47.憂い人には花が似合います。
フランチェスカ公とローラを見送ってから、私はプリムローズと共にバラ園へ足を踏み入れました。
幾何学模様を描くように、バラの垣根や植え込みが整えられています。とりどりのバラが咲き誇り、良い香りも漂っていました。
「このバラの種類を知っているか? アマデウス卿」
プリムローズが指差したバラは、白地に赤の縞があるすこし変わったもので、ちょうど蕾から花開いたばかりのようでした。
花は好きですが、それは見て美しいと感じるのが楽しいだけで、詳しくはありません。私は申し訳なく軽く頭を下げました。
「申し訳ありません、存じません」
「ふふ、そう情けない顔をするな、私も知らん」
プリムローズはゆったりとした歩調で、庭園を進みます。僭越ながら私がエスコートしつつ、そういえば私もじっくりとバラを眺めるのは久しぶりだと思っておりました。
スーの住む植物園の檻には天然のものが多いのですが、こちらの園の植物は、品種改良が重ねられている種がほとんどで、年中花を咲かせるのです。
剪定する者には大変でしょうけれど、手入れをすればするほど美しくなりますし、城の者はみな働き者です。きっと生き生きと仕事をしてくれているのでしょう。
現に、彼女が物珍しそうに見ているバラたちは、どれも美しく咲き誇っています。手入れが良いのでしょうね。
「……正直、城内どころか領内のことについても、何から何まで人任せでしたので、ほとんどをよく知らないのです」
私は正直に告白しました。このバラ園だって、エリとひと通り巡ったりもしたのですけれど、私は彼女にばかり夢中で、きちんと花を見ていなかったように思います。申し訳ないばかりです。
プリムローズはそんな不真面目な告白にも怒ることなく、むしろ冷たい表情を綻ばせました。
「卿はずいぶん腰が低いのだな。フランチェスカ公には伺っていたが、らしくない吸血鬼というのもうなずける」
「まだまだ若輩者ですので、威張るほどの力も能がないのですよ」
「そうだろうか? 私にはもっと違うものに思えるが」
プリムローズは縞模様のバラから目を逸らし、小ぶりな花がたくさん顔を覗かせる生垣の前に立ちました。
「人から吸血鬼になった者は、多かれ少なかれ、精神の変調と性格の変容が起こるものだ。性質はより残虐に無慈悲に、人へ対する共感を失ってしまう。これは吸血鬼にとって必要不可欠なものだ。そうでなければ生きて行けない」
「それは、そうだと思いますが」
「しかし卿にはそれがあまり見られないようだな。いくら若くても限度がある」
「……そうでしょうか?」
何やらどこかで聞いたような話ではありますが、そんなことはないと思います。
人だった頃の私でしたら、吸血鬼が人の生き血を啜ることを受け入れられるとは思えません。それで、家族を失ったのですから。
ローラのように人を洗脳してしまう吸血鬼も、クリスの、そして目の前のプリムローズのように、人の命を奪ってしまう吸血鬼の存在も、きっと許せなかったでしょう。
ですが今の吸血鬼の私は、彼女たちの犠牲となる人間を痛ましいと思いながらも、助けようともせずに放置しているのです。これはまともな人間の精神とは言えません。
私が吸血鬼らしく見えないのは、ただ貧民であった頃の気分が抜けていないからでしょう。
支配者層の上流階級である風格も、私にはあったものではありませんし、最近やっと仕事をするようになったばかりです。立ち振る舞いだってまだまだ勉強中ですし、周囲が私に非常に甘いからこそ、何とかなっているだけなのです。
すべてはミラーカの残した財産や立場、双子の尽力や領地内の血族、そして真血のおかげです。
そしてそれらは、私が自力で獲得したものではありません。
そんなことを私が言うと、彼女は愛おしそうにバラを撫でながら呟きました。
