#1
あなたは、私のことを、どう思っていますか?
まだ、――――まだ、私のことを、好きでいてくれていますか?
人の心とは移ろいやすいものだ。
この前まで興味を引いていたものがある日突然どうでもよくなる。徐々に違うものへ移ろいでいく。
恋なんて正にそうだ。
あんなに燃え上がった熱い恋心も、ふと気づけば夢のように散っている。そしてまた、新しい恋心を育てるのだ。
それは人間の本能だ。人間の一生は短い。ひとつのことに何年も、何十年も執着してしまっていは生物としての義務が果たせなくなるのだから。
さて。
告白されて、返事をしていい有効期限とはいつまでなのだろうか。
目の前には真剣な顔をした彼が立っていた。頬を少し赤くしながらも彼は、力強い視線をこちらに寄越す。
私は今まで彼の沢山の表情を見てきた。笑った顔、怒った顔、泣いた顔。家族を除けば、私が一番彼のことを知っているだろう。これは驕りではない。事実だ。
いや、事実、だった。
ひとつ瞬きをしてみるが、彼の表情は変わらない。変わらない光を瞳に宿していた。
知らない。こんな彼、私は知らない。
そのことに愕然とした。
何も言えずにいると、彼は近付き私の手を握った。熱かった。その熱は私の手を容易く覆う。彼の顔を見上げる。いつのまに彼は私が見上げる程に背が伸びたのだろうか。そして彼は意を決したように口を開く。
それは私達の関係を大きく覆すものだった。
その時の私は随分幼く、彼の言葉を受け入れることは出来なかった。いや、受け入れるなんてレベルですらなかった。受け付けることもできなかった。温かいぬるま湯のような居心地のいい安寧の場所にいた私は、彼の気持ちを推し量ることもせず、自分の主張ばかりを押し付けた。
口に出したわけではない。だが、彼はそんな私の気持ちに気付いたようだった。何故なら私は彼と違って変わらないで――変われないでいたからだ。
彼の手がゆっくりと離れていった。その様子をぼんやり眺めていると、彼に名を呼ばれた。名前で呼ばれたのは久しぶりだった。
おそるおそるといった体で顔を上げると、彼は笑った。その笑顔をなんと形容すればいいのか分からなかった。寂しそうで辛そうで泣きそうで、けれどどこか大人びていて。それもやはり、私の知らない表情で。
そして一言。
―――ごめん、忘れて。
そう言うと彼は踵返し、私に背を向けた。最初はそれを呆けたように眺めていた。途中ではっとして呼び止めようとしたが、少し躊躇う。それを何度か繰り返す。躊躇する度に距離は遠くなり、躊躇いは大きくなっていく。
そして、気付いたときには彼の姿は見えなくなっていた。
―――ゆすら
遠くの方から声が聞こえる。その声はどんどん大きくなっていく。誰の声だろう、と覚醒しきらない頭で考える。さらに声だけでなく、物を叩くような音も聞こえ出した。
唸りながら考えると、パッと意識が浮上した。
そうだ、私は眠っていたのだ。呼ばれているのは私の名。この音は、ドアを叩く音。この声は、―――
「いい加減にしろよ、ゆすらぁ!」
「うわぁ!入ってこないで!」
「入ってきて欲しくなかったら、さっさと起きろよ、阿呆!」
聞き覚えのある大きな声が、痺れを切らしたようにドアを開け放った。その声に負けじとゆすらも怒鳴り返す。
起きたばかりの頭が彼――長谷恭一の顔をみて、急速に回りだすのがわかる。ただし、正常に、という訳ではない。自分の状況を思いだし、素早く布団を被る。
「こら!寝るな!」
恭一が布団を引っ張った。私が布団に潜った意味が分からなかったようだ。いや、分かられても困るのだが。
「分かった!分かったから、一回外出てー!」
何か夢をみた気がした。だが、あわたただしい朝にそれは掻き消された。
「うー、最悪ー」
早めに来たため、教室にはあまり人がいない。机に突っ伏し、ボヤいたゆすらを隣の少女がコロコロと笑った。
「今日はどうしたってのよ。今朝は愛しの長谷と委員会だったんでしょう?」
少女――桐生雪乃艶やかな黒髪を揺らし、ゆすらの顔をのぞきこんだ。その目元は細められており、高校生にあるまじき色香を放っている。完全に面白がっている雪乃を少し睨むが、結局ため息をついて視線を落とした。ゆすらが雪乃の茶々を相手にしないことに、雪乃は内心驚く。思ったよりダメージが大きいようだ。
「今日、委員会で朝早くに起きなきゃいけないから、どちらかが遅れたら迎えに行こうって話になってたんだ」
「…あー、展開がみえるわ」
そこまで言っただけである程度ゆすらが落ち込んでいる理由が見当がついたのか、雪乃は頬杖をついて笑った。
「……ご想像の通りです。私がまんまと寝坊して」
「でしょうね~。ゆすらは朝ホント弱いわよね」
「う゛。…で、起こしに来てくれたのだけど…
アイツ、部屋まで入ってきやがった…!!」
ゆすらが机を叩いて唸ると、雪乃はニヤニヤを本格的な笑いに変えた。
「あ、相変わらず、アンタ達、予想を裏切らないわね。お約束すぎて、笑えるわ」
腹を抱えて笑う雪乃に、つい半眼になる。
「笑いごとじゃないよ」
「いや、だって、ぷっ。
いいじゃない、胸キュン、場面じゃない、くくっ」
「胸キュンなんてもんじゃないよ!心臓わし掴みされたようだったよ!血の気が引くよ!
