♯4
「じゃあ、私はこれで」
「ゆすら先輩は帰られないんですか?」
ゆすらがそう言って手をひらひらと振ると共に階段を降りていた紫が首を傾げた。先を歩いていた錦も顔を覗かせる。
「うん。ちょっと用があってね。
紫ちゃんも錦くんも、またね」
そう断りを入れると、紫が着いてくると言い出す前に別れる。そしてゆすらはまず生物準備室に足を向けた。
「瀬戸先生いらっしゃいますか?」
準備室はその教科の教師達の控え室のようになっている。勿論職員室にも彼らの席はあるが、部屋を持っている殆どの教師はそちらにいる。
準備室のドアを開けると目当てだった一人の男性――瀬戸 和真が顔をあげた。その瞳は髪と同じく真っ黒で、ただでさえ白い肌が、更に際立つ。そこらの女性より綺麗な顔立ちは今日も健在だ。眩しささえ感じるそれに目を細める。これでも以前にに比べれば、大分慣れた方である。
「野々村か。どうした?」
「美術室の鍵借りたいのですが……もしかしてもう帰られるところでしたか?」
瀬戸は帰り支度をしていたようで、その手にはもう鞄が握られていた。
「あぁ。鍵な……はい。」
「ありがとうございます。」
歳は教師になって数年なので30代手前くらいであろう瀬戸は、生物担当の教師である。確か今は藤子や水瀬のクラス担任だっただろうか。瀬戸は2年のときゆすらのクラスの副担任で、美術部の副顧問でもある。
鍵を受け取り、瀬戸と共に部屋を出る。丁度行く方向が同じようなので、一緒に廊下を歩き始めた。
「こんな時間からやるのか?」
瀬戸が腕時計を見ながら眉を寄せた。今の時刻は6時である。
文化祭のポスターをしなげなくちゃいけなくて、と言うと瀬戸は合点がいったように頷いた。
「ポスター?あぁ、文化祭実行委員になったんだったな、野々村。」
「はい。こういうの初めて参加したんですが結構大変ですね」
肩を竦めるゆすらに瀬戸は、ははっと笑った。
「学生の頃は忙しいくらいが丁度いいだろ。全力疾走している間は気付かないだろうが、走り終えてみるとなかなか得るものがあったって分かるから」
「……年寄りくさいですね」
瀬戸の言葉にひとつ瞬きをした後、ゆすらがぼそりと呟く。瀬戸はそれを聞き逃さず、顔を呆れたようにしかめた。
「お前なー。ある程度慣れた途端これだからな。最初のしおらしさはどうした」
瀬戸が指しているのはゆすらの人見知りのことだろう。ゆすら自身は大して自覚はないが、ゆすらは初対面のときと打ち解けた後の態度がかなり違うらしい。雪乃曰く、最初は警戒心丸出しで毛を逆立てていた猫がだんだんと心を許して懐いてくる感じ、らしい。
「そんなに違いますか?」
「まあな。ま、俺は元々聞いてたからそこまで驚かなかったが。
悪いが俺はこの後用事があって帰らないといけないから、居残りしてる先生見つけて返してくれ。出来るだけ早く帰れよ」
瀬戸の言葉に引っ掛かり、ゆすらは首を傾げた。
「? 誰に聞いたんですか?」
「ん?あー……ナイショ」
ゆすらの問いかけに瀬戸が誤魔化すように笑いながら人差し指を口許にもっていった。
「……。」
大の男が『ナイショ』なんて似合わないはずなのに、様になるのが瀬戸マジックだ。下手したら女の自分より似合っていたのではないかという考えを無理矢理頭から追い出した。世の中には気付いてはいけないことがあるのだ。
渋い顔をしていると、別れ道に差し掛かっていた。
「帰り際にすみませんでした。さよなら」
「はい、さよなら」
頭を軽く下げて挨拶をすると、瀬戸がふと立ち止まった。そして良いことでも思い付いたと言わんかぎりの笑みを浮かべる。
「……もしかしたら差し入れがそっち行くかもしれないから、そのときは存分に利用してな」
「はい?差し入れ?」
意味が分からず追求しようとするが、そんなゆすらに構わず瀬戸は帰っていってしまった。
(…瀬戸先生って誰かに似てるよなー)
瀬戸のよく分からない言葉は気にしないことにして、ゆすらは美術室に足を運んだ。
「……あ」
絵の具が足りないことに気付き、我に返った。
蛍光灯の光がひどく眩しく感じてあたりを見回わすと、窓の外が真っ暗なことに気づく。どうやら随分と長い間作業をしていたらしい。
それに気付いた途端、身体がどっと重くなった。軋む肩を回し、天井を仰いだ。瞼を閉じて疲れた目を少し休ませる。
「やっと終わったか?」
「!」
突然頭上からふってきた声に、驚いて瞼を開けると恭一がゆすらを上から除き混んでいた。その存在にも、距離にも目を見開くゆすらを恭一は小さく笑う。
「恭一!?
