公儀隠密
一、
「俺は、隠密、だよ。本当の事なんだ」
「分かった爺さん。わかってるよ」
船場町の場末の飲み屋「たみ」で、このやりとりが始まれば夜更けの合図である。
自身を隠密だという老人は、船着場で物乞いをしている老人で、三日に一度は施された金を握ってここへ酒を飲みに来る。
表情すら読み取れないしわくちゃの顔、垢で縮れた髪、どこも見ていないような視線。
物乞いの雛形のような老人であった。
この飲み屋はこのような他に行き場のない者のたまり場だ。
どのような客でも拒まないし、それぞれ何かしらの傷を抱えている客達は、お互いに嘘や隠し事を暴かない暗黙の了解を持っている。
隠密を名乗る物乞いの、確か与兵衛という老人、そして彼の相手をしている壮年の男も、江戸で人殺しの濡衣を着せられ、この栢野藩へ逃げてきているということだった。
喜助はこの店が好きである。
栢野藩の町人町にある豪商の芳川屋で手代を勤める喜助は、奉公を始めてもう十年になるが、よそ者である。
「たみ」は丁稚が主の目を盗んで飲みに来るような場所であるが、算術の才を認められてわずか十年で手代になった喜助が、高級な店で飲むと何かとやっかみも多い。
ここであれば、一人で飲みたい者は一人にしてもらえるし、誰かに後ろ指さされることもない。
それに、喜助には目立ってはいけない理由があった。
「俺は、この藩の秘密を探ってるんだ。何十年もさ」
「わかってる爺さん。大変だな」
既にろれつの回っていない二人のやりとりは先程から同じところをぐるぐると回っている。
そう、俺はわかってる。喜助はそう心の中で返事をし、濁った安酒を飲み干した。
上役のお庭番頭、柘植玄蕃からこの役目を仰せつかってもう十年が経っているのだ。
本当の隠密はここにいる。それは喜助、御家人の塗矢喜左衛門にはわかりきっていることであった。
喜助には、この隠密を騙る老人が滑稽でもあるし、哀れでもあった。
初めてこの老人与兵衛を見かけた時はもちろん警戒をした。
しかし、やがてそれがホラであること、更に周りの人間はそのホラを全く周りが本気にしないことを知ると、安堵した。
与兵衛とは何度か酒を酌み交わしてみたが、本当の隠密のことは何一つ知っていなかった。
老人は自分を隠密だと本気で信じており、既に妄想の中の住人に成り果てている。
しかし喜助はその与兵衛を不思議と軽んじる気にはならなかった。
同情の気持ちもあったかもしれないが、実態を見失っているという意味では、自分と何ら変わらないという気もしたのである。
空の杯を見つめながら、喜助は自分が本当は何なのか不思議に思った。
この商家の手代としての暮らしにも満足している。
主からも信頼され、手代を任され、商売自体も楽しくなってきた。
もともと算術が好きであったのもあるが、こちらのほうが自分の性には合っているのではないかと近頃思えてきたのだ。
考えがそこまで行くと、喜助の中でいつも陶器が割れたような衝撃が衝撃が走る。
だがだめだ、とその考えをいつも喜助は強く否定する。
俺は隠密なのだ、この御役目を果たすことが使命であり、生きる意味なのだ。
しかし、その使命を果たしてその後どうなるのだろう。
そこに喜びはあるのだろうか。
喜助の思考も酔いとともにぐるぐると回り始めるのであった。
やがてそれを打ち破る影が喜助の視界をゆらゆらと動いた。
「たみ」の女将、その名の通りお民が、喜助の空いた杯を見つけて、まだ飲むのかという合図で徳利を手に持ち揺らしていたのである。
が、喜助は今日はこれ以上飲む気はしなかった。
お代を机に置くとお民と他の客に軽く会釈をし、店を出た。
「俺は隠密なんだよ」
与兵衛老人の声が店を出た後もかすかに聞こえた気がした。
ニ、
手代の喜助は普通の奉公人と違い自分の家を持っている。
夜道を酔った体に心地よい冷たい秋風に吹かれながら、芳川屋からそう遠くない家に帰る道を歩いて帰る。
