表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
いつも月夜に血の宴  作者: 桂木 一砂
第一章:吸血鬼の夜
16/168

15.具合が悪いのです。



 完成した月下薬は、清浄な青い光に包まれているようでした。

 透明な青の液体に含まれていたはずの、薬草と銀の姿はどこにも見えません。満月の光に当てているうちに、溶けて消えてしまったのでしょうか。

 とにかく、魔力と月の光を込め続けて約ひと月。やっと薬が出来上がったのです。


 私はさっそく、これをエリ、そしてお孫さんのところに届けるべく、空を駆けることにいたしました。

 クリスに血を吸われ、貧血でくらくらする頭で、空を飛ぶのは止めた方が良いと思いましたが、そうもいきません。

 短距離でしたら転移する魔法も使えますけれど、流石に国の端、いえ、大陸間を移動するほどの大魔法は私には無理です。ここからではエリの家もお孫さんの屋敷もどちらも遠いので、使っても非常に疲れますし、体調不良でちゃんと跳べるかもわかりません。薬をきちんと届けたいなら、地道に空を飛んだほうが良いでしょう。


 月下薬を手に……は、していませんけれど、魔法でしまい込んで、私はカラスに変化して月夜に飛び立ちました。

 転移魔法は基本、見える範囲か行ったところのある場所にしか飛べません。転移先を定めずに適当に飛ぶこともできますけれど、恐ろしいのでやりません。転移先がどんな場所か、わかりませんからね。

 ですので、極夜の国の外を当てもなくうろついていた頃の私は、大きく移動する時はもっぱらこのカラスの姿でした。


 ただカラスになって空を飛ぶだけではなく、空にある風脈に乗って、かなりの速度で長距離を移動できるのです。これを遁行術というらしく、これは魔法というよりも魔力を使った移動法です。数少ない吸血鬼の利便性に優れた一面でしょう。

 ちなみに、地面の中にも地脈というものがあって、そちらに乗っても移動できます。大いなる力の流れが、世界中あらゆる場所に張り巡らされているのです。

 こういった気脈に乗ってあちこち移動できますので、吸血鬼は神出鬼没と言われるのでしょう。


 ……もっとも、風脈に乗って遊んでいた若い吸血鬼が、うっかり日の出域に飛び出してしまい、全身を焼かれてしまったと言う悲しい事件もあったそうです。

 なので多くの吸血鬼は、地脈のほうを好んで移動するようです。私もやったことはありますけれど、どちらかというと風脈のほうが好きです。圧迫感が半端ない土の中よりも解放感がありますし、景色が恐ろしいほどの勢いで流れるのを見るのも楽しいのです。


 まあ、私は変わり種であるようですし、本来吸血鬼とは一度死んだ者たちですから、吸血鬼的には土の中のほうが落ち着くのかもしれません。中には、自らの故郷の土を好んで、自らの棺桶に詰めてそこに寝るという、豪の者もいるそうです。そうしないと吸血鬼としての力が弱まるらしいですけれど、どうなのでしょう?

 私は故郷の土の中で眠ることは終ぞありませんでしたから、どんな感覚なのかは想像するしかありません。


 とにかく、私はふだんは楽しんで風脈に乗るのですが、貧血気味では調子が出ません。必死に飛びます。

 この貧血のような不調を、私はどうも持て余してしまっているようです。ふつう生き血さえ飲んでいれば、どんな不調も起こるはずがありませんからね、吸血鬼は。

 血を補給してくれば良かったのですが、慣れない仕事をしていたり、薬がきちんと出来上がったのか心配だったり、エリーゼのことを考えているうちに、うっかり食事を摂り損ねてしまったのでした。迂闊です。

 それに、エリのいる国が夜になったのを見計らってすぐに出たのですが、いつも私がうろつく時間帯とは違ったので、途中で適当に獲物を物色することもままなりませんでした。


 エリに早く薬を渡したいだけですので、今日は早めに帰ることにしましょうか。

 早く血が欲しいところですが、吸血鬼になりたがらないエリから無理に血を吸う訳には参りません。食事と割り切って見知らぬ女性から血をいただくのと、好きな人から血をもらうのでは、受け止め方がだいぶ違うのです。

 吸血鬼ですから、契りたい相手の血を飲むというのは、とても意味が重いのです。何と言うか、すこし違いますけれど、人でいう結婚式に近いものがあるでしょう。重大な契約のようなものです。

 これはエリの了承をもらって、しかるべき時に行いたいものですから、まだ時期が早いと言いますでしょうか。


 なのでとにかく、早くエリに薬を渡して、渇きを癒しに行きたいと考えているうちに、その町の郊外、彼女の粗末な小屋が視界に入ります。

 はじめて出会ってからふた月ほど経ち、あれほど見事だったラベンダー畑も、すっかりその色を潜ませてしまいました。

 それをすこしばかり寂しく思いながら、小屋の屋根に降り立ちますと、中から人の声が聞こえました。


 おや、と私はカラスの首をかしげました。エリの声かと思いましたが、彼女には大きな独り言を言うような癖はありません。珍しいことに、どうやら来客があるようです。

 いつも夜更けにこっそりと伺うものですから、ここでエリ以外の人間に会ったことはありませんでした。今夜はいつもより早い時間ですから、彼女を訪ねた人とかち合ってしまったのでしょう。