…ビックリした。なんでここにいるの?」
「うわー、その反応は本当に気付いてなかったな、お前」
ひでぇ、と顔をしかめる恭一の相手などせず、ゆすらは慎重に体勢を立て直す。
「来てたんなら声かけてくれればよかったのに」
そう言うゆすらに恭一は呆れてため息を吐き出した。
「かけた。反応なかったが、まさか本当に聞こえてないとは思わなかった」
絵を描いてるとき集中し過ぎてまわりが見えなくなることは多々ある、らしい。
「あー、うん。ごめん。」
目をそらしながら謝り、片付けを始める。片付け方の分からない恭一は大人しく椅子に座り、背凭れに頬杖をついた。
「にしても、どうしてここに?」
「……瀬戸にゆすらがここに居るって言われた」
暫しの躊躇いの後、恭一は言いにくそうに答えた。彼の言葉に、数時間前瀬戸の言ったことを思い出し、納得する。“差し入れ”だなんて言わずに普通に言えばいいものを。言葉遊びのようなことをしていた瀬戸の意図が分からず首を傾げる。
『居る』って要は送っていけと言われたということだろうか。恭一だって忙しいだろうに悪いことをしたと思っていると、恭一は突然話を変えた。
「……。そんなことより、お前いつまでやるつもりだったんだよ。こんなに遅くなることおばさん知ってるのか?」
「うっ」
恭一が見逃してくれるわけもなく、痛いところを突かれる。鍵だってあまりに遅いと居残りの先生に悪いだろ、と容赦なく指摘する恭一にゆすらが出来るのは大人しくお説教を頂くことだけだ。説教から逃れるために、ゆすらは足早に美術室を後にした。
「瀬戸先生はやっぱりかっこいいよねー」
春先の夜はまだ肌寒く、特に冷え性のゆすらにはなかなか堪える。遅い時間のため本数の少ない電車を駅で待つゆすらの手の中には温かいココアが握られていた。
「……どうした、突然」
「いや?改めてしみじみと」
答えながらココアの缶を頬に当てた。少し冷めたそれは丁度人肌くらいの暖かさで心地いい。
「優しいし、頼りになるし、授業も分かりやすいし、何よりあの顔だし」
「…そうか?結構いい性格してないか?」
そう言う恭一の顔は何か思い出したのか、眉間に皺を寄せていた。同意を得れると思っていたのに意外だなと感じる。恭一は結構瀬戸を慕っているように思っていたのだが。
「だいたい、あの女よりも美形な顔だぞ?」
言い聞かせるような言い方に、むっとなる。暗に隣に立てば見劣りするぞってことだろう。
「分かってるよ。瀬戸先生は鑑賞用に決まってるじゃん。そんな恋愛感情で見てるわけないでしょ」
そもそも相手は先生でしょ、と憮然とした態度でゆすらは缶に口をつけた。恭一は、ふーん、と頷いてゆすらのココアを取り上げた。
「…あっま」
「……。ココアなんだから当たり前でしょ。人のもの勝手に飲まないでよ」
すぐに返ってきた缶を受け取りながら呟く。恭一に悪びれる様子はない。
「甘いもの食ったら心が落ち着きそうだと思ってな」
「…私を犠牲にしてんじゃないわよ」
「大袈裟だな、一口くらいで」
ココアの話じゃない、という言葉の代わりにゆすらは鼓動のテンポを取り戻すため春の夜にひとつ、ため息を吐き出した。
「と、いうこともありました」
「あんた達って一般的な男女と距離感が違うからいろいろ図りかねる」
「何を?」
呆れたように言い放つ雪乃に対し、藤子は卵焼きを頬張りながら首を傾げた。
燦々と降り注ぐ太陽は眩しい。
外で昼食を食べようと言い出したのは雪乃だった。この頃が一番紫外線が強いのだと文句を言いそうな雪乃が珍しい、と思っているとどうやら彼女は人のたくさんいる教室では話しにくいことを話したいらしい。
文化祭実行委員のゆすらは当然がら、藤子は毎度のとになりつつあるが委員長に選ばれ、雪乃は珍しく委員会に入った。そのためこの面子でご飯を食べるのほとても久しぶりだ。
