3.約束しました。
「知ってたわよ。それくらい」
あまりにあっさりと、エリはそう答えました。
私の告白を聞いて、すこしばかり目を見開き、続いて顔から表情を消し、そしてやや憮然となって、やれやれと首を振ってからのこの物言いです。
吸血鬼である私を前に、この馬鹿にしきった呆れ顔。
どうやら私が思っていた以上に、強い女性だったようです。惚れ直しますね。
テラスの安楽椅子にゆったりと座ったまま、エリは腰に手をやって胸を張りました。
呆れた顔のまま、やや呆気に取られている私に向かって口を開きます。
「それで、あなたが吸血鬼だからってどうなるの?」
「……え、えっと、そうですね。エリも吸血鬼になりませんか?」
「なりません」
ぴしゃり、とエリは言い放ちました。
たったひと言で玉砕です。あっさりふられてしまいました。
答えるまでに、ほんの一拍の間もありません。彼女には迷いが一切ないようです。取りつく島もないとは、まさにこのことでしょう。
一刀両断された私は、何とか彼女に吸血鬼となっても良いと思えるよう、懸命に言い募りました。
「……どうしても、ですか? 吸血鬼になると、えーっと……力が強くなりますよ?」
「か弱い乙女が怪力を求めると申すか」
アプローチの仕方が悪いようです。私はさらに思考をめぐらせました。
「……それじゃあ、霧に化けられるようになるとか。他にも、カラスかヘビか、オオカミかトカゲか、コウモリか不定形なモノ、どれかに変身できるようにもなりますよ?」
「別に化けたくないし。というか、霧はわかるけど、他は何でその六つ? しかも不定形って何よ、怖い」
「吸血鬼にはその六つの血族があるのです。あ、魔法が上手ければもっといろいろなものにも化けられますよ。心惹かれません?」
「惹かれません」
なかなか手強いです。でも、彼女を諦めたくはありません。
私は必死で、どうにか彼女の気を惹くことがないか、吸血鬼の利点を探しました。
……吸血鬼、弱点が多くて欠点ばかりですよね。
「えっと……そう、アレです。たぶん永遠の命に近いものが手に入ります」
「まあ、それが吸血鬼の唯一の利点よね。でも永遠はちょっと長過ぎ。健康で、ふつうのお婆ちゃんになるまで生きられたら十分だわ」
ばっさりです。確かに吸血鬼は見た目、とても不健康そうです。蘇った死人ですからね。
とはいえこの体、具合が悪いとか気持ち悪くなるとかは無いのですよ。人がかかるような病にもなりませんし、風邪もひきませんし怪我にも強いし頑丈です。それに、私も瞳の色を隠していますし、すこしくらい体を変化させて誤魔化すのは得意です。
とにかく、永遠の命が彼女の求めるものでないとするならば、他の利点を示さねばなりません。
「……血って、実は美味しいですよ?」
「それはあんたが吸血鬼だからでしょ。特殊な嗜好の人出もない限り、ふつう気持ち悪いのよ」
確かにそうです。私もはじめはそうでしたが、忘れておりました。私はもうすっかり、身も心も吸血鬼になってしまっているようです。
それにしても、さっきから一刀両断にされっぱなしです。困りました。
「え、えぇっと……」
「お話はこれだけ? ……せっかくご提案いただいたのに、申し訳ございません。今回は見送らせていただきます」
「そんな商談みたいな断りでなくとも」
私は縋るような気持ちでいましたが、困ったことに、お誘いする利点がもうありません。
ですが、これはいわば、エリの命を代償に支払われる、高い高い買い物です。なので、彼女にお願いはできても、無理な譲歩をこちらから強いることはできません。
私が途方に暮れていますと、エリがくすくすと笑いました。
「それよりも。ねえ、アベル? あんた、わたしに言うことがあるんじゃないの? そっちだったら受け付けるわよ」
ふと顔をあげると、エリの翠の瞳が悪戯っぽく光っているのがわかりました。
……私も腹をくくりました。姿勢を正して、真摯に聞こえるようせいいっぱいの気持ちを込めて、それを告げます。
「私はエリが好きです。お付き合いしてくださいませんか」
「はい、喜んで。わたしもアベルが好きよ」
私は歓喜に満ち溢れました。もちろんすかさず付け加えます。
「それでは吸血鬼になりましょう!」
「だからなりませんって」
二度目の撃沈です。どうしてでしょう。
落ち込みながら首をひねる私に、エリがやはり呆れた声をかけます。
「それとこれとは別でしょ? わたしは人を辞めたくないの」
「……でも、それだとエリと長く一緒にいられません」
「そうね……」
私の言葉に、彼女の顔に陰りが浮かびました。
彼女自身も重々承知していることでしょう。限りある命の人間と、永遠を生きる吸血鬼。そのふたりが一緒に入られる時間はそう多くありませんし、それにエリと私とでは、それはさらに短いものになるでしょう。
彼女だって知っているはずです。エリはこのままでは、そう長く生きられないと。
話せば快活で元気そうに見えますが、エリの病は着実にその体を蝕んでいます。このままでは、もって二、三年でしょう。私は吸血鬼ですので、死の気配には敏感です。
そんなに短い間しか、彼女と一緒に居られないのはつらいのです。
「だからエリも吸血鬼に」
「だからイ・ヤって言ってるでしょ」
けんもほろろに突き離されてしまいました。
あと二、三年の間だけ、私に付き合ってくれるということでしょうか?