 エリを訪ねるのは誰だろうと、耳を傾けた瞬間、扉が大きな音を立てて開け放たれ、中からひとりの若い男性が飛び出してまいりました。


「っちっ、うるせえ女だな! 役に立たねえ穀潰し女は、一生その小汚ねえ小屋に押し込められてろ!」

「うるさいのはあんたよ! とっとと帰って!」


 唐突な怒鳴り声に、私は一瞬思考が止まってしまいました。

 野太い男性の声は、何という乱暴で汚い言葉遣いでしょう。甲高い声は、一瞬分かりませんでしたが、エリのもののようです。

 彼女は小屋に近い場所に立っていて、ここからではよく見えませんけれど、どうやらかなり激昂しているようです。


 私は思わず、屋根の上から下を観察していました。

 転がり出た男性は、二十代後半くらいでしょうか。焦げ茶の短髪に明るい茶の瞳で、彫りの深い顔立ちはまあまあ美形と言えますのに、その表情には卑しいものしか見えません。身なりもきちんとしており、だいぶがっちりとした体躯の持ち主です。言葉遣いはそこらのごろつきと大差ありませんが、その装いはほどほどに良いところのご子息、といったところでしょうか。振る舞いからして、品の無い甘やかされたお坊ちゃんとしか見えませんが。


「うるさいだと!? てめえ、俺が誰だかわかってそれを言ってんのか!?」

「言いますとも! あんたが誰かだなんて、嫌って言うほど知ってるわ! 知りたくもなかいけどね!」


 呆然としているうちにも、エリが元気よく言い返しております。ふたりは知り合いではあるようですが、この言い合いからして親しい間柄の喧嘩にはとても見えません。

 私はなんとなく、この男性はエリの元婚約者ではないかと思いました。もっとも、それくらいしか心当たりがない、ということなのですが。

 彼女の父親である領主には年齢的に見えませんし、ひょっとしたら従兄弟などかもしれませんが、何と言うか、恋する男の勘というやつでしょうか。ええ、女の勘より当たりそうにありませんね。


 とにかく、目下ではふたりの言い合いが続いています。貧血気味の私は、かなり頑張って集中しないと、何を言っているか聞き取れないほど、それは白熱しつつあるようでした。


 エリはテラスの上から、男性にに怒鳴りつけています。おっとりとした彼女の表情が、今は怒りと屈辱で恐ろしいことになっておりました。元婚約者(暫定)はそれに負けず劣らず、しかし人を見下した態度で下品な言葉を喚き散らしているようです。

 一体何事が起こっているのかはわかりませんが、とにかく今にも取っ組み合いになりそうな雰囲気です。頭がふらふらいたしますが、とにかくふたりを止めた方が良いでしょう。

 私はひょいと小屋の裏側に飛び降りて、変身を解きました。すこしばかり足元がふらつきますが、何とかなるでしょう。


「――だいたい、てめえみてえなブスなんざ、領主の娘ってだけで高い金払わせて、わざわざ生かしてもらってるだけじゃねえか! ハッ、いいご身分だな!」


 男性の汚い言葉はまだ続いております。エリに向かって吐いた暴言に私もかなりむかっ腹が立ちましたが、いきなり殴りつける訳にもいかないでしょう。どんな状況かはわかりませんが、エリにも立場がありますでしょうし、下手な真似はできません。

 表に回っても、白熱しているふたりは、すぐ横にいる私の姿も目に入らないようでした。

 エリは無法者のようなこの男性を相手に、立派に立ち回っておりますが、どうやら顔色が優れないようです。早く休ませないといけません。


「だから何よ! あんたにはもう関係ない話でしょ!?」

「うるせえよブス! だいたいなあ、てめえみてえなつまらねえ女が、この俺に相手されるだけありがたく思えよな!」

「だからもう、私とあんたはもう何の関係もないでしょ! 赤の他人なんだからほっといてよ!」


 何が男性の琴線に触れたのかはわかりません。とにかく、今のエリの言葉に、男性の顔は今までにないくらい真っ赤になりました。

 思い切り拳を握りしめ、それを振り上げます。


「何だと、この――!」

「はい、待った」


 私はエリと彼の間に割って入って、その腕を受けとめました。

 人にしてはずいぶん力があるようでしたが、吸血鬼である私にとっては、大したことはありません。その腕を捻りあげて、目を剥いている男性を睨みつけてやりました。


「先ほどから聞いていれば、よくもまあそんな汚い言葉を、女性に向かって吐けますね。挙げ句に、大の大人がかっとなって手をあげるなど、紳士の風上にも置けませんよ」

「な、なんだてめっ、ぐっ!?」


 捻った腕に力を込めますと、男の顔が一瞬で、面白いほど青くなりました。力の弱いカラスの血族であっても、私は吸血鬼。人の腕など簡単に捩じ切ることができます。まあ、さすがにそこまではできませんので、すこしだけ力を緩めました。放したりはしませんけれど。