友達は勿論他にもいるが、やはり一番仲の良い彼女達とゆっくり話せるのは嬉しい。
そうゆすらが浮かれていると、開始早々雪乃はゆすらを問い詰め近況報告をさせた。ゆっくりというのは訂正した方が良さそうだ。
「別に特別何かあったってことはないよ。
そりゃ接する機会は少しは増えたと思うけど、基本恭一と役割被ってないし」
ゆすらが基本裏方に徹してるのに対し、恭一は役柄で色々なところに駆り出されるのだ。
会話のが増えたとしても最近の恭一との会話の内容は仕事のことばかりなので、雪乃が期待してる方向には進んでいるとは言えないだろう。
ふーん、とつまらなそうに頷く雪乃に苦笑を溢す。
「まぁ、入った理由に不純なものもあったことは否定しないけど、思ったより楽しくて入ってよかったって思ってるよ」
「それはよかった。
あと、動機が不純だなんて、別に負い目に感じることはないわよ。皆そんなもんよ。私だって委員に入ったのは企みあってのことだし」
そう言い、雪乃はニヤリと悪巧みでもしているような笑みを浮かべた。その笑みにはどこか艶やかさもあるのが流石雪乃である。
雪乃の言葉にゆすらも藤子も頭を捻った。
「企み?放送だっけ」
「私もゆすらも忙しいから時間潰しに、っていってなかったっけ?」
「それもあるわ。けど、私がそのためだけにわざわざ自分から仕事を勝手でると思う?」
雪乃の言葉にゆすらと藤子は間髪いれずに首を振る。そんな彼女達に気を悪くした様子もなく雪乃はふふ、とどこか誇らしげに微笑んだ。
「何仕出かすつもり?」
「えー、ナイショー」
藤子が真剣な顔で問うと、雪乃はふざけたようにキャッキャッと笑いながらかわす。そんな姿がとても可愛らしいのがまた恐ろしい。
雪乃のことなので他人に迷惑のかかることはしないだろうが、他人ではない者は別だ。雪乃の仕出かすことは結果的に良い方向に持っていくものだが、如何せんやり方が力業だ。それを毎回 被るこちらとしては気が気ではないのだ。
普段の見た目通り、落ち着いていて大人っぽい姿とこのように時折顔を覗かせる無邪気な姿のギャップにやられた者は数知れず。これが学校一モテると言われる桐生雪乃である。
微妙な顔をする二人に構わず、雪乃は次の話題に移る。
「そんなことは置いといてさぁ、」
「そんなこと、で終わるといいけど」
藤子が水を指すと、雪乃の視線はその藤子に向けられた
「藤子、アンタまた委員長押し付けられたでしょ」
「……。」
「そうだった!私もそれについて色々言いたいことが」
どこか咎めるような響きすら含ませながら雪乃は呆れながら言った。ゆすらも加わり二人で藤子に詰め寄る。
「…だって立候補する人が誰もいなかったし、推薦もされたし…」
別に悪いことしたわけじゃないでしょ、と視線を泳がす藤子に二人はそうだけど、と渋い顔でため息をつく。
「一学期の委員長は行事多くて大変だから、やりたくないって言ってたじゃない。部活の方にも集中したいって」
「そうだけど、今までやってたから、とか大丈夫でしょ?って言われて…」
まわりに色々と言われて断れなかったらしい。
藤子は真面目で素行もよく、責任感のある質が買われ今までずっと学級委員を務めてきた。それ自体は良いことだ。ゆすら達もそんな藤子が好きだから友達をしているのだが、ものには限度がある。真面目だから思い詰め過ぎてしまうし、責任感があるから全部自分でどうにかしようとしてしまう。素行がいいからまわりに更に上を求められ、藤子もそれに応えようとしてしまう。
だからゆすら達は藤子のことが心配なのである。藤子は陸上部のキャプテンでもあり、そちらの方でも忙しい。この学校の文化祭はほとんどの運動部の最後の大会と日付が近く、文化祭で仕事が山のようにある委員長をする藤子の負担は足し算どころかかけ算の大きさだろう。