……それだけでは、寂しいです。
「……ねえ、アベル。どうしてわたしを無理やり吸血鬼にしないの?」
不意に落とされたエリの疑問に、私は首をかしげました。
彼女を無理やり吸血鬼にして、どうしろと言うのでしょう。
「だって、吸血鬼になる方法はいっぱいあるわよね? 一番簡単なのは、あなたが私の血を吸いつくして殺すこと、でしょう?」
「ああ、さっきもそう言いましたしね、吸血鬼になる方法。でも、それには間違ったことや落とし穴があるのです」
今度はエリが首をかしげます。私はかつて聞いた話を語りました。
「吸血鬼になる方法は数あれど、それが全部正しい訳ではありません。それにそういった人が全員、吸血鬼として蘇るわけではないのです。もしそうだったらこの世の中、吸血鬼で溢れかえってしまいますからね」
そしてその結果、人はあっという間にいなくなってしまうでしょう。その生き血を啜って生きる吸血鬼も、遠からず絶滅してしまうのです。
「吸血鬼になるには、その人自身に”吸血鬼になる因子”……素質が必要なのです。同じ条件でも、吸血鬼になれる人となれない人がいるのですよね」
「……私にはそれがあるの? あれ、でも強要しようがすまいが一緒よね、それだと」
「素質がどんなものかは誰も知りません。死んで蘇ってはじめてそれがあるとわかります。エリが必ず吸血鬼になれるかどうかは、私にもわかりません」
「……だったら、何故?」
私はせいいっぱい、虚勢を張って笑いました。ここで挫けては説得などできません。
「好きな人が私のために、命をかけてくれるだなんて素敵でしょう?」
「……騙された。アベル、あんたとってもいい人に見えたのに、とんでもないわ。やっぱり吸血鬼なのね」
嫌なものを見たかのように、エリが顔を歪めます。それは甘んじて受け入れましょう。
私はどうしても、彼女と一緒にいたいだけなのですから。
「すみません。私がそうしてほしかっただけです。ですが、自ら望んで死んだ者のほうが、吸血鬼になる可能性が高いのです。私はエリ、あなたとずっと一緒にいたい。どうか受け入れてくれませんか」
口下手な私の必死の説得は、彼女に届いているのかいないのかはわかりませんでした。
蔑む目はなくなりましたが、エリは何事かじっと考え込んでいます。
もうひと押し、と私はがんばりました。
「それに、エリ。あなたはこのままではそう長くは生きられない。それはわかっているのですよね? それで絶望していたのではないのですか? だから、お誘いしたのです」
「……違うのよ。長生きできないから、病気だから絶望したって訳じゃない」
私はまたも首をかしげました。では、彼女は何に苦しんでいるのでしょう。
私の疑問に答えるというより、苦しい心内を吐きだしたかったのでしょう。エリはぐっと拳を握りしめて力説しました。
「こう見えてね、わたしには婚約者がいたのよ。わたしが病気でも構わないって言ってくれた人が。でも結局、そのひとはわたしの元から去って行ったわ。やっぱり健康で美人な娘がいいってほざいてね」
酷い人もいたものです。やっぱりなどと言うのであれば、はじめからよくよく考えて止しておくものです。
それで置き捨てられた者の気持ちは、一体どうなるのでしょう。
幸いと言うべきか、今のエリの瞳にあるのは怒りの炎のようでした。冷たい悲しみの色でないことを喜ぶべきでしょうか。すこしばかり怖いようですけれどね。
「それで用なしになったわたしは、こんなところに押し込められた。それ自体はいいのよ、もうあんな奴にも旦那様にも期待してないし。ただ、わたしを傷つけた連中がこのままのうのうとのさばって、わたしだけがひっそり誰にも悲しまれず、たったひとり死んでゆくのが許せなかっただけよ。あいつらには一度ぎゃふんと言わせないと、わたしの気が済まないわ」
たくましい女性です。惚れぼれします。
……けれど、そんなつらそうな顔をして残りの人生を過ごすのは、それはそれで苦しくはないのでしょうか。
言わずもがななことでしょうけれど、私は思わず聞いてしまいました。
「ぎゃふんは確かに言わせたいですけれど、つらくありませんか」