船着場の盛り場である船場町から、芳川屋などの大店が並ぶ河原町までは今で言う一キロぐらいの距離がある。
その中町の裏路地に、商人の手代や番頭の家が並ぶ一角がある。
喜助の住まいは、長屋ではないが、小さな家である。隣の家との間に壁や垣根などは存在していない。
その庭とも路地とも付かない空間を縫って歩いて、家に入ると、薄暗い部屋の奥から、妻のみよしが
「おかえりなさいまし」
と声をかけた。
あれも気心の知れない女だ、と喜助は薄ら寒い気持ちになったが、ごくごく尋常に羽織をみよしに脱いで渡し、部屋着に着替えた。
みよしとはもう連れ添って十年になる。
上役より命を受け、この地にやってくる時につけられた仮の妻であった。
当時十七と言っていた彼女は、今はもう大年増とういうことになる。
みよしの役目はもちろん喜助の監視であろう。
それによその土地に流れ着くときは、独り身より夫婦者の方が警戒されなかった。
みよしは器量がよく、体つきもふっくらとしており、喜助は初めの頃その体に夢中になった。
本当に愛しているとすら思った。
しかし、みよしは終ぞ喜助に心を開くことはなく、喜助の方もみよしに飽きる頃までに愛着を持つに至らなかった。
以降、形ばかりの冷えた夫婦関係を演じている。
夜具を敷き、喜助が横になると、みよしが枕元に正座し、喜助を見下ろした。
またか、と喜助は思った。
「玄蕃様よりご使命にございます」
みよしは何処で連絡をとっているのか、江戸からの使命を受け取り、こうやって喜助に伝えるのであった。
柘植玄蕃を玄蕃様と呼ぶ以上は、みよしは柘植家の奉公人なのであろう。
「ふむ。申せ」
あるいはみよしは玄蕃のくノ一なのかもしれない。
喜助がぼんやりそのような事を思っていると、みよしは尋常ならざる事を言った。
「先代藩主、吉弘公ご逝去の儀、不審のことあり。調べよ。とのことでございます」
「ふむ」
これは大事だぞと喜助は思った。
先代吉弘公は、将軍家に近い松平家から養子に来ており、もし非常の手段で害されたとあっては、栢野藩存続に関わる問題といえる。
吉弘公が逝去したのは今年のはじめのことであった。在位はたったのニ年。御歳もまだ二十二歳という若さであった。
残念ながらまだ子も無く、その死後に、藩祖の一族に連なる貴種の者を養子にするということで認めてもらい、藩主の地位を継がせることで藩は存続された。
それが現藩主の通信公である。
そもそも、先代吉弘公が栢野藩の藩主に収まるのに色々と問題があった。
先々代藩主の通成公には子が無かったが、通成公の血筋に連なる一族はたくさんいた。
その中から調度良い年齢の者を養子に迎えいようという派閥がいて、それは正統派と呼ばれていた。
一方で、将軍家から養子を迎えることによって、幕府とのつながりを強化して藩の安泰を図ろうという急進派がいた。
そのような派閥同士の暗闘が、藩政の影で行われていて、喜助もその暗闘を陰ながら監視し、江戸に何度も報告したのである。
結果は幕府の後ろ盾を得た急進派が勝利し、吉弘公が養子に迎えられ、その後程なくして先々代通成公が逝去し、後を継いだのである。
喜助には一つ疑問があった。
この問題、当の喜助自身が直に監視していたことであり、喜助も当然吉弘公の死因についてはかなり探りを入れていた。
結果、不審無しとして柘植には報告したのだが、すると誰がこの事に不審な点を発見して報告したのであろうか。
「みよし。不審の儀なれば、誰がそれを見つけた」
「申せませぬ」
「お主か」
「申せませぬ」
能面の用に無機質に白いみよしの顔は、ぴくりとも表情を変えなかった。
この栢野藩に喜助他に隠密が潜んでいるという可能性は殆ど無い。
喜助が十年の間ここに潜んでいる間に、江戸からもそのような話は聞かなかったし、実際に動いていてそのような影も感じたことはなかった。
