2.恋に落ちました。
そんな、あても無くあちこちをさ迷う日々が変わったのは、ほんのすこしのきっかけでした。
たまたま訪れた寂れた町で、その日の食事を物色していた時のことです。
その町は何の変哲もない……いえ、いかにも寂れて衰退の色が濃い、よくある小国の小さな町でした。領主の館ばかりが虚勢を張ってそびえ、他の家々は息を潜むようです。
商店街や繁華街には空き家が目立ち、開いている店もどこか裏寂れております。道行く人もどこか俯きがちで、足早に道を行くばかりでした。胡乱な風体の者も目立ちます。
正直、景気の良さそうな場所ではありません。これでは獲物を物色するのも一苦労でしょう。
今夜はこの町で食事をとるのは諦めて、他の町へ行こうと、街道に足を向けた時でした。
夜風に甘い匂いを感じました。どうやら花の匂いです。どこか近くに花畑でもあるのでしょうか。
私は何の気なしに、その匂いの出所を探って、人気のない郊外へ足を向けたのです。
そこにあったのは、一面の花畑でした。
ラベンダーでしょうか。その甘い香りと可憐な姿に見惚れ、思わず私は溜息をつきました。あんな寂れた町の端に、このように美しい花畑があるのも不思議です。
ここはどういった場所なのだろうと、私はあたりを見回しました。
広い畑の向こうに、小さな小屋が見えました。木造の、いたって粗末なものです。
その花畑を存分に臨めるテラスに、か細い光が溢れる窓を背景にして、ひとりの女性が佇んでいたのです。
若い女性です。十代後半くらいにに見えました。
ですが、彼女の顔はどうも暗く、そしてひどく疲れているように見えました。肌の色も優れません。表情も固い……というより、何も感じていないような無表情でした。
彼女は吸血鬼である私のように青白い肌をしており、これはどうも病にかかっている者のようです。何となく、私は生前の自分を思い出しました。
無表情なその顔はいたって平凡で、これといって目立つものはありません。ぽてりと太い下がり気味の眉が、すこし困って見えるのが可愛らしいです。無難な顔と言われる私にとって、失礼ながら親近感が湧く顔でした。
平凡と言いましたが、彼女の長い髪は際立っています。
……真っ赤です。それも、ただの赤髪ではありません。私たちの瞳の持つ、どこか禍々しい血の色ではなく、みずみずしいバラの花びらのような深紅の髪でした。
これほど見事な赤の髪は、私は見たことがありません。
また、彼女のすこしばかり眠そうに見える、瞼が落ちかかっているその瞳は、露に濡れたバラの葉のような翠でした。美しい色だと思いました。
私はそっと、魔法で己の血色の瞳を生前の色へ戻します。そのままだと吸血鬼とばれてしまいますからね。
それから迷わず、彼女に近づいて行きました。
食事のためと言うより、彼女自身に興味を持ったからです。
病弱そうな体、くたびれた肌、そして何より、自分や世の中に絶望しつつあるその顔。
どうにも、生前の自分を重ねてしまうのです。
「こんばんは。良い夜ですね」
「……っ! ……こ、こんばんは」
不審に思われないよう、できるだけ明るい調子で声をかけますと、彼女は驚いたようすでしたが、返事をしてくれました。
なにぶん夜更けのことですから、うろんな目で見られ、そのまま背を向けて小屋の中へ逃げ込まれ、扉を閉められてしまっても文句は言えないでしょう。
彼女の眠そうだった瞳は見開かれ、そのまますとんと落ち付いたようです。まじまじと私の顔を見つめる彼女からは、どんな感情を抱いているのかはわかりませんでした。
とにかく、不審がられてしまったり、嫌悪されてはいないようでほっとします。
私は微笑みを絶やさないよう、慎重に口を開きました。
「このラベンダー畑は素晴らしいですね。これほど見事に咲き誇っているのは、なかなか見ません」
「……そうね。旦那様が世話をさせてるのよ。農家や屋敷の下働きの人たちが、とっても大事に育ててくれているの」