「確かにそれらのすべてが卿の功績ではないだろう。だが、それは卿が受け入れたからこそだ。吸血鬼の立場を“理解”したとも言える」
「理解、ですか?」
「そうだ。例えばだが、卿が人だった頃、食べるものに感謝こそすれど、食物となるものが可哀そうだからと、食べることを止めたことはあったか?」
プリムローズの唐突な話に、私は虚を突かれた気分になりました。
ですが恐らく、彼女の言おうとしていることはわかります。人が吸血鬼となってから、はじめにぶち当たる壁はその“食事”でした。それまで自分と同じ者だったものを獲物と理解して受け入れなければ、とても吸血鬼としてやっていけません。
それがどれだけ残虐なことであっても、それでも受け入れねばならないのです。
まともに殺生をしていることを、生命の尊厳を踏みにじってしまうことを、まざまざと感じてしまうために、躊躇う者も多いのです。
……それを乗り越えると、元が人だったことすら忘れてしまう者も多いのですが。
私は戸惑いながらも、かつてのことを思い出しておりました。
救世主教では、食べ物は全て天の恵みで、感謝していただくものです。人が食べる為に生まれて来た、という考えですね。ですがそれでも、牛や豚などの家畜を屠殺することを、可哀そうだと思う人間もいるでしょう。
もっとも、私は食べるのに必死で、好みだとか嫌いだから食べたくないなどという贅沢はとても言えず、肉などという高級品もとても手が出ませんでしたが。
「……いいえ。ですが、意思疎通の出来る人と、それがわからない獣とでは、殺す意味合いも変わって来るでしょう?」
「それは何故だ? 人が食われるのは可哀そうで、獣は可哀そうではないと思うのか?」
「そうは思いませんが、人は自分から近しいものを殺して食べることを拒絶します。同じ赤い血を流すものであればさらに。言葉が通じれば尚さらでしょう」
上手く言えずにいると、プリムローズは大きくうなずきました。
彼女の鋭利な目で見られると、どこかうすら寒い感覚に陥ってしまいそうになります。
「そうだな。獣や魚を殺すことを躊躇っても、植物を生きたまま切り刻んで食らうことに躊躇する者はいない。愛猫が死んで悲しむ者はいても、その足元で蟻を踏み潰すことに気づく者も少ない。ましてやそれを悼む者はな」
「……ええ、そうでしょうね」
「大した害でもないのに、蚊を叩き潰すことに迷う者もいないだろう? おっと、伝染病の可能性は除いてくれよ? 水を飲むのにも、中に生きる微生物を殺すのだと理解している者もいない。体内に侵入した細菌やウィルスを免疫で殺すのもな。みな懸命に生きているだけだというのに」
プリムローズが肩眉を上げて、おどけるような表情を浮かべましたが、実はそれはものすごく珍しいものだったのかもしれません。
いやしかし、さすがに植物や微生物、細菌やウイルスの類はまた違うと思うのですが。
そう感じたのですが、プリムローズの目はいたって真摯なものでした。
……さすが、始祖の眷属たる大吸血鬼。命はすべて平等、人だろうが病原菌だろうが、差別しません。
もっとも、人の生き血のみが吸血鬼の糧となりますから、そのあたりの区別はするようですが。
すっと表情を元の冷たいものに戻すと、彼女は自嘲するように笑いました。
「ああ、まったく、若い者を見るとつい説教してしまう。年寄りの悪い癖だな。だが今言ったことは、私が幾人にも繰り返し言って来たことでな。人から吸血鬼になったばかりの者は、人を殺すことをとにかく認めたがらないのだ。今までに散々、他の命を奪って来たというのに。……だがそれも、いずれ慣れる」
プリムローズの面には、自分もかつてはそうだったことを思い出しているような、深い深い思考の揺らぎが見えました。
「人だろうが吸血鬼だろうが、仕方のないことをいずれは受け入れてしまうと言いたいのだ。自分にとって都合の良いことを、受け入れるしかないと理解するのは早いのだ、とな」
