断章『翳りの幸福』
オトナなシチュエーション有
「ねえちゃんっ!」
弟分の声に、娘は振り返った。
「アート」
「どこに行くの?」
娘の腰あたりに小さな体がぶつかる。
そして、そのまま抱き付いて離れない弟分に、娘は苦笑した。
「そう遠くない場所よ。夜には帰るわ」
「行っちゃだめだよ。こうしゃくが、いじめるんでしょ?」
弟分の言葉に、娘は虚を突かれたように目を見開く。それから、困ったように笑った。
「苛められてなんかないわ。アルフィー様には、良くしてくださっているのよ」
「だって、にいちゃんが、きたなくなったって言ってた。こうしゃくのせいだって」
娘は、ただ優しく微笑んで、弟分の頭を撫でた。
「物好きだね。君は」
「聞いていらっしゃいました?」
弟分を宥めすかして寂れ果てた門をくぐった娘は、今にも崩れ落ちそうな塀にもたれる男を見つけた。
男の赤銅色の髪は、綺麗に撫でつけられ、一目で男の所属する階級が分かる衣服は、娘が身に着けているそれとは品質に雲泥の差がある。
魔の森に近しい、弾かれた者達が身を寄せる一画で、男の姿は酷く異質だった。
儚く笑う娘に、男は徐に手を伸ばす。
日々の生活の中で荒れて節くれだった娘の手は、優雅で醜悪な夜会を泳ぎ回る淑女達の手とは、別物のような触り心地である。それでも、躊躇いなく取られた掌の温もりは、男を満足させるものだった。
空気が動いた、というよりも、空間が揺らぐ、と言った方が正しい、奇妙な感覚。
男と娘の周囲は、古ぼけ傾きかけた建物が建ち並ぶ、埃っぽい道端から一変した。
気品高く落ち着いた雰囲気の室内。窓硝子は兎も角、卓や戸棚に至るまで、近くに寄れば顔が映るほど磨き抜かれている。家具はもちろん、飾られた小物に至るまで、一つ売り払っただけで、娘が家族と共に数年は暮らしていける金になる。
男の屋敷を訪れる度に、娘は夢を見るような心地になる。
移動に使用している魔法というものにも、男の生活にも馴染みがなさ過ぎて、どうにも現実として把握できないのである。
「けなされて、貶められて、それでもどうして、帰ろうとするのだい?」
「私は選びましたから。仕方がないことですよ。——それに、下を見ると案外きりがありませんし」
娘の眼差しは、ただ静か。
取捨選択の権利は数少なくとも彼女の手の中にあり、娘は覚悟と共に現状を掴み取っただけだ。
男の手が、娘の髪を括っている粗い麻糸を解いた。
以前と比べ艶の増した濃い目の茶色の髪を、男の指先が滑っていく。
「囲われる花より、抱き人形の方がましだと?」
男の声は平坦で、赤銅色の瞳が宿す感情は、娘に窺い知ることができなかった。
「貴方は、私の自由にさせて下さるでしょう? 普通は、素養のない人間に初歩的なものとはいえ魔法の使い方なんて教えません。——お陰様で、火種に困らないので、大助かりです」
冗談めかした娘の言葉に、男は無邪気な顔で笑った。
「君には、皆無よりましな程度の素養があったからね。『教会』秘蔵の聖具でもあれば、君でも星無時の魔物からの自衛もできるだろう」
男の掌が、娘の頬を撫でる。
「……出来れば、夜も共に過ごしたいのだが」
「夕飯の支度までには帰らせて下さい」
笑顔で拒絶する娘に、男は苦笑した。
「いやはや、つれない」
男は娘を抱き込むと、互いの唇を重ねた。