喜助は夜具から手を伸ばし、みよしの折りたたまれた膝に乗せた。
「みよし。お主とも長い付き合いじゃ。わしは柘植様もお主も裏切ったりせぬ。それは知っておろう」
そのまま手を伸ばし裾を割ろうとすると、みよしは自分の手でそれを制し、喜助にピシャリと言葉を浴びせた。
「存じております。お味方故、ご使命を申し伝えました。このまま夜の事に及ぶ前にご使命を果たす方法をお聞き下しまし」
喜助は興ざめして手を引っ込めると、無感情な指示を淡々と聞き続けた。
久々にみよしに手を握られたが、妙に湿っていたことが気になった。
三、
芳川屋は藩城の消耗品を取り扱っており、月に一度登城し、紙や油などを納品する。
商品は大量であり、納入の際は大八車で隊列を組み、手代の喜助がその指揮を採った。
門番も喜助は既に顔なじみであり、慇懃に頭を下げ城門をくぐる喜助に、人によっては軽口を叩いたりする。
いつもなら何気ない登城であるが、今日の喜助は軽く緊張をしていた。
先日、みよしから受けた使命を実行するのが今日なのである。
みよしが得た情報によれば、本日正統派の頭目の城代家老鈴井弾正による茶会が城内で開かれているとのことである。
これは定期的に公式な茶会として行われているもので、城内で行うため、今までその内部でどのような事が話されているのか誰も正確なところを掴んではいないのであった。
これに納品の日取りを合わせ、潜入するというのが今回の喜助の使命である。
喜助はこの使命を聞いた時かなり驚いた。
今までも危険な橋を何度か渡ってきているが、これほどまで直接的で危ない橋を渡るのは初めてのことであった。
下手をすれば捕まってしまい、喜助は命を失うどころか、幕府としても今までの十年間積み上げてきた間諜の環境を失うことになる。
何をそこまで焦っているのかと喜助は不思議に思ったが、使命であれば仕方ない。
喜助は隊列を蔵の前に誘導すると、部下たちに商品の蔵への納入を命じた。
ここで普段であれば、喜助はその場に留まり采配を続けるのであるが、今日は幕府に通じている急進派の中老に商談に行くという体で話をつけてあるので、そこに向かうふりをして件の茶会に接近するのだ。
案内の者に連れられ、中老の控える部屋に入ると、中老は背中を向けて座っていた。
何かあった場合に白を切るために、あくまで喜助を見ないつもりらしい。
実際、中老自身は、ここに誰が来るかは先ほどまでは知らなかったであろう。
中老には事前に文を付けて、茶会の日に訪ねてくる隠密を部屋に引き入れるようにと伝えてあるだけだ。
中老は今日になって、その隠密が、芳川屋の商談の体でやってくるのを知ったのだ。
中老は相変わらず背を向けたままである。
そしてそのまま知らぬが仏を貫くつもりらしい。
喜助は中老のその小心を内心嘲笑った。
何かあった時、知らぬ存ぜぬで通せるものか。
この芳川屋手代喜助が案内に連れられこうやって中老の部屋に来ているのだ。
この様子ではなるほど正統派に藩主を害されるわけだと、喜助は軽い軽蔑をの気持ちを持ちながらも、案内が廊下に消えたのを確認すると、中老に声も掛けずにそのまま音もなく茶会の場所へ向かった。
城の見取り図は早い段階で手に入れていた。
喜助は周りに誰も居ないことを確認すると、素早く床下に潜り込み、懐に忍ばせたクナイで床下の忍び対策の罠を外しながら、床下伝いに茶室へ向かった。
このような旧式の罠など、喜助にとっては存在しないに等しい。
そのまま土竜のように音も立てずに茶室の下へ滑り込むと、やはり懐に忍ばせていた筒を取り出し、床板にそれをつけて室内の音を聞き始めた。
数人の低い話し声が交錯していたが、意識を集中した喜助には、それぞれの声を聞き取ることができた。
「・・・であから、幕府が吉弘公ご逝去の理由を探っているのは明らかである」
この声には聞き覚えがあった。
確か馬廻組組頭の堀内という男だ。