だって、寝起きだよ!普通、乙女の私室に勝手に入ってくるかな!?」
あー、と声を漏らすと、ゆすらはまた机に突っ伏す。自分の寝起きが悪いのは知っている。機嫌は最悪だし。髪ボサボサだし、服はぐちゃぐちゃだし。
朝の無防備な姿を見て、ドキッ!なんて要素はない。ない。そんなものは元々素材がいい子にしか演出出来ないのだ。
「ははは。朝から楽しそうだねー。
ゆすらは天然パーマ気にしてるものねぇ。私は可愛いと思うんだけど」
そう言うと雪乃はゆすらのふわふわした髪に触れる。魅惑的な笑みを向けられ少しドキリとするが、ここで流されては相手の思う壺だ。
「雪乃がね。雪乃に笑いを提供しているわけではないのだけどね。もう、他人事だと思ってさ
あと、こんなん可愛くないですー。私は雪乃みたいなストレートのがいい!」
頬を膨らませるゆすらに雪乃は必死で笑いを堪え、向き直る。ゆすらはの訴えは、無い物ねだりね、の一言で片付けられる。
「で?そんなに落ち込んでいるのはそれだけなの?」
「……そのことで、けんかをしました。」
相変わらず感のいい雪乃に根負けし、ゆすら口を開く。へぇ、と相槌を打つ雪乃から視線をそらす。自分が悪いのは重々承知している。
「けんか……というか、私が一方的に文句を言ったというか、ですね……」
「気まずいのは分かるけどねぇ」
雪乃からの視線が痛い。目は口ほどにものを言うというのをひしひしと体感する。
「……なんで私は恭一相手だとこんなに甘えちゃうかな」
自分が変わらなければ、私達の関係も変わらない。そのことは分かっているけれど、この関係は居心地がよすぎて、まだ踏み出せずにいる。
「ゆすら」
友人と昼食を食べていると、後ろから声がかけられた。振り向かずとも声の主が誰かなど分かる。
何度も…何年も聞いている声。何度も何度も呼ばれている名前。そんなものがきらきらと輝きだしたのは、いつだっただろう。
「なに」
ゆすらは憮然とした態度で振り向く。
そんなゆすらの態度をみて、恭一はため息をつき焦げ茶の瞳のすがめる。ツンと顔をそらしたのは、怒りをみせるためだけではない。
「まだ怒ってんのかよ」
「別に」
互いに睨み合っていると、恭一の後方から、顔を覗かせる者がいた。
「や、ゆすらちゃん」
「あ、水瀬くん」
それは水瀬――生徒会長の水瀬悠人だった。水瀬はレンズ越しに目を細めた。その笑顔は爽やかな好青年を体言化したような完璧なものだが、騙されてはいけない。
「おい、水瀬」
恭一はそんな水瀬を諭すように低い声でその名を呼ぶ。だが水瀬は怯む様子もなく――むしろ面白がるように、はいはい、と返事をした。
水瀬はゆすらの後ろにいる二人――雪乃と柏木藤子に視線をやると、その爽やかな笑みを深くする。その微笑みに対し、口から出ていく言葉は随分と軽いものだった。
「柏木ちゃんに桐生ちゃんも久しぶり~
柏木ちゃん、弁当可愛いね。俺にもお裾分け恵んで」
水瀬の姿を確認した途端藤子の眉間に皺が寄り、手に持っていた箸を握りこんだ。不機嫌なオーラを発するが水瀬には通じない。雪乃は雪乃で、どこか楽しげにニンマリとする。
「水瀬どっかいけ」
「そんなつれないこと言うなよなー。俺の繊細なココロが傷ついちゃうでしょ」
「どこが!」
繊細どころか、毛でも生えてるんじゃないの!と食いつく藤子は、まんまと水瀬の術中に嵌まっている。そうやって剥きになるから、からかわれてしまうのだ
そんな彼女達を眺めていると、名を呼ばれる。誤魔化すことは出来ないらしいと観念したゆすらは、渋々と恭一に向き直った。
「ゆすら、朝は起きなかったお前が悪いんだろ。俺も好きで入ったわけじゃないし」
恭一の小さい子にでも言い聞かせるような言い方にムッとする。駄々を捏ねてる自覚はあるが、そんな風に言われると反発したくなってしまう。
「わかってるよ。…けど、やっぱり部屋に入るのはどうかと思うの。デリカシーが足りないよ!」
「日頃あんだけ人ん家好き勝手しといて、デリカシーも何もないだろ」
恭一がため息を吐き出すと、面倒臭そうに言う。思い当たる節があり、少し言葉が詰まる。
「う、…けど!女の子だから、私!……は、恥ずかしいじゃん…」
羞恥心を隠すように目を伏せるが、なかなか返事は返ってこない。不審に思って視線をチラリと上げると、そこには目を見開いた恭一がいた。
「……恥ずかしい…?」
「ちょっとどういう意味」