おや、と思いました。旦那様、という彼女の言葉が意外だったのです。
彼女はその色彩以外は、ごくふつうの村娘に見えます。けれどその身にまとう衣服は、見た目こそ地味で簡素なものですが、なかなか仕立ての良いものです。細い肩にかけられたカーディガンなど、レース編みがとても繊細で美しいです。一介の村娘が身につけられるものではないでしょう。
てっきり、彼女の言う”旦那様”の娘のように見えます。ですがその物言いは、旦那様を父親と思うものには聞こえませんでした。
とすると、彼女は召使いの娘か誰かでしょうか。
とにかく私はラベンダー畑から視線を戻して、続けて彼女に話しかけす。
「ずっと見ていらしたようですけれど、あなたもラベンダーがお好きなのですか?」
「そうね。もうずーっと見ているけど、飽きないわ。ここのラベンダーは美しいまま長く咲いているから、たくさん楽しめるのよ」
「それは素晴らしいですね。私も花は好きで育てていますが、なにぶんものぐさなもので、なかなか世話が行き届かないのです。妖せ……いえ、人に頼りっぱなしですね」
「お花だって生き物なんだから、ちゃんと面倒見てあげなきゃ可哀そうよ。手を抜いたらすぐ態度にあらわすんだから」
「まるで女性のようですね」
私が微笑みますと、彼女は片方の眉をあげて、どこか挑発的な顔になります。
「あら、それはなあに? あなたの実体験? それとも当てこすりかしら」
「いいえ、褒め言葉です。実に可愛らしく、いじらしいです」
一見弱々しそうに見えた彼女ですが、話し出すと饒舌でした。
おどけて返せば同じように彼女も調子を合わせ、互いにぽんぽんと言葉が溢れてきます。
元々私は口下手ですし、そう口数は多くないのです。けれど、何せ食事の時などは必要に迫られるものですから、結構必死になって言葉を紡ぐのです。
それもまあ、楽しいことは楽しいのですが、やはり自然と交わされる話のほうが、自然でかつ面白いのです。
彼女と話していると、言葉が自然と溢れるようでした。
それが嬉しく、私は彼女との話に興じることにしました。どうやらここには彼女ひとりのようですし、近くに人気もありません。私には好都合でした。
「私はアベルと申します。お嬢さんのお名前をお聞きしてもよろしいですか?」
「ええ、もちろん。わたしはエリーゼ。ただのエリーゼよ、よろしくね、アベル」
花から話題を膨らませて、それから私たちはたくさん話をしました。
エリーゼと名乗った彼女は、私に何の気兼ねもないようで、次々に自分のことを話してくれました。いっそあけすけなほどでしたが、まったく後ろ暗いところなどないのだから、恥ずかしくも何ともないといった態度です。
彼女はいわゆる、妾の子なのだそうです。
この辺り一帯の領主が屋敷付きの侍女に産ませた子どもで、彼女にはどうやら生まれつき持病があり、体が丈夫でないようです。
私も人であった頃は、とても体が頑丈とは言えませんでしたから、彼女にずいぶんと親近感を抱きました。私は根っからの貧民でしたが、領主の娘とはいえ今の彼女の状況は、私の晩年に近いものがあります。
彼女はこの町の領主をこき下ろしながら、顔色の悪いまま笑います。
「いちおうあんな旦那様でも、お母様に負い目を感じていたんしょうね。最低限、こうやって病弱な娘の面倒を見てくれているのよ」
「ええと、でも、ご領主のご息女が住むには、この家は……」
「そうよね。旦那様から見れば、こんなのただの家畜小屋よ。もっとも、わたしの立場も家畜と似たようなもんなんでしょうけど」
「そこまで自虐なさらずとも」
「なさいますとも。だって見てご覧なさいよ、この部屋。まともな家具なんてないじゃない」
彼女が指し示す室内は、まあ確かに、いたって簡素……いえ、粗末なものでした。
ひととおりの家具や調度品は揃っておりましたが、この建物の外見とおそろいの、古びて今にも崩れ落ちそうな塩梅です。
彼女とその装いだけが、妙に浮いている寂しい空間だと、私は感じました。