正統派の知恵袋と呼ばれている。
「さようか。ではあの計画書、葬ったほうが良いかの」
この声は城代家老の鈴井の声である。
喜助は幸運にも何やら核心的な話題に居合わせたようでった。
「ご家老御自身にてご処分されますように。使われました道具もご処分願います」
堀内がそう言うと、毒、医者などという言葉が方々から聞こえてきた。
「わ、私はどうなります」
この甲高い声には聞き覚えがなかった。焦りを感じるかなり大きな声であった。
「玄参殿にはしばらく身を潜めていただく。江戸に行かれてはどうか」
これだけで十分だと喜助は思った。
玄参は吉弘公の侍医の名前だ。
吉弘公は侍医に毒を盛られたということであろう。
計画書と毒はおそらく鈴井家老の屋敷に、そしてもうひとつの道具である玄参は江戸に逃れようとしている。
そこまで分かればこのような虎穴に長居は無用である。
喜助は今度は蛇のようにするすると体をくねらせ、音を立てず、誰にも見られずに元の位置に戻り、床下から這い出ると服についた土を払い、中老の控えの間の前の廊下に座った。
「万事、済みましてござる。商談成立で御座いますな」
襖越しに喜助がこう声をかけると、部屋の中で何かが動く音がし、一言「大義」という声が聞こえた。
四、
喜助が驚くべき場面に出くわしたのは、城に潜り込んでから三日ほど経った日のことである。
その日、仕事を終えた喜助はいつもの様に真っ直ぐに家に帰る気はせず、足は自然と「たみ」へ向かっていた。
喜助が抱える矛盾や秘密は、もはや酒なしにはごまかせるものではなくなっており、家庭にも安寧がない喜助には「たみ」で安酒を煽っている時だけが全てを忘れられる唯一の時間であった。
しかし、その日、喜助が「たみ」にたどり着くと、通りの前には人だかりができており、不審に思った喜助が人をかき分け前に出てみると、なんと「たみ」は捕物に囲まれていた。
「たみ」の中からは物が割れる音と怒号が聞こえていたが、最後に大きな音がするとそれ以降ピタリと止み、やがて中から捕物の足軽たちと、縄で縛られた老人が出てきた。
喜助は驚愕した。
縛られているのは、自分が隠密だとホラを吹いていた与兵衛だったのである。
集まった大衆に対して、捕物を指揮する奉行が高らかに罪状を読み上げる
「この者、無宿者与兵衛。ご家老屋敷に忍び込み、盗みを働いた咎で奉行所に連行す」
周りに集まっている大衆はざわめいた。
「俺は隠密だよう。覚悟はできてるんだ」
そう叫ぶ与兵衛を痴れ者と足軽が棒で叩いている。
すると、いつも与兵衛の話し相手になっていた江戸の兇状持ちが店から出てきて捕物に食い下がった。
「このおんちゃんはダメなんだあ。頭イカれっちまって、自分のこと隠密だなんて言ってるが、違うんだあ。それは俺がよおく知ってる。このおんちゃんは橋の上で施しを受けるのが精一杯の人間なんだあ。ご家老の家に忍び込むなんて考えられないんだあ」
そう言うと兇状持ちは縛られる与兵衛と足軽の間に割ってはいろうとした。
しかし、しつこく食い下がる兇状持ちに、足軽たちは次々に棒をくれ、兇状持ちはたちまちこぶだらけになってしまいその場にうずくまってしまった。
「犯人であるかどうかは奉行所が判断する。行くぞ」
奉行はそう言うと足軽たちを率いて与兵衛を連れ去ってしまった。
バカな、と喜助は心のなかで悪態をついた。
与兵衛が薬にも毒にもならない妄想家なのは皆が知っていることではないか。
痴人の戯言を真に受けてしょっぴくとは、奉行のメンツが丸つぶれだとは思わないのだろうか。
しかし、家老の屋敷に盗みが入ったとは聞き捨てならなかった。
城の茶会に忍び込んだ喜助は、直ぐに家老の屋敷に証拠があることをみよしに報告した。
そして、喜助自身が、家老屋敷に忍び込む算段を整えていた矢先だったのである。
もしや、みよしや柘植の配下が既に盗みに入ったのだろうか?