「うるさいので、とにかく落ち着いてください。エリ、だいじょうぶですか? あまり感情を高ぶらせますと、体に悪いですよ」

「アベル、あなたいつから……」


 驚愕したエリの表情にほっと落ち着いた色を見つけて、私こそ胸を撫で下ろしました。

 しかし、この元婚約者(暫定)はそうではなかったようです。はっとしたように、必死で私の顔を見ようと首を捻り、せいいっぱい睨みつけようとしています。


「……そうか、あんたが」


 元婚約者(暫定)は忌々しげに口元を歪めました。腕を捻りあげられてひどい姿勢になっておりますが、その根性だけはなかなかのようです。褒める気などは欠片もございませんが。

 その立派な体躯であれば、何の訓練などしておらずとも、か弱い乙女のひとりくらい、片手で相手できるでしょう。そんな男性が軽々しく暴力を振るうなど、あってはなりません。先ほどから聞いている限り、この男性のほうが、よほど酷い言葉を言い放っておりましたしね。


「はっ、いよいよ間男の登場かよ。ひでえあばずれ女もいたもんだ――ぜっ!?」

「……いい加減、彼女に酷い言葉をかけないでください。耳が腐ります」


 もう一段階捻りを加えますと、かなり痛いのか泡を吹きそうな表情になりました。関節も嫌な音を立てておりますし、もうすこしだけ力を込めれば、そこから致命的な音が響くことでしょう。

 それにしてもこの男、そちらからエリとの婚約を破棄したというのに、どうもまだ彼女のことを自分のもののように扱っているようです。婚約中ならまだしも、エリはもう婚約者でも恋人でもありません。自分と別れた女性が誰と付き合っていたとしても、断りを入れる必要があるでしょうか?

 エリの言っていたように、自分のものだったものはいつまで経っても自分のもの、そう思い込んでいる“クズ”なのでしょうか。


「た、た、助――」


 顔色が青を通り越して白くなり、ほんとうに口の端から泡を吹き出した元婚約者(暫定)は、口をぱくぱくさせながらも、必死に逃れようとしております。ですが吸血鬼の力には、単純な人の力で抗えようはずもありません。

 正直このまま折ってしまって、そこらに放り捨ててやりたいくらいですけれど、それは堪えました。騒ぎを大きくしてもエリが困るだけでしょうし、酷い言葉を浴びせられたエリが心配です。私も貧血で調子が出ませんし、力の加減を間違えて、うっかり殺してしまっては大問題です。


 私はせいいっぱいの冷たい目で、元婚約者(暫定)を睨みつけました。

 痛みで気が遠くなりかけていたその男性は、ひっと息を詰まらせてから、またも口をぱくぱくさせています。酸欠の魚のようです。


「――とっとと失せろ。二度とエリーゼに近づくな」


 元婚約者(暫定)は壊れた玩具のように、ぶんぶんと首を縦に振りました。

 私が力を緩めた途端、酷い格好のまま走り出そうとして転び、みっともなく尻を打ちながら、けつまろびつ走って行きました。

 その姿にすこしばかり溜飲を下げておりますと、その姿がすっかり見えなくなってからようやく、エリがおずおずと声をかけてくれました。


「……あ、あの、アベル……?」


 貧血気味のふらふらする頭で彼女を見ますと、どうやらだいぶ怯えているようです。

 もうあの男はいないのだと、彼女を慰めようと手を挙げた途端、エリはびくりと大きく体を震わせました。

 ……どうやら、エリは私に怯えているようです。


 あの元婚約者(暫定)を脅すつもりで、エリを怖がらせてどうするのでしょう。

 私は頭を抱えて、大きく息をつきました。すると再び、エリが細い肩を震わせます。

 ……どうも、今の私は動作が雑になって、エリには私が乱暴者のように見えるのでしょう。確かにいつも以上に、振る舞いや周囲に気を配ることができません。余裕もありませんし、血への渇望がずっと湧いていて、少々不味い気がいたします。

 頭痛までしてきましたし、今夜のところは残念ですけれど、彼女の側に私はいないほうが良いかもしれません。

 ですが、せめて薬だけは渡そうと、私は薬を魔法で取り出そうとしたのです。


「――アベル!?」


 エリの悲鳴のような声が聞こえたのと、枯れたラベンダーの花のむせかえるような匂いが鼻腔いっぱいに拡がったのは、ほとんど同時でした。

 ……あれ、私は今、倒れているのでしょうか?

 そう思ったのを最後に、視界が真っ暗に閉ざされたのです。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