9.わかりました。
ここまで来ると、もはや私が吸血鬼であることすら疑わしくなってきます。
私はカラスの血族で、真血持ちの吸血鬼です。このふたつの要素のおかげで、吸血鬼の弱点に強いことは知っておりましたが、これほどとまでは思いませんでした。弱点が弱点を為し得ていません。
これでは生き血を啜り、霧などに変身することができる、というところくらいしか、吸血鬼らしき特徴がありません。まあ、青白い肌と血色の瞳を持ち、鋭い八重歯……牙のある外見的特徴もありますけれど。
果たして私はふつうの吸血鬼なのでしょうか。今更ながらに不安になってきました。
私はもっと、吸血鬼や自分のことについて、深く知らなければならないようです。
なのでさっそく、私は再びローラの居城を訪ねましたが、残念なことに彼女は不在でした。
がっかりいたしましたが、これは私が悪いです。ふつう前触れも出さずに、いきなり訪ねるものではありません。しかも彼女は侯爵ですので、ああ見えて忙しいのです。
極夜の国では、真祖を頂点とした貴族階級があります。
上から真祖、始祖、元老院たる六人の大公、公爵、侯爵、辺境伯爵、伯爵、子爵、男爵です。吸血鬼の約半数が爵位持ちですね。これは吸血鬼が支配者階級であること、そして国民の九割九分九厘以上が人で構成されているので成り立つ割合です。もし吸血鬼だけで構成されていたら、国の半数が支配階級では国家として立ち行かないでしょう。
進退窮まった私は、自分の領地へ戻って調べようかと思いましたが、ふだんあまりに仕事を放っているので、どうも敷居が高いのです。近々帰らねばとは思っているのですけれど。
ですので、私に残された頼れる者はあとひとり。
……こちらもあまり顔を出したくなかったりするのですが、背に腹は代えられません。彼は私の領地から、比較的近くに居城を構えておりますので、実はローラの領地よりは行き来しやすいのですよね。
とにかく、数少ない友人に会いに、私はカラスに変化して月夜を飛んだのでした。
「“真血”っていうのはね、いわゆる“先祖返り”のことだよ」
そう言って、彼は誰をも魅了する微笑みを浮かべました。
もし私が女性でしたらきっと、ひと目で恋に落ちかねない麗しい笑顔です。実に眩しいですね。
極夜の国の外縁部、私の領地の南東側の辺境に、彼……クリスティアンの城はあります。
その大きな城は枯れ山の峰にあり、麓には大きな街が広がっておりました。上空から見た限り、ヘビの血族の領地であるのに、なかなか活気があるようです。
クリスは金髪に血色の瞳の美青年で、ヘビの血族の者。私と同じく辺境伯という爵位を得ています。
外見は同世代にも見えますが、彼は私などよりもっとずっと長く生きていたはずです。詳細は教えてもらっていないのでわかりません。
前触れも出さずに突然訪れた不躾な私を、クリスは快く迎えてくれました。
豪奢な調度品が揃った客間に通され、向かい合って座りましたが、彼はひとりの女性を伴っております。
そちらも気になりましたが、私はとにかく彼の言葉に首をひねっておりました。
「先祖返り? ……先祖というと、始祖やご真祖のことですか?」
「まあ、とにかく飲りなよ。シャリネの五十年ものだ」
彼は私にワインを勧めて、手ずから注いでくれました。彼は自分のぶんも確保して、私とグラスを合わせると、さっそくそれを傾けております。
私も同じようにグラスに口をつけましたが、以前場末の酒場でいただいた安い量産品ではなく、値を聞くのが恐ろしくなるような銘柄のようです。芳醇な香りと味わい、ほのかな苦味が程良く舌を楽しませてくれました。ワインに詳しくない私でも、思わずため息が出るものです。
クリスはグラスを手で弄びながら、何故か面白そうに笑っています。
「そうそう、先祖返りだったね。ミラーカもあまりにもそれが常識過ぎて、君に教えるのを忘れてしまったのかな。生まれたばかりの吸血鬼は、まず自分で生きる術を身につけることが最優先だし、後回しにしてしまうのはわかるけれど。まあ、自分の系譜から真血持ちが出ることはこの上もなく名誉なことだから、すっかりはしゃいでしまったんだろう」
彼はにこにこと笑っています。爽やかな笑顔とその美しい容貌から、まるでどこぞの王子様のようにも見えます。今の彼の装いは黒一色ですが、真っ白なスーツもきっと似合うでしょう。