だとすれば与兵衛は飛んだとばっちりである。
喜助の胸には救いようのない悲しい気分と、自分に相談なく家老屋敷に忍び込んだみよしたちに対する怒りとが交互に飛来した。
ともかく、家に帰ってみよしに確かめるまでである。
うずくまる兇状持ちと泣き叫ぶ女将のお民が気になったが、周りの人間が手を差し伸べ店を片付けはじめたので、そこには喜助はいなくても大丈夫そうであった。
喜助は素早くお民のところへ近寄り、手持ちの三両ほどのお金をお民に握らせた。
状況が理解できずに、あっけにとられるお民に
「いつもお酒をありがとうよ。早くお店を再開してくれ」
と喜助が声をかけると、お民は再び大声で泣き始めた。
その声を背中に受けながら、喜助は素早くその場を離れた。
五、
家に帰ると、また
「おかえりなさいまし」
という無機質なみよしの声を喜助は浴びた。
しかし今日の喜助はそれで怯んだりしらけたりする事はなかった。
履物を乱暴に脱ぎ捨て、家に上がると
「今、船場町の物乞いが奉行所に連れて行かれた。家老屋敷に盗みが入ったらしい」
と噛み付くように言った。
「・・・さようでございますか」
そう返答するまでに多少間があったが、みよしはそれだけ言うと何事も無かったかの用にいつもの様に喜助の着替えを手伝おうと背後に回った。
「それだけか」
喜助の語気は衰えない。そこでようやく夫の様子がいつもと違うことにみよしも気がついた様子であった。
「物乞いなど、どうでもよいではありませんか」
「それで、誰が入ったのだ。証拠はとらえたのか」
「玄蕃様の配下が入り、失敗いたしました。危うく捕らえられそうになったので遁走したそうです」
そこまで聞いて、喜助の怒りが頂点に達した。
「なぜわしに相談せなんだ。お陰で・・・」
絶句する喜助に対して、みよしは流れのない水のような平静さを保っている。
「お陰でなんでございましょう。捕まったのは我々ではありませぬ。あなたでなくて良かったと私はほっとしております」
いつもなら殊勝なことを言うと喜助も思ったかもしれないが、あの現場を見たその後でのことである。
喜助はそのみよしの言葉を挑発ととらえた。
喜助が自身の危険を顧みてグズグズしているから、柘植は自分の家の者を使い忍び込ませた。
そしてその結果が関係ない老人が捕らえられるというものであった。
責任は喜助にあるのだ、みよしは暗にそう言っていると喜助は受け取った。
喜助の中で何かが壊れる音がし、羽織を脱がそうとするみよしを喜助は突き飛ばした。
突き飛ばした時にみよしが異常なほど汗をかいているのに喜助は気がついた。
この女でも緊張することがあるのか。
みよしは驚き目をいっぱいに見開き、今まで見たことのないような生の表情をしていた。
このような人間らしい顔もできるのかと喜助は内心驚いたが、表面上みよしを見下すその目は冷たく澄んでいた。
喜助は素早く衣服を脱ぎ捨てると、押し入れから真っ黒い忍び装束を取り出し身につけ始めた。
突き飛ばされた状態から動けずに呆然とそれを見上げるみよしは、あの、あのと口ごもるばかりであった。
そんなみよしに、着替えの終わった喜助は
「わしは、家老屋敷にいく」
と言い捨てると、忍び道具を懐に収め、今にも飛び出さんばかりの勢いであった。
「あなた。今はダメです。昨日の失敗で警備が厳しくなっていましょう」
いつになく感情的なみよしが必死に喜助を制止したが、喜助は何を心にもないことを言うのかと思うだけだった。
「焚き付けたのはそちらであろう」
それだけ言うと喜助は音もなく夜の闇に消えていった。
六、
この三日間で家老屋敷の事はだいたい調べがついていた。
芳川屋はもちろん家老にも贔屓にして貰っているので、実際に中に入ったことも何度もあった。
その時の記憶を元に、何度も忍びこむ訓練を喜助は空想の中で行っており、目をつぶっていても忍びこめるかに思えた。
喜助は家老屋敷の母屋の前の庭に接している塀の外側に佇んでいた。
月は出ていてが、闇に紛れる喜助を遠目から見つけ出せる人間はいないであろう。
