこに尽きるようです。同じような話の繰り返しになって来ました。
あいつ、とはエリのことでしょうけれど、彼女の一体何が悪いのでしょうか。
吸血鬼について行くなど、人にとっては悪でしょうけれど、エリは虐げられ、無為に放置されていたのです。そのままただ、死を待つばかりでした。
そこから逃げ出すこと、生きることが悪などと、虐げていた者が言って良いことではないでしょう。
「エリーゼ、俺を裏切りやがって……こんな吸血鬼に騙されるだなんて……」
なおもぶつぶつと呟き、震える手で十字架を握り締めながら、今にも泡を吹きそうな表情です。
……それにしても、この人のエリへの妄執は一体何なのでしょうか。
今頃になってまでも、こうも強い執着を見せるとは、彼にとってエリはどのような存在だったのでしょうか。
元婚約者とあるとおり、エリを一方的に捨てたのは彼のはずです。
彼は病弱であったエリと婚約しておりましたが、健康で若い女性がいいと、エリをこの小屋に置き去りにしたのです。放置して虐待した父親と同じように、エリのことをどうでも良いと思っていなければ、そのような行いをするなんて、とてもできないでしょう。
こうして今も、エリのことを散々罵っている彼です。かつても、無駄飯喰らいであるとか、死ぬまで小屋にいろとか、その他諸々、聞くに堪えない罵り言葉を吐いていたのです。
そこに、親愛の情など欠片も見えませんでした。
……けれど、今になった見せる彼の表情は、まるで別の男性に意中の女性を奪われたかのような、醜い嫉妬が剥き出しのものでした。
彼は、エリを愛していたというのでしょうか。
あのような酷い態度で、汚い言葉を吐きかけながら?
「……あなたは、彼女を愛していたのですか」
たまらず問いかけたその言葉に、元婚約者は一瞬呆気にとられたようでした。