まあ目は真っ赤ですので、一発で王子様ではなく吸血鬼とわかりますけれど。
ソファにくつろいで座っている彼の足もとには、先ほどの女性が、その長い足にしだれかかるようにして座っています。若く美しい娘で、真っ赤な薄いドレス姿ですが、その襟もとは大きく開かれております。
恐らく彼女は、クリスの“食事”なのでしょう。その首筋には牙の痕こそ見えませんけれど、その陶然とした表情と彼を見つめる焦点の合わない熱っぽい視線に、彼女が吸血された者であることが窺えました。
「はあ。ええと、その“先祖返り”について、詳しく聞いても?」
彼女のようすが気になりましたが、私は努めて気にしないよう心がけました。
元人間として助けてやりたい気もしましたが、私ももはや人の生き血を啜ることに、さほど抵抗がありませんし、今更です。彼にとっても大切な食事であり、それを妨げることは、つまり彼の生存を認めないことにも繋がってしまいます。いくら何でもそれはできません。
クリスはヘビの血族です。ヘビの血族は吸血鬼の一族の中でも、特に強く美しいとされています。
彼らに一度でも吸血された者は、それだけで完全に吸血鬼の虜となり、遠からず命を落として、そして必ず吸血鬼となって蘇ってしまいます。
なので獲物は出来るだけ長く生かし、ゆっくりと血をいただくのが彼らの食事様式です。その人から毎日のように血を啜っても、医療や魔法による処置をすれば、最長一カ月ほどは延命できるのだとか。吸血する人数を増やせば、もうすこしもつのだそうです。結局はみんな死んでしまいますけれど。
ですので、血族を増やしたくない時は、その遺骸の心臓に杭を打ち込んで埋葬するのです。恐ろしいですが、致し方のないことだと呑み込むことくらいは、私も出来るようになりました。
「先祖返りは先祖返りさ。ご真祖に近い血を持つ吸血鬼のことを“真血”って言うんだよ」
彼は愛おしげに女性の髪を撫でました。その表情はまるで恋人に向けるそれのようです。それを受けてますますうっとりと、どこかぼやけた目で女性は彼を見つめています。
クリスは彼女の口元にグラスをあてがって、葡萄酒を飲ませました。その艶かしい唇から零れた一筋の葡萄酒を、指で拭ってやっています。
私はそこはかとなく感じる居心地の悪さを誤魔化しながら、さらに問いを重ねました。
「ご真祖に近い血というと、いわゆる弱点を全く持たない、ということでしょうか?」
「ああ、それもあるよ。ただ、僕たち吸血鬼にとって重要なのはそこじゃないね」
クリスはその鋭い牙を覗かせて笑いました。麗しい端整な顔立ちの中で、牙がものすごく浮いて見えます。
グラスをテーブルに置きながら、クリスは私を示しました。
「君の血は吸血鬼にとってもご馳走なんだよ。僕たちにさらなる力をもたらす血ってね。それは知っているだろう?」
「ええ、まあ。ローラにもよく吸われてしまいますし」
私はついこの間、ローラに遠慮なく血を吸われたことを思い出して、首に手をやってげっそりいたしました。
人であった頃、ミラに血を吸われて死んだ時のことは、おぼろげにしか覚えておりません。何となくつらかった感覚があったのですが、それも長くは続きませんでしたし。
元より死にかけだった為に、苦しみもあまりなかったのかもしれません。
ただ、吸血鬼になってまで貧血になるとは思いませんでした。苦しいというより強い気だるさを覚えるのですが、どうもふらふらとして気持ち悪いのです。
クリスはそんな私のようすを見て、くすくすと笑いっぱなしです。
「いいなあ、ローレリアは。そんなに君から血をもらえるなんて。ちょっと君、彼女に甘過ぎないかな?」
「ミラの親友ですからね。私にも親しくしてくれますし、どうにも頭が上がらないというか。お世話になっているのは事実ですので、断れなくて」
「あれ? だったら僕にも血をくれるのかな? 僕だって君の友人で、お世話してるよね?」
「……まあ、そうですね」
私が複雑そうな顔をしますと、クリスは心外だと言いたげに眉を上げました。
「その反応は傷つくなあ。友人だと思っているのは、僕の自惚れだったかな?」
「いや、そうではなく。ただ、同性の方に血を吸われるのは、ちょっと抵抗が」
私は苦笑を浮かべました。吸血鬼は生き血を啜るとあるとおり、その肌に噛みついて血を飲むのです。同性にはあまり噛みつきたくありませんし、噛みつかれたくもありません。