塀の外から内側の人の気配を探っていた喜助だったが、やがて危険はないと判断したのか、刀を壁に立てかけると、その鍔を足場に一気に塀の上に駆け上った。
立てかけた刀には長い紐がついており、その紐を引いて刀を引き上げると、喜助は器用に刀を背中に括りつけた。
塀の上から屋敷の庭を眺め、草地を見つけるとそこに音もなく降り立ち、間髪を入れずに母屋の縁側まで辿り着いた。
身をかがめ、縁側の下に忍び込み、家老の部屋に至る道筋を想定する。
しかし、はやり警戒が厳しのか、縁側を伝って聞こえる足音の数は多く、誰にも見つからずに部屋まで行くのは困難に思われた。
ここまで来て戻る訳にはいかない。そういう不退転の決意を隠密が持つのは禁忌である。
隠密とは、必ず逃げおおせなければならないものなのだ。
だが、今日の喜助はそういう心の均衡を失っていた。
隠密として矛盾を抱える日常に嫌気が差し、仮の姿に生きがいを覚え、そして手に入れた安息が無残にも崩されたのだ。
多分に投げやりな気分になっていた。
俺こそが隠密だと大声でばらしてやりたい気分であった。
喜助は、何を思ったか無造作に縁側から這い出ると、そのまま立ち上がった。
そしてそのまま縁側の上を真っ直ぐ家老の部屋に向かって歩き始めた。
このように厳重な警戒網では完璧に忍んで家老の部屋にたどり着くのは不可能である。
ならば一か八か、最短で家老の部屋に行くしかないと判断したのだ。
一つ目の角を曲がり、母屋と離れの渡り廊下の横を横切ろうとした時、喜助は重苦しい風圧を首筋に感じた。
とっさに前方に転んで圧を躱し振り返ると、黒い影が振り下ろす二の太刀が脳天に降ってくるところだった。
しかし、その二の太刀が喜助の脳天に届くことはなく、黒い影は大きな音を立てて横に倒れた。
喜助の振り返りざまに繰り出した、小太刀の居合によって、影は腰からへそにかけて深く肉体を割かれていたのだ。
「何の音だ。曲者か」
影が倒れる音を聞いた屋敷内は直ちに騒がしくなった。
焦った喜助は、そのままの勢いで家老の部屋になだれ込もうとした。
直線的に突破しようと、客間に入いると、そこにはそこには数人の家老の家士が詰めていた。
彼らは直ぐ状況を理解すると、剣を抜き合わせて喜助を囲もうとした。
それを阻止しようと、喜助は先ほど使った小太刀を真ん中の男に投げつけ、男がそれを払う動作をする間に素早く背中の刀を抜き男を斬り倒した。
喜助は囲むために左右に広がった他の二人は無視し、そのまま家老の部屋に向かう。
しかし、次の部屋に入った時喜助を絶望が包んだ。
そこには更に数人の家士が詰めていたのだ。
喜助が間合いを取るうちにどんどん人が集まり、喜助は己の敗北を悟り、自害をしようと刃を自分に向けた。
「させるな、生かして捕らえろ」
その声は聞き終わらなかったも知れない。
自害をしようと刃に首を落とそうとする喜助は誰かにすくい上げられ、いくつかの衝撃が喜助の体を通り抜けて、そして気を失った。
七、
喜助が目を覚ますと、そこはどこかの牢内であった。
秋の夜の冷たいしっとりした空気が、土の床にも石の壁にも染み付いているようだった。
幸いにも手足は縛られていない。
喜助はまだ慣れていない目を頼らずに、壁伝いに牢の四方を周り始めた。
直ぐに角にたどり着く、どうやら広さはさほどでもならしい。
牢番もいないようだ。
次第に目が慣れてきた。
喜助は今度は牢の中央部に目をやった。
すると牢にはもう一人男がうずくまっていた。
喜助は驚いた。
なんとそれは与兵衛老人であった。
「ご老人か。するとここは奉行所か」
誰に言うでもなくつぶやくように喜助が言うと
「そうではない。ここは家老屋敷の私設牢じゃ」
と意外なほどはっきりとした声が帰ってきた。
「喜助か。まさか今日の今日で忍び込んで来るとは思わなんだ。一体どういう勝算があって来たのかの?」
驚く喜助に、与兵衛は容赦なく理解の追いつかない言葉を浴びせる。