心底驚いたという様子の恭一にゆすらの口元がひくついた。自分がが女の子らしく恥じらうのがそんなに変なのか。ゆすらはおもむろに携帯を手に取った。
メール画面を開く。宛名は、
「うわ、なんでお前携帯取り出してるんだよ、ちょ、待て、悪かったって、落ち着け、な?」
恭一のお母さんにチクってやろうとしたことを勘づいたらしい恭一がとめにかかる。その反応は、からかったとかではなく本気で戸惑っていたのだとひしひしと伝わってくる。
なおさら悪い。
「昼休み終わっちゃうわよ?」
神の一声とはこういうことを言うのだろう。それを得たのは恭一だった。
「雪乃ー」
「はいはい。今のは確かに長谷が悪いわね。朝のいざこざは置いといて。
長谷も用事があるんでしょう」
泣き言を言うように雪乃にすりよるゆすらの頭を軽くなで、恭一に促す。恭一はしめた、とそれに乗り話を変える。
「水瀬、用件済ましてからにしろよ」
藤子を構い倒していた水瀬を呼ぶ。水瀬は残念そうな顔をする。そういうことをするからあの藤子に邪険にされるのだ。優等生を絵にかいたような彼女が、あからさまに嫌悪感を示すのは彼にくらいだろう。
今さらだが、彼らはゆすらに用があるらしい。
「本題入るねー。
4ヶ月後の文化祭あるだろ?野々村ちゃんに、実行委員になって手伝って欲しいんだ。」
野々村とはゆすらのことだ。
「私に?なんで?」
彼ら――恭一と水瀬は生徒会に所属している。見た目的には爽やかで利発そうな水瀬は、生徒会長。そして恭一は、その水瀬に引っ張り込まれた形で生徒会書記をしている。文化祭の運営は実行委員を中心とするが、その頭は生徒会だ。
「長谷は副文化祭実行委員長なんだ」
「へぇ、意外。押し付けられたの?」
横で聞いていた雪乃が口を挟む。それに、恭一は渋い顔をし、水瀬は溌剌と笑った。どうやらそうらしい。
「長谷くんは相変わらずお人好しだね」
藤子が水瀬に睨みを効かせながら、同情するように言った。水瀬はそんな視線に少しも臆す様子がない。
「長谷くん、頼りにしてるっ」
「お前……」
水瀬が上手にウインクを恭一に投げる。水瀬がふざけているのはいつものことだが、今日は随分と機嫌がいい。そして、彼の機嫌がいいと、藤子の機嫌が悪い。
「それと、ゆすらが実行委員になるのにどう関係があるの」
藤子が茶番を断ち切るように割って入る。水瀬相手だと、彼女はなかなか強気だ。この傾向にゆすらと雪乃は好意的に受け取っている。彼女は自分のペースが乱され、苦く思っているだろうが。
「一番は人手が足りないからなんだけど、委員会での長谷達ふたりの働きがあまりによくてさぁ、気に入っちゃったんだよねー」
誰が、と雪乃が尋ねると水瀬はニヤリとし答える。
「先生、とオレ」
「元凶お前かよ」
恭一も知らなかったらしい。
「野々村ちゃん、お願い出来ないかな?野々村ちゃんに実行委員やってもらうと、すげぇ助かるんだけど」
この通り!と水瀬は頭を下げる。ゆすらは戸惑い、視線をさ迷わせる。藤子は「嫌なら断ればいいのよ。」といい、雪乃はにこりと笑みをみせる。
ゆすらが恭一にチラリと視線をやるが恭一に反応はなかった。そんな彼に少し怯む。
「うん……どうしよう」
別に、委員になることが嫌だというわけではない。目立つのは得意ではないがイベント事はそれなりに好きだ。高校最後の文化祭。どうせなら、完全燃焼するのもいいかもしれない。
そこまで前向きなのに関わらず、なかなか頷くことが出来ないのは、
(動機が不純だよね…)
委員をやってもいいと思う、一番大きく占める理由が、彼にあるからかもしれない。そんな小さな後ろめたさが邪魔をする。
「野々村ちゃん」
ゆすらが決めかねていると、水瀬が先程までの軽い笑い顔を引っ込め、顔をゆすらに近付けた。
せっかく顔がいいのだか、日頃からまともな表情していればかなりモテるだろうに、とその時悠々と考えていたのは雪乃だけだ。
水瀬は、ゆすらの耳の横に口元を寄せた。
「――――――。」
ゆすらは自分にしか聴こえなかったであろう水瀬の言葉に目を見開いた。
するとどうだろう。先程までの迷いはどこへやら。ゆすらは力強く頷いた。
「委員、します!よろしくお願いします」
「わぁ、やったぁ。助かるよ~」
突然態度を変えたゆすらに周囲が顔を見合わせる中、水瀬はにっこりとして、よろしくね、と食えない笑みを浮かべた。
次話5/11更新予定