まあ、あらかじめ血を抜き取ってから、グラスなどに注いでいただく、ということもできますけれど。
私もかつて、人の血を啜るのに、直接肌に噛みつくのは抵抗がありました。
刃物などで傷をつけるなり、注射器なりで血を抜き取り、器にそそいで飲むようにしましたが、どうやら直接肌に噛みついて飲んだほうが、喉の渇きも癒えやすいとわかったのです。
よくわかりませんが、血は鮮度が命のようです。
ですので、出来る限り吸血の回数を減らしたいのであれば、人を直接襲って噛むのが効率が良いのです。とはいえ、ひとりから大量に血を飲む訳にも参りませんから、結局複数人から血をもらう必要があります。
……意味不明で難儀過ぎます、吸血鬼。
クリスは得たりとばかりに大きくうなずいていますが、その顔は相変わらず笑顔でした。
「はは、違いないな。僕だってきれいな女性しか襲わないさ。でも、それはローレリアもだろう?」
クリスの左手は相変わらず娘さんの髪を撫でておりましたが、その艶やかで長いひと房を手に取ると、不意にそれに口づけました。娘さんは陶然としつつも真っ赤になっております。
「……そうですね。でもローラは美男子も好きですよ、ええ」
「ああ、そうか。お嬢さんに見えるのに、実はけっこう年増……げふん、中身は大人の女性で、しかも好色だったね。吸血鬼らしく、背徳感溢れるお人だよね」
いつも爽やかな笑顔のクリスが珍しく、いやらしい笑みを浮かべていました。私から見ればクリスも十分背徳的に見えますが、まあ、その思考はいたってノーマルな吸血鬼のものなのでしょう。
別に、男性の吸血鬼だからといって、人の女性からしか血を吸えないという理由はありませんし、逆もしかりです。ただやはり噛みつくのでしたら女性が好まれますし、そもそも若い女性の血を好む者が、吸血鬼には男女を問わず多いようです。
人が家畜の若い個体、それも雌の肉を好んで食べるようなものでしょうか。その肉のほうが他のものよりも、柔らかく味が良いようですし。
例外はあるようですけれど、やはり血も、老いた者よりは若い者、男性よりは女性の血のほうが美味しいらしいです。
私は血の味に頓着しておりませんし、飲み比べたこともありませんから、よくわかりませんけれど。
ただ、私の食事方式……狙う人物は夜道に立つ女性たちなので、必然、比較的若い女性に限られます。意図せずに選り好みをしているのかもしれませんね。
クリスもどうやら女性の血が好みのようですし、思い返せば、ローラもミラも若い女性を好んで襲っていた気がいたします。もっとも、ローラは美少年や美青年も嗜好の範疇にあるようですが、彼女の元で見かけた“食事”には、若い娘さんの姿も多いようでした。ローラは気に入った人間を片っ端から召し上げてしまうので、彼女の居城には見目麗しい男女が多いのです。
ローラの系譜ももちろん美形ぞろいですから、非常に目の保養になりますね、あそこ。
ともあれ、吸血鬼は若い女性をよく狙います。女性は貧血にもなりやすいし、そこをさらに吸血などされたら、たまったものではないでしょう。
一度に大量に血を飲むのであれば、健康な若い男性のほうが効率が良いと思います。平均的な体格が女性より男性のほうが大きいので、当然血液量も多いですし。
でもあまり、噛みつきたいとは思えないのですよね……。私だって男ですから。
生きるためにどうしても噛みつく必要があるのでしたら、できれば女性が良いのです、ええ。
吸血される側だってそうでしょう? 噛まれてしまうのでしたら、男性でしたら美しい女性の吸血鬼、女性でした麗しい男性の吸血鬼に吸われたほうが良いですよね? ……たぶん。
……そう。吸血鬼は男女問わず、美形が多いのです。
すくなくとも私の知り合いの吸血鬼はみなそうですね。
純血の吸血鬼はもちろん、死して蘇った吸血鬼たちも、不思議なことに美形揃いです。美形を狙って吸血鬼にしているのか、吸血鬼になる素質に見目麗しいものが含まれているのかは、定かではありません。
その点で言えば、私はそこからもすこし外れた存在のようです。悲しいことに。
そんなことを考えていると、私が複雑な表情をしていたのか、クリスはますます愉快そうに表情を緩めました。
「ふふっ、君はもっと博愛主義になるべきだよ? 僕もまあ、若い男の子ならいけるかな」