「…なんかごめんね」
「!いやいや。責めてるわけじゃないよ!?藤子が大変だから、大丈夫かなって、」
ゆすらが考えこんでいるのに気付いた藤子が謝る。ゆすらは慌ててそれを遮った。
「分かってる。けど、心配してくれたのになって思って」
「……とう、こ…」
大丈夫だよ、というように健気に微笑む藤子にゆすらは瞳を潤めた。そしてバッと藤子に抱きつく。
「うっ…なんで藤子はこんないい子なのかな。天使だよ!いい子過ぎてお姉ちゃん心配だよ
ねぇ、雪乃」
同意を求めてくるゆすらに、はいはいと頷き雪乃はさらりと流す。ゆすらが藤子贔屓なのはいつものことだ。
「藤子、水瀬は何も言わなかったわけ?」
「は?」
抱きついていたため間近で“天使”から漏れた声の高さの転落にゆすらは固まった。先程の穏やかな雰囲気から一転、“天使”から発される不機嫌なオーラに逃げるようにそろりと身を離す。
「なんで今、水瀬が出てくるの?」
雪乃が水瀬の名を忌々しそうに吐き捨てる藤子を気にした様子はない。これもいつものことである。
「その反応から察するに色々言われたわけねー」
「なんて言われたの?」
藤子は一旦唇を尖らせた後、不機嫌そうに口を開いた。
「本当に委員長やるつもりなのか、とかちゃんとやれるのか、とか、断った方がいいんじゃないか、とか。
なんで私のことを水瀬くんにとやかく言われなきゃいけないわけ!?別に水瀬くんに迷惑かけるわけじゃないし、私の勝手でしょ!?」
思い出すと改めて怒りが沸いてくるのか、藤子は行儀悪く弁当に箸を勢いよく突き刺す。この様子だと、水瀬の言葉に意固地になって委員長を引き受けたという部分もあるかもしれない。そんな藤子に二人は顔を見合わす。
「そんなこと言っちゃったの、水瀬くん…」
「相も変わらず…」
いつものコミュ力どこに落としてきたのだろうか。
水瀬の真意もゆすら達と同じだろう。だが、日頃からするに藤子が水瀬の言葉を卑屈に取ってしまうのは考えればすぐ分かることだ。大方藤子の反応で言葉足らずに気付いたものの、弁解するにも藤子は怒って聞く耳を持ってくれなかったのだろう。自業自得だ。
ここで水瀬をフォローしても藤子は信じてはくれないだろう。それだけの実績が水瀬にはある。
「…そんなに、私って頼りないかな…」
それに人は痛い目をみないと学習しないのだ。
「……まぁ水瀬くんの言ったことなんて気にしなくていいのよ」
「そうそう」
天使を泣かせた罪は重い。
せいぜい文化祭あたりで頑張って名誉挽回することね、という雪乃の言葉はきっと水瀬に届いているだろう。
はっくしょんッ
「…こんな忙しい時期に風邪うつすなよ」
くしゃみをした水瀬を恭一は一瞥してまた作業に戻った。
「…それだけかよー冷たい。
きょーいちくん、つーめーたーいー」
「錦、このプリントさ、」
「はい」
恭一だけでなく生徒会室にいる全員の無視にもものともせず水瀬を続ける。
「これはさぁ、風邪じゃなくて誰かが俺のこと噂してんだよ、きっと」
「会長、それ迷信なんですよ」
唯一反応してくれた紫の真面目な言葉に喜ぶべきか悲しむべきか分からない。
「カラ元気うるさい」
恭一の言葉に水瀬はへらへらしていた顔を机にくっつけた。
「……お前、なんでそんな馬鹿なわけ」
「長谷に言われても、」
「はぁ?」
「なんでもないです。
いや、俺も反省してますよ?いや、ほんと。ほんと…」
「錦、お前はコレと同じになるなよ」
「……あ、はい…」
グダグダと唸る水瀬を横目に恭一が言った言葉に、錦はそっと目をそらした。
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