不意にエリは息を止めたようになって、握りしめていた拳を開きました。
大きく息をついて、肩を落とします。
「……まあね。わかってはいるのよ、つまらないことだってことは。やったってわたしの溜飲が下がるだけで、結局何も変わらないんだから。わたしは健康じゃないし、婚約者がいい男になって戻って来る訳でもないし、来たってお断りだし。旦那様は優しくならないし、お母様も帰って来ない……」
父親を旦那様と呼ぶ彼女の、伏せた顔が切なそうです。私まで胸が苦しくなりました。
ですが、流石と言うべきでしょうか。すぐにエリはぱっと顔を上げてにやりと笑いました。
「だから、あなたに会った時ね、思ったのよ。あーここで吸血鬼に襲われて死ぬんだなー、でも絶対吸血鬼になって蘇って、あいつらに復讐してやる! ってね」
私は感心しました。私はかつて一度でも、ここまで居直ったことがあったでしょうか。
「エリ、あなたはたくましいですね、ますます惚れそうです。でも、エリは人でいたいと先ほど言いませんでしたか?」
「あのねえ。ふつうに考えてみなさいよ。こーんなか弱い乙女が、吸血鬼から逃げられると思って? あんたを見た時に吸血鬼だってすぐわかったし、それで死にたくはなかったけど、とうとう年貢の納め時かなって、思わず観念しちゃったのよ。わたしだって、自暴自棄になる時くらいあるわ」
そうでしょうか。彼女と会った時、いたって冷静に見えたのですが。
「……何故、私が吸血鬼だとすぐわかったのですか?」
わたしの疑問に、エリは今までで一番呆れた顔をしました。
「……あんたね。この世のどこに、こんな夜更けに乙女の前に恥じらいもなく湧いて出て、『良い夜ですね』なんて歯が浮く台詞をほざく青白い顔の男を、吸血鬼だと思わない人間がいるのよ」
「……確かに、そうですね」
言われてみればその通りです。うっかりしておりました。
ふだんは町中で女性に声をかけるものですから、彼女らと雰囲気の違うエリに対して、何と声をかけたものか、すぐに思いつかなかったのです。
街灯の下だと、私の肌の色もそうわからないのですが、こう人工の光のない場所では気をつけねばなりませんでした。
私が自分の失敗を反省していると、ふとエリが真顔になります。
「……こんな紳士な吸血鬼がいるとは思わなかったから、これでも戸惑っているのよ? 無理やり吸血鬼にされないなら、わたしは人のままでいたい。けど……」
エリは躊躇いがちに目を伏せ、やがて決意を込めた目で私を見ました。
「このままじゃ長く生きられないのはわかってるの。それにわたしもあなたが好きだから、出来るだけ長い間、一緒にいたいとは思ってる。……でも、吸血鬼になるだなんて、人を辞めるだなんてこと、簡単に受け入れられないし、すぐに決心がつくものでもないのよ」
……それは確かにそのとおりでしょう。
もともと吸血鬼のことや、それになりたいなどとは思っても見なかった彼女です。そもそも吸血鬼に進んでなろうとする人間など、滅多におりません。人の仇敵となるのですから、相当な覚悟も要ります。
エリはひと息ついてから、思い切ったように顔をあげて、私の目を見つめました。
「ねえ、わたしに時間をちょうだい。そう残されてないけど、その間に、せいいっぱい考えてみるから」
「……それだけで、十分です」
エリの気持ちが嬉しいです。
できればすぐ吸血鬼となってほしいのですが、無理強いはできません。吸血鬼になるということは、たとえ病死という道がなくなっても、たくさんの不利益を彼女にもたらすのですから。
それを後悔させたくないし、後悔させないように、私も尽力すると決めています。
「ありがとうございます、エリ。あなたが私と一緒にいることを望んでくれるよう、祈っています」
いずれ彼女が私とともに生きる道を選んでくれることを祈って、私は微笑みました。
が、彼女の言葉はそこでは終わりませんでした。エリは背筋を伸ばして正面から私を見据えます。
「そのかわり、あなたにもやってほしいことがあるのよ」
「やってほしいこと? 私にですか?」
私は首をかしげました。吸血鬼である私にお願いと言われても、前述の人を吸血鬼に変えること以外、何ができるでしょう。この国では何の権利も持たない、ただの野良吸血鬼である私です。
エリの表情は真剣でしたが、その目には悪戯っ子のような、どこか面白がる光が見えました。
「もちろん。わたしを吸血鬼にするっていうなら、そのことはわたしが考えて決める。そのかわりにあなたには、吸血鬼であるあなたが人になれる方法を探してほしいの。それでおあいこでしょ?」
私は思わず絶句いたしました。すごいことを考えるものです。
人が吸血鬼になることはあり得ても、逆は聞いたことがありません。
私もかつてはそれを望んだこともありましたが、とうに諦めておりました。どうすることもできなかったからです。
それを彼女は、当然のことのように言うのです。
エリが吸血鬼になるか、私が人に戻るか。どちらかにしようと言いたいのでしょう。
根本的な解決にはなりませんが、同じ種族となって同じ時を一緒に過ごそう、そう言ってくれているのです。
荒唐無稽のようですが、でも、それはとても素敵なことだと思いました。
とはいえ、ほんとうにそんなことができると、そう思っているのでしょうか。私はエリをまじまじと見つめましたが、彼女はいたって本気のようでした。目が燃えています。
エリはにっこり笑って、それから私を値踏みするようにじろじろと眺めます。
「とりあえず、あんたってそこそこお金持ちよね? 身なりもいいし落ち着いてるし、顔もまあまあ好みだし、スタイルはすごく素敵じゃない。わたしはそう高望みしないけど、あんたって相当優良物件よね?」
「えっと、たぶん……?」
優良だとしても、吸血鬼なのですから正直うなずけません。
生前の私は貧乏でしたが、私にはミラーカから継承した領地と地位、莫大な財産があります。吸血鬼になってからというもの、金銭面で困ったことはありません。生前の私が何だったのかと、思わず恨めしく思うほどです。
それに、身なりには常日頃から気をつけています。ごく普通の町人に見える何の変哲もない服ですが、仕立ては良いものです。
何故なら、食事をする際には大事なポイントですからね。見てくれも人に不快感や不審感を与えないことに、重々留意していますとも。身ぎれいにしておくことは、吸血鬼であることを伏せて潜み、人を襲って喉の渇きを癒すにはとても重要な事なことです。
とにかく、そんな私をエリが気に入ってくれたのならば何よりです。
彼女は両腕を構え、力を込めて叫びました。
「人になったアベルを連れてって、旦那さまと元婚約者の野郎に『わたし、彼と結婚するの!』って言ってやりたいのよ! 見せびらかすの! あいつら、一度自分のものだと思ったものは、何をしても自分のもののままだって思ってるクズだから、きっと悔しがるわ! ああ、何て心躍るのかしら!」
……大変です。
エリはたくましいのも確かですが、すこしばかりグレてしまっているようです。
彼女が荒みきってしまう前に、何とかしなければならないでしょう。
「わ、わかりました。エリ、あなたの野望に私も乗ります。あなたを傷つけたその連中に、ぎゃふんと言わせたいのは私も同じですし。なので落ち着いて。騒ぐと体に毒ですよ」
必死に彼女を落ち着かせました。私のほうこそ青くなっていたことでしょう。
そんな私を尻目に、しかし彼女は案外平気そうでした。色の悪い肌ですが、頬にすこし赤味が差しています。
復讐もある意味、人の生命力に活力を与えるものなのでしょうか。
「アベル、あなたできるだけ早く人間になって戻って来るのよ! まあ私のほうも考えておくから!」
「……はい。前向きに頑張りますので、エリも前向きに検討をお願いします」
「うん、お互いにね。約束よ」
にっこりと笑う彼女の顔に、私も腹をくくりました。
人が吸血鬼になる方法は数あれど、その逆など聞いてことがありません。
でも、やるしかなさそうです。彼女と約束したのですから。
ラベンダーの香りの中、私は夜道を戻りながら、真剣に考えました。
……さて、何の方法も思い浮かびませんが……どうしましょう?