「……そうでしょうね」
「そう。吸血鬼を非難する癖に、自分たちの犯す殺生には無頓着なのが人間だ。それでいて生命を尊重しているつもりなのだから呆れ返る。これほど差別的で無慈悲な生き物だから、それを殺すためのより無慈悲な存在……吸血鬼が生み出されたのだというのに」
私はふと、彼女は真祖に会ったことがあるのだろうかと口を開きかけましたが、プリムローズはそれを押し留めました。
「ああ、怖れ多いことだから言わないでほしい。私はご真祖にお会いしたことはないよ。始祖たるヴラドにはあるそうだが、かのお方もやすやすとお会いできる存在ではいらっしゃらないからな」
「やはりあなたも、吸血鬼は人を殺す為に生み出されたのだとお思いになりますか?」
「そうだろうな。人間を支配して生殺与奪を握る、そのためだけの存在だ。人はすべて吸血鬼となる因子を持つが、科学者たちがどれだけ努力しようとも、魔法技術がどれほど高まろうとも、それを突き止めた者はいないのだから。因子を持つ人が生きる限り、吸血鬼は決していなくならない。たとえ直系の血族が絶えたとしても、必ずどこかで発生するものなのだ。これを作為的と言わずに何とする?」
プリムローズは公爵夫人で、その系譜は元老院にも近いでしょう。吸血鬼の魔法技術は広く極夜の国に広まっておりますが、その中枢はやはりそこにあります。
その技術を結集しても解明できないとなると、それはもはや、真理に近いのでしょう。
「……それにご真祖は、たとえ心臓に杭を打たれても死なぬと聞く。永劫の絶対存在らしいぞ? 信じるか?」
決して死なない存在があるとは思えませんが、出鱈目な存在である吸血鬼ですから、あり得ないと言い切れないのが恐ろしいです。
ですがそうすると、例えば人が死に絶えてしまったら、真祖は死ぬことも出来ずに永劫を苦しむのでしょうか。
それとも、真祖というだけあって、人の生き血を啜らずとも生きられるのかもしれません。
あるいは、死んでしまってもまた生き返るような術を、持っているのかもしれません。
「……理不尽な吸血鬼の王たるお方ですからね。そうであっても可笑しくないのかもしれません」
「……そうか。ふふ、そうだな」
プリムローズは一瞬、何かを言いたげになりましたが、その気配はすぐに霧散しました。
疑問に思いましたが、それはあまりに儚かったので、気にしないことにいたします。
彼女は威圧的な雰囲気を和らげて、再びバラの園を見回しました。
私にとって背筋が冷えるような話が続きましたが、彼女の言うことには一理あるように思えます。そもそも領主などに納まって、吸血鬼が人の生死を握っていることを見逃すどころか推奨している立場なのですから、何も申せません。
こうしてそれを後ろめたく思うことこそ、可笑しいことなのです。
「卿は吸血鬼にあるまじきことに、吸血鬼に理解を示しながらも、根本からは受け入れてはいないように思える。吸血鬼でありながら、非常に人間臭いとも言えるな。それが危うく見えるのだ」
「……そうかも、しれません」
こうしてプリムローズと話していると、私はふと思い出す顔がありました。
ディートリンデです。最強の吸血鬼ハンターたるヘルシング家の者で、遊撃部隊の隊長。
彼女もどこか、プリムローズと似た憂いを背負った人でした。
人の上に立つ強者というものは、ディートリンデやプリムローズのように、毅然としつつもどこか甘い理想を捨て切れない者たちなのでしょうか。
それはきっとつらいでしょうに、なまじ強いばかりに、理想を追い求めることを止められないのでしょうか。
プリムローズも人に対して辛辣のようでしたが、その言葉のどこかに陰りがありました。
それを、人に対する哀れみだと思うのは、私の思い過ごしでしょうか。