「なんじゃ。いつも言っておろう。わしは隠密なんじゃよ。お主の先輩じゃ。お主、まさか本当にわしを狂人だと信じておったのか。みよしから話を聞いてわしを救いに参ったのでは無いのか」
喜助は動揺し、うろたえて上ずった声をあげた。
「つ、つまり、みよしの言っていた柘植様の配下とはご老人のことであったか」
その言葉に落胆したように与兵衛は深くため息をつき
「なんじゃい。てっきりわしを助けに来たのかと思うたら、なら何をしに来た」
と言った。
「ご老人が捕まるのを見ましたので、家老も証拠の処分を焦ると思いました故」
「それで独断で家老屋敷に忍び込んだのか。無茶をするの。みよしの指示を待たんかったのか」
「はい。面目もございません」
「みよしめ。やはり夫を危険な目に合わせる決心がつかなったと見える。しかしそこは却って短慮よ。結果男はここへ参った」
そういうと五兵衛は声を立てずにくっくと笑った。
喜助にもようやく事態が飲み込めてきた。
つまり、与兵衛老人は本当に隠密であり、狂人を装いこの藩の情勢を探っていたのだ。
喜助がここに来る前からこの藩に忍び込んでいる公儀隠密だったのだ。
「ならば、みよしとご老人のご関係は」
「親子じゃ。共に玄蕃様に使えておる忍びじゃ」
なるほど、これで全てがわかったと喜助は思った。
みよしの役割は前任者と自分の引き継ぎであったのだろう。
しかし、前任者の身分を明かさないとは度が過ぎた用心といえる。
現に最初から与兵衛と協力していればもっと他にやりようがあったのではないか。
「お主の言う通り、この前の茶会で証拠の処分を言及した以上、直ぐに証拠を押さえる必要があった。しかし、いくらみよしを促しても、お主を動かそうとせぬ。それでわしはしびれを切らして昨日の夜単独で忍び込んだのじゃ。結果は失敗じゃ。しかも逃げるときに面を見られたらしい。我ながら老いたの」
先ほどのにやけたままの表情で与兵衛は続けた。
「みよしめ、どうやらこの度の使命は難しいと見て、お主を行かせる決心がつかなんだな」
その言葉に喜助は衝撃を受けた。
今まで仮の夫婦を演じていたと思っていたが、あの仮面の下で、みよしは自分の事をそんなにも思ってくれていたのだろうか。
ならば今日の先ほどのやりとりは、親を捨て夫をとる苦渋の選択だったに違いない。
それを無碍に扱ったのは自分自身なのであった。
自己嫌悪に陥り黙りこむ喜助に、与兵衛はいたずらを思いついた少年が仲間に計画を打ち明けるように顔を寄せて言った。
「しかし、同じ牢に入れられたのはこれ幸い。奉行所に入れるとわしが吉弘公毒殺の事に言及すると懸念したんじゃろ。家老屋敷の牢はたった一つそこで、お主とわしは同じ穴の狢というわけよ」
「幸いとおっしゃるか、与兵衛殿、何か策が」
「わしの一番の敗因は、この屋敷の配置に通じていないかったことよ。しかし今はお主がいる。そして、もうみよしもなりふり構わぬだろう」
与兵衛がそう言い終わると、それが合図のように屋敷が騒がしくなった。
「みよし、やりおったか」
「一体なんでござりますか」
「簡単なことよ。いざという時は火を放てと申し付けておるのよ」
与兵衛は垢でぐしゃぐしゃになった髪の毛から、いくつかの金具をほじくりだすと、器用に牢の鍵を開けた。
「屋敷は今火消しで大混乱であろう。お主は家老の部屋の計画書を狙え。わしは火に乗じて撹乱し逃げ通を確保する」
そういうと与兵衛は喜助を置いて闇に消えていった。
喜助も直ぐに行動に移った。
八、
牢を出て屋敷を走る間、喜助は忍び道具を確認したが、自分の道具は全て取り上げられているようだ。
髪の毛に金具を忍ばせていた与兵衛との年季の違いを思い、喜助は思わず苦笑いをした。
屋敷には、今もみよしが仕掛けたであろう石火矢が色々な角度から打ち込まれていた。
火は主に屋根から上がっており、足元は意外と暗く、皆は上ばかり見ている。
これなら忍びの行動の自由は約束されたようなものである。
しかしみよしも思い切ったことをしたものだと喜助は思った。
本来忍びの仕事とは人知れず行うものである。