「……私は庶民で、俗物ですので」
「だが、今は貴族だ。それも吸血鬼のね。もっと享楽的になってもいいはずだよ」
「性に合えばいいのですけれど。まあ、ほどほどに楽しんでおりますよ」
「……そのようだね?」
クリスはにっこりと笑って私を見ます。何故だかはわかりませんが、彼はどうやら私の悩みなどはお見通しのようです。
力のある吸血鬼は、ある程度心を読むことができたりもします。彼もそうなのでしょうか。
誤魔化そうとは思いましたが、どうも彼の追求からは逃れられないと思いなおし、すぐに観念して私は打ち明けました。
エリーゼに出会い、彼女を好きになったこと。エリが吸血鬼になりたくないので、私に人に戻る方法を探せと言われ、それを約束したこと。弱点に触れる苦行をすれば、吸血鬼から人に戻れるという話を聞いたこと、それを試してみたけれど、何の意味もなかったこと。
全てをすっかり私から聞き出すと、クリスはくつくつと笑い声を零しました。
「何だかすごいことをやったね、君。それに、そのお嬢さんもすごい。アベルが穏健派の吸血鬼で良かったよね、ふつうだったらとっくに襲われてる」
「いえ、好きな人に吸血鬼になることを勧めることはできても、無理に吸血鬼にすることはできませんよ。望んでいないのであればなおさら」
やはり吸血鬼だからか、どこか物騒なクリスの言葉には冷や汗が出ます。
私もすっかり吸血鬼となったと思っておりましたが、まだ甘いところがあったようです。
「そうかなあ? 結局この世は弱肉強食なんだから、強い者が傍若無人に振る舞うのは当然だろう?」
「ある程度は当然ですけれど、それが過度になると悲惨ですよ」
「ふうん? よくわからないけど、君が言うならそうなのかもね」
彼はあまり興味がなさそうでした。
強い力を持つ者が驕るのは必然です。それが自らの足元を掬わない限り、誰もがきっとそうなるのでしょう。
それは人よりも、我々のような人外の者たちのほうが受け入れやすいと思われます。
吸血鬼を含む夜の魔物たちは実力主義ですので、強さがすなわち正義です。人のように正義の形を定めて、それを標榜する者は多くありません。
ですが、吸血鬼は元人間であるのですから、力一辺倒な考え方ばかりするのはおかしいと思うのですが、どうやらそれは少数派のようです。
吸血鬼となっても、私は根っからの平民で、凡人のようです。
「……まあ、ともかく。クリスの血族のように、人を必ず吸血鬼に出来ればまた違ったのかもしれませんけれど。こればかりは仕方ありませんから」
私はすこしうなだれました。
エリを好きだと気づいた時、どうすれば吸血鬼である私と人である彼女が長く一緒にいられるか、それが真っ先に思い浮かびました。
エリは人ですので、寿命に限りがあります。そのうえ持病があり、そう長くは生きられません。そうであれば、彼女を病と寿命がなくなる吸血鬼にしようという考え自体は、おかしくは無いでしょう。
とはいえ、それは人の尊厳に関わります。彼女が人外の怪物になどなりたくないと言うのであれば、それ以上は私からは何もできませんし、望めません。
それに、私はカラスの血族。
仮に私が彼女の血を啜って死に至らしめても、彼女が吸血鬼となって蘇るかどうかは賭けになってしまいます。
不定形やヘビの血族のように、一度でも吸血した者の運命が定まってしまう吸血鬼でないことを、それまで私は幸いに思っておりました。
彼らとは違い、人はカラスの血族である私に血を吸われても、蚊や蛭に噛まれた程度で済みますからね。抜かれる血の量は多いでしょうけれど、意図的でなければ、死に至らしめるほどではありません。
よって私は、人から食事をするのにそれほど気兼ねせず、生き永らえること自体をそう重く捉えずに済んでおりました。人の生死には関わらずに済んだのですから。
けれど、今それが思い切ってエリに懇願できない理由のひとつになってしまいました。
本人が吸血鬼になりたくない、そしてもし吸血鬼になることを望んでくれても、吸血鬼となれる確率が低いのであれば、私は二の足を踏んでしまうのです。
正直、どのくらいの確率で吸血鬼となるのかはわかりません。死ぬ本人が望んでいれば、蘇る確率は多少上がるとはミラに聞いたことがありますが、実際に試したことがないのです。
「僕らヘビの血族はそれはそれで、結構困るんだよね。食事をしたらちゃんと後始末しないと、どんどん増えてしまうから」
クリスはすこし困ったような顔になりました。その表情すら魅力的で、若い娘さんは今にも蕩けてしまいそうな顔をしています。言っている内容は恐ろしいし、彼女にとっては自らの行く末の話なのですけれど。
吸血された者の定めなのか、彼女はまったく気にならない様子です。
クリスはすこしばかり考え込んだようすでしたが、やがてぱっと顔を明るくしました。
「でも、そういうことなら僕が協力しても良いよ? エリーゼさんだっけ、どこの領地の人かな?」
「いやいやいや、待ってください。それはちょっとご遠慮願いたいです」
私は慌てて、思わず立ち上がりました。彼にエリを襲わせたくはありません。
彼女がいた国は極夜の国の外側、ここから遠い国ですけれど、吸血鬼にとっては何ともない距離です。教えたら喜々として襲いに行きそうで、私は詳しくを離しませんでした。
……基本的には、吸血鬼が領地をまたいで“食事”を取っても、特に問題にはなりません。
掟で決まっている範囲内でしたら、意外と自由に行動できるのです。そしてそれは、極夜の国の外でしたらなおさらでしょう。
極夜の国に属さない吸血鬼もおりますし、結構みんな好き勝手にやっているようです。まあ、おっかない吸血鬼ハンターはうじゃうじゃいますけれど。
なので、クリスの領地以外の場所でも、彼はふつうに獲物を物色できるし、人を襲ってもそれがあまりに大規模でなければ、掟には触れません。私もよそで外食しますしね。
私の慌てようが面白かったのか、クリスはまた相好を崩して笑っています。
「はは、冗談だよ。いくら僕でもそんな無粋なことはしないさ。まあ、君が心奪われたお嬢さんを見てみたい気持ちはあるけどね」
「脅かさないでください。冷や汗かきました」
ほっと息をついて、私は再び腰を下ろしました。
エリも吸血鬼となることを考える、と言ってくれていましたが、彼女のようすからして、私のような情けない生き物になり下がるような真似はしないように思っています。
強かで格好良い女性ですからね、エリは。そこが好きなのですけれど。
……だから私は、私が人になる方法を真剣に探して、人として彼女と一緒に生きたいと思ったのです。
「無理だよ。それは」
私の心の内を読んでか、クリスが平坦な声で言いました。
彼は穏やかな表情を浮かべておりましたが、その血色の瞳の奥には、私を哀れむ色がかすかに混じっております。
彼がそう言うであろうことは、私も薄々わかっておりました。
「……やはり、そう思いますか?」
「もちろん。こう見えて、ローレリアほどじゃないけど長生きしてるからね。僕はヘビだから、獲物はいずれみんな死んで吸血鬼になってしまうし、それを人に戻そうなんて実験をした先達もいたのさ。若い吸血鬼が人に戻りたがって、色々なことを散々試してたのを見たこともある。でも、寡聞にしてそんな話は知らないよ。吸血鬼が人になるだなんて、そんな話は。きっと、ご真祖でさえもご存じないだろう」
クリスは何故か、どこか遠いものを見るような目をしています。
彼もかつては人だったはずですが、そのことを思い出しているのでしょうか。
「吸血鬼が人に戻れるだなんて話は、要するに“そうだったらいいな”の希望的観測、おとぎ話だよ。考えてみるといい」
おもむろにクリスは立ち上がると、娘さんの手を引いて、テーブルのグラスの上にかざしました。そしてどこからか取りだした小さな果物ナイフで、娘さんのたおやかな手の細い指先を切ります。
傷から溢れて盛り上がった血が、グラスの底に残っていた赤いワインへ落ちてゆきました。
「……こうしてワインに雑ざった血は、どうやっても元に戻せないだろう? 人から吸血鬼へなることはできても、逆は無い。君も知っているはずだ」
クリスは掴んだ女性の手をそのまま口元に持ってゆき、その指先の傷を舐めました。
娘さんがこの上もないくらい真っ赤になっています。そのまま倒れてしまうのではないかと心配になりましたが、対象的に私の心は冷めておりました。
予測がついていたことでありましたが、彼も吸血鬼が人になるだなんて話は信じていないようです。
私もようやく、それが呑み込めて来ました。
……吸血鬼が人になる方法など存在しない。
これはどうやら、自然の摂理のようです。きっと真理なのでしょう。