こんなところに厄介者のように押し込められて、彼女は寂しくないのでしょうか。
「まあ、ね。なぁんにも役に立たない小娘に、こんなところだけど住むところを用意して、いちおう医者にも診せて、それなりに服も用意して、更にタダ飯まで食べさせてもらってるんだから文句は言えないんだけど」
「親なのですから、当然でしょう。自分でそんなことを言っては……」
「言っていいのよ。事実だもの。立場を忘れないようにするのは大事よね」
言っていることは自虐的ですが、彼女のサバサバとした口調では、その暗さや重さはいっさい伝わってきません。
どうやら弱々しい見た目とは裏腹な、したたかでたくましい女性のようです。
ですが、それでも今の寂しげな生活を、何とも思っていない訳ではないようです。その目に確かに、幼い迷子の子供のような、儚げな気配を感じました。
それでも、彼女はせいいっぱい元気に、軽い口調で笑います。彼女を見ていると、決意を固めた騎士がまさに戦いへ赴くかのような、一種すがすがしい印象を覚えるのです。
私はそれが心地よく、夜中だというのにだいぶ話し込んでしまいました。
ふと気付くと、彼女はすこし寒そうに自分の肩をかき抱いています。
夜も遅く、風もわずかながら吹いて、ラベンダーの花を揺らしていました。私はもう、寒さや熱さを感じることがありませんでしたから、うっかりしておりました。
人と話す時も、そう長時間熱中することなど滅多にありませんでしたから、気遣いも忘れてしまったようです。これはいけません。
「失礼、ずいぶんと話し込んでしまいましたね。夜風で体が冷えてしまったでしょう」
「え、ええ……」
会ってからはじめて、彼女は口ごもったようすでした。どこか不安そうな瞳が私を捉えます。
……会ったばかりの名しか知らぬ人物と、こうして夜遅くまで話し込んでしまうとは、うら若き乙女としては、はしたないことでしょう。私はもちろん気にしていませんが、彼女は今頃になってやっと、そんな思いに至ったのかもしれません。
私はエリと話せて嬉しかったですし、満足でした。病弱な彼女の負担となることは望みませんから、今日のところはお暇いたしましょう。
「今夜はとても楽しかったです。また会いに来ても良いでしょうか?」
「……え? ……あ、うん。かまわないけど……」
今まではきはきとしゃべっていたのが嘘のように、口ごもったり言い淀んだりしています。
少々挙動不審気味ですが、私は次の約束が取り付けられたことのほうが大事で、あまり気になりませんでした。
私はどうしても、今ここで食事を済ませてはいさようなら、そんな気にはなれなかったのです。
「では、近いうちにまた伺います。どうぞご自愛くださいね」
「ええ……」
彼女は釈然としない、といった態度でしたが、たどたどしくうなずいてくれました。
私はにっこり笑って暇を告げ、その日は足取りも軽く引きあげたのでした。
……それから私は、彼女の元へ足しげく通いました。
夜も更けた後で、彼女もたいてい、あのテラスで待っていてくれます。
ただ、彼女がはきはきとしゃべるようすからはあまり考えつきませんでしたが、病弱なのは確かなようです。具合の悪い時はベッドから離れられず、横になっています。
私は彼女の姿を求めてその部屋を見つけ、窓を叩いて来訪を知らせます。
彼女のベッドの横にある窓は大きく、月の光をたくさん取り入れる形でした。
エリはその上で上体を起こして鍵を開け、私を迎えてくれました。
「こんばんは。良い夜ですね」
「ええ、今夜もまた、ね」
そうやってエリーゼ……エリと会うたびに、私の心に温かいものが灯るのです。
会えないと寂しいし、彼女の具合が悪くなっていないか、心配でたまらなくなります。
こはもう、恋でしょう。間違いありません。
吸血鬼として生きて来て早十年。吸血鬼となってからはじめて、人を好きになったのでした。
……そして、冒頭の告白に戻るのです。