このような派手な実力行使に出ると、事が終わった後で現地に留まれなくなるからである。
だが、今回は与兵衛も喜助も顔が割れてしまっており、結果がどう転んでもここに留まることはできない。
後は証拠を手に入れて退転するしかないのだ。
塀沿いの影を利用して再び家老の部屋まで忍び寄ると、途中火消しのために支度を整えてる家士を見つけた。
喜助は音もなく家士の背後に忍び寄ると、背中に当て身を浴びせ、気を失い崩れる家士を抱きかかえて音を殺し、寝かせた後おもむろに服を脱がせた。
家士から服と両刀を奪い取った喜助は、火消し用の桶を手に携え、既に焼けている柱から煤をとり顔に塗った。
これでどこから見ても火消しに勤しむ家士にしか見えない。
そのまま真っ直ぐ母屋の中に入ったが、途中幾人か人とすれ違っても、喜助を咎めるものは誰もいなかった。
「火がまわります。お逃げください」
そう触れながら喜助は母屋を奥へと進み、家老の部屋に近づいた。
家老の部屋に至るまでには、既に詰めている家士も無く、一気に近づくことができた。
最後の襖を開けると、そこには紛うことなき鈴井家老が、畳を持ち上げて何かを取り出そうとしていた。
「殿、なぜお逃げになりませぬ。ここは危のうございます」
喜助は家老に声をかけたが、鈴井は畳の下のものに気を取られているらしく、近寄った人間が何者か注意を払っていないようだった。
「ここに大事なものがあるのじゃ。持ちださなければならぬ。手伝え」
鈴井はそう言って振り返った。
しかし、鈴井は喜助の顔を確認はできていないだろう。
振り向く前に喜助の峰打ちが逆袈裟に入ったからだ。
気を失い倒れる鈴井をよそに、畳を蹴りあげ跳ね飛ばし、喜助はその下にある風呂敷包みを取り出した。
中身を確認すると、それは正統派一同の血判状と、藩主の血統を取り戻すための計画書に他ならなかった。
喜助は素早くそれらを包みなおして背中に背負うと、忍びが使う特殊な口笛を吹いた。
与兵衛が退路を確保できていたなら返事をくれるであろう。
案の定短い口笛が三度ほど返ってきたのが聞こえた。
喜助は口笛を頼りに庭に躍り出ると、明るい燃え盛る方とは反対の闇の巣食う方向に迷わず向かった。
その塀際に近づくと、男が二人倒れており、その先には与兵衛が待っていた。
「早かったの。屋敷の周りはやじうまでいっぱいじゃ。ここから塀の上を這って塀伝いに河原町まで抜けるぞ」
そう言うと与兵衛は塀に刺してある脇差しの峰を足場にひょいと塀の上に上がった。
喜助もそれに続いた。
九、
河原町の人気のない路地まで、塀の上を這って逃げおおせた喜助と与兵衛は、そのまま城下町を抜け、国越えの峠に向かっていた。
途中、沢で水浴びをし、火事の煤を洗い流すと、与兵衛は今まで見たことのない威厳のある老爺の姿に変わっていた。
装束も途中の与兵衛のねぐらで大店の隠居風のものに改めると、旅の楽隠居とその従者という体の二人組が出来上がった。
そのまま夜明けの山道を進み、関所を迂回して間道に入り国を抜けると、隠密の連絡用の小屋で伊勢参りの装束に身を包んだみよしが待っていた。
みよしは喜助を見つけると、直ぐに駆け寄ってしがみつき、今まで出したことのないような大声で泣いた。
喜助はただただすまぬと詫びるのみであった。
十年も連れ添っていながら、使命と愛情に間に揺れる妻の気持ちを察することができなかった己を喜助は恥じた。
「親父殿、これでももう栢野の城下には戻れませぬな。柘植様に如何様に報告いたしましょう」
それだけが今の喜助の気がかりである。
「なあに、役目は果たしたのだ。後はお主は御家人塗矢喜左衛門に戻ればよかろうし、わしもそこに同居させてもらおうかのう」
そう言うと与兵衛は豪快に笑い、みよしは少し固い口調で「嬉しゅうございます」と言った。
そのみよしの口調に、単純ならざる親子関係を垣間見た気がした喜左衛門は、やっと気持ちの通じた夫婦なのに、二人で暮らせぬ不満をどう解消するかを考えている。
なあに、貯めた金はみよしがちゃんと持ってきていた。
これで数寄屋でも買って追い出